百六十六記_秘聴
——ニ〇ニ四年、八月一日
——とある邸宅
家の中は薄暗い。自然光をより多く取り込むために作られた大窓はカーテンで閉ざされ、その隙間から僅かに漏れ出ている光がかすかに部屋を照らしていた。中にいつもの喧騒はなく、クーラーとシーリングファンだけが静かに駆動している。
家主は家屋に隣接する事務所で仕事、その妻は友人と出掛けており、子供は皆学校に通っていた。つまりは家には人っこ一人居ないはず。しかし、家の中には何者かの姿があった。
彼らは慣れたように堂々と部屋の中を物色している。
「アリムラ、そっちはどうだ」
「回収しました。仕掛けたのはこれで最後のはずです」
「だったら、ずらかるぞ。あまり長居はしたくない」
強盗だろうか。おそらく主犯と黙される男がキッパリという。手下と思われる相手が頷きを一つ返すと彼らはその邸宅を足早に去った。
彼らはまるで自分たちが来客であるように大腕を振って、門構えを取り過ぎるとコンクリをカツカツと鳴らす。しばらくするとコインパーキングが見え、その中の一台の車の中に消えた。
バタンとフロントドアが閉まると男はシフトレバーに手をかけ、エンジンを作動させる。
『こちら、セキ。カトウ、防犯カメラのカモフラージュの解除を許可する』
セキと名乗る男は隣に座るアリムラからトランシーバを受け取ると、無線の先にいる誰かに命じる。応答を得ると彼は駐車場から車を出した。
* * *
「いや〜、毎回ヒヤヒヤしますね。バレたら違法でしょ、先輩」
住宅街から大通りに出たところで緊張が解けたのか、年若い青年は程よく癖のついた髪を掻き上げながら、座席にもたれた。
「気を抜くな、アリムラ。…それとこれはグレーだ。明確に違法じゃない」
セキはハンドルを握り、前を向いたまま答える。横でくつろぎ始める彼とは違い、堅物にように見える。頬には皺がより始めており、年配なのは明らかだった。
「でも、不法侵入は流石にアウトでしょ。傍受の法律は通ってるかもしんないけど」
セキの言葉にそう返すも、事柄に興味はないようで予め買っておいたスナック菓子を足元のビニールから取り出す。しかし、中老の男は真面目なようで質問に明確に答えた。
「多少の違法性よりも今は守らなければいけないことがある。法律を守っても国が食われちゃしまいだ。…ロサイズムにはそれだけの力がある」
「あ、ちょっ、桐木さん!」
アリムラが声を荒げる。ハンドル片手に中年の男が取り上げたのだ。男はフンと鼻息をついてから言い放つ。
「潜行中に本名を呼ぶな、馬鹿が。そんでお前は菓子食う前にやることあんだろ?」
セキは空いた左の手で助手席に立てかけられたバッグを指差す。
「…へーい」
青年は露骨に不満を漏らしながら、地に横たわるバッグに手を掛けた。取手を持ち、膝まで引き上げるとチャックをオープン。中からは一台のノートパソコンが取り出された。
「えーっと、SDは…っと」
パソコンを膝の上で開いたアリムラは腕を目一杯伸ばして足元に転がる袋を引っ張り上げると、グローブボードを展開してその上に中身を出した。
出てきたのは先ほど回収した特別性の録音式盗聴器。サーモグラフィによる熱感知が不可能なほどの発熱かつ省電力で動くという優れものだ。
「逆の方が楽じゃねえか」
目端で彼の動向を見ていた桐木が小言を言う。逆とは盗聴器を先に出して、パソコンを後にするということである。
「五月蝿いなぁ…。中年特有の後出しうざったいての」
これまた歯に衣着せぬ物言いをするアリムラ。どうやら彼には年長を敬う概念がないらしい。最も桐木は特に気にする様子もなかった。
「歳食ったら、若え奴には小さえ事からでけえ事まで何でも口出したくなるんだよ、中年ってのは『俺が若ければ…』っつう幻想に支配されがちだからな」
彼は「どうせそんな力も無いくせによ。無駄に賢しくなったせいで妄想ばっかが捗っちまう」と言葉を締めた。
「…俺はあんたのどっか諦めたり、割り切った感じも気に食わないけどね」
青年は盗聴器から一枚一枚、ハブに挿してはデータを移行する作業をしながら、ポツリと零す。アリムラからすると桐木はもう少しデキるのではと感じるところではあったのだ。
彼の公安調査員としての能力は高い。
四十七という年齢にも関わらず、アリムラを始めとする若者を一対多で制圧できるだけの実力を持ち、拳銃の腕も十五メートルの距離で命中率八十という脅威の数字。さらに分析力も群を抜き指揮力も高い。それに時折、鋭い直感が働く。挙句、武器や装置の開発まで監修するのだから非の打ち所がない。
彼以上の調査員は片手で数えるほどだとアリムラは考えていた。
…戦闘能力じゃあ、同期に飛び抜けた天才がいるけど
『三宅宏昌』
彼の脳裏に浮かんだのはこと単独行動において当代最強を言わしめた男だった。最近でも『老虎蛇』なる中華マフィアの戦力をほぼ単独で半壊させたと風の噂で聞いていた。
…独断行動が原因で地方に飛ばされるらしいけど
アリムラは他愛もないことだと思いながら、録音データをとあるソフトに取り込んだ。それは最近追っているとある男の音声を抽出するためのソフトウェアだった。
データの吸い出しが終わると彼は首に掛けているヘッドフォンを被り、前後の会話を録音データから拾いながら、動きを追い始めた。慣れた手つきでキーボードやトラックパッドを操作する。それが分析官である彼の仕事だった。