百六十二記_兆し
「はぁ…。はぁ…。はぁ…」
肩で息をする。火事場の馬鹿力も消失し、体には重い倦怠感が残る。正直、ここで仰向けになり、寝てしまいたいくらいだった。リザードマン(仮称)との戦闘はそれくらい壮絶だった。ただそう思ったところで俺は上体を起こす。
どうやら危機管理能力は正常のようだった。ふらふらと立ち上がった俺はライトでどこかに置いたリュックを探す。幸いすぐに見つかった。俺は取手を持って軽く持ち上げると怪物の骸の近くに陣取る。腰元の電灯を取り外し、地面に立てる。それから俺はリュックからケミカルライトを一本取り出すとポキリと折って周囲を探った。
…あった
それはリザードマンを倒す間際に手放したサバイバルナイフ。今日開けた新品のはずだが、真新しさは見る影もない。刃はガタガタで鈍と化し、表面にも数多く傷が残っている。
…これ二万くらい。…確か一万九千八百円
高校生の俺にとって二万ははした金ではない。いや、成人したとて一ヶ月の食費くらいにはなるから大きな金だ。それが一日でガラクタとはこれ如何に。
…はぁ
俺は無惨な姿になったナイフを手に大きくため息をつく。ただ、これは分かっていたことだ。拾いに来たのは別の理由からだった。俺は踵を返して再び遺骸の元へ戻る。
「悪いな」
俺は絶命した異形に手を合わせてからその尾の付け根にナイフを振り下ろした。カンと甲高い音が鳴る。腕は反動で弾かれ宙を舞う。力の抜き方を間違えれば、怪我をしてしまうほどの衝撃だった。
…罅は入ったか
俺はその動きを繰り返す。ただ繰り返す。脳は重たいし、体は鈍い。それが切断されたことに気づいたのは、音の変化だった。鱗を通過し、骨を叩き切り、再び強く弾かれた。地面の岩に当たったのだ。
…終わったか
俺は肉の方から刃を入れて、幾らか鱗つきの皮膚を剥ぎ取るとリュックの中からビニール袋と新聞紙を取り出す。尾と鱗をそれに包んで縛ってからリュックに放り込む。
…今日は帰ろう
『アトラスの紋章よ、天と地を支えし巨人の力を持って他の世界へ続きし扉を開け』
俺はポケットから『例のカード』を取り出し、詠唱すると虚空の中に身を投げた。
* * *
…っ!
頬を何かが撫でている。俺は微睡を感じつつも体を起こす。鼻でできる限り空気を吸うとそれを口から吐き出す。すると意識が少しずつ明瞭になり始めた。
辺りはすでに暗く、地平線の太陽が夕暮れを告げていた。周りを見渡すと茂みや大小の木々が連なっているのが分かる。『森』だろうか。
徐にズボンの後ろポケットに手をやり、スマートフォンを取り出し起動する。電波は一本しか立っておらず、不安を感じたが、マップのアイコンをタップすると現在地が表示された。
『|霞市』
隣県『埼玉』の端だ。運のいいことに駅はここから四十分程度の場所にあり、電車で一時間もあれば家の最寄り駅に着くことが分かった。ついでに俺は今、切り開かれた山中にいることも判明する。
「…っしょっと」
直前の記憶は『扉』を使ってラビリンスを出たこと。緊張の糸が切れたからか、その後すぐに気を失いここで倒れていたようだった。
…そもそもあれは現実だったのか
トカゲの頭がついた人型の獣。相手は明らかに手慣れていた。戦闘経験は確実に俺より上だ。そう考えた時、頭の中にあの警官の姿がチラついた。
そう。あの時と同じだ。ズブの素人のはずの俺が格上相手に事を成している。必死になったら人は思わぬ力を発揮するというそれだろうか。
ただ背に感じる重みは確かだった。チャックを開くとそこには新聞紙とビニール袋に包まれた戦果がある。俺はリュックを背負い直すと駅へ向かって歩き始めた。
自宅に着くと時刻は二十時。俺は家の裏手に回ると庭の水道で持ち帰った蜥蜴の素材の細かい肉をそぎ落としながら綺麗にする。その際に出た肉片はラットの死骸に混ぜて、翌日の『燃えるゴミ』で出せるように計らう。改めて新聞で素材を包むと俺は上腕まで丁寧に石鹸で洗って家へと入った。
まだ母は帰っていなかった。俺はこれ幸いと汚れた服を洗濯に回し、シャワーを浴びる。ちょうど浴室から出ると玄関から『ただいま〜』と呑気な声が響いた。
「あれ?なんか洗濯してんの」
「ほら、夏場汗かくじゃん。だから、さ」
「ふ〜ん」
手を洗いにきた母は特に気にする事なく、返事をすると居間の方へ消えていった。
俺はその日普段通りに夕食を食べると早々に寝に就いた。