百六十一記_洗礼
ピタ。
粘り気の強いものが張り付くような音がした。俺は凄まじい勢いで思考の海から引き上げられ、辺りを注視する。緊張が走る。瞼は自然と見開かれた。
…どこ、どこからだ
耳を澄ます。首を、肩を、眼球を目まぐるしく回し警戒する。刹那、目端で何かが光った気がした。
反射的に体を丸めて後ろへと飛ぶ。その瞬間、白銀の軌道が先まで俺が立っていた場所を捉えていた。俺は滑る体を前傾にしバランスをとりながら、顔を上げる。
俺は目の前の光景に仰天した。腰元のライトで照らし出されたのはまさしく異形と呼ばれるものだった。蜥蜴だ。しかし、四足で地を這うことはなく、二本足で立っている。人の指ほどの大きな爪が生えた腕をだらりと下げた体勢でこちらを見据えていた。
…リザードマン
脳裏に浮かんだのは架空の生物。ファンタジー系のゲームやラノベに出てくるアレだ。空想に描かれた幻獣の姿が眼前にあった。
…これが異世界
殺されかけた恐怖よりも僅かに関心が勝った。だが、そうもしていられないと頭を振る。相手の目には見覚えがあった。先日のラットと同じ目だ。相手と獲物として捉えている。
…逃げるか
即座に浮かんだ思考を掻き消す。ここまで近づくまで気配の一つも感じなかったのだ。目視してもそこにあるという感じがまるでない。その佇まいは暗殺者を彷彿とさせた。
ゆるりと力の抜かれた立ち姿。けれど、隙があるわけではない。俺とリザードマンは一刀一足の間合いで見やっていた。そのしじまが俺に僅かながらの冷静さを与えてくれた。もしかしたら、完全な不意打ちを避けられたことでこちらを危険視してくれたのかもしれない。
…戦うしかない
幸い、辺りに他の気配…いや、殺意はなかった。だからと言って安心は出来ないのだが、そこは割り切るしかない。俺はリュックの右ショルダーを静かに外し、右手を腰元のナイフホルダーに伸ばす。
どさり。
瞬間、白銀が煌めいた。俺はナイフを引き抜き様に横に構える。それは相手の左手と交錯した。ナイフをそこに置いたのはただの勘。俺は刹那の中で冷や汗を掻く。しかし、一呼吸の間もなく右手の突き上げが俺に迫った。拮抗する左手をナイフの腹でいなし、転げるようにして相手の右脇を抜ける。
俺はすぐさま時計回りに反転。中腰で空いている左手をズボンのポケットに伸ばす。中には反応済みのケミカルライトがいくつか入っている。俺は根こそぎ取り出すと力任せに一帯に放った。
…せめてもの光源。足の一つも見えれば僥倖だ
その時、薄暗闇となった空間に何かが俺へと伸びた。顔面へと向かうそれをナイフで力強くかち上げる。空中でぐわんと弛緩したものの末端にあの怪物の姿があった。
…尻尾
尾の先には骨が露出していた。非常に硬い。反射的に振るった腕の痺れがそれを物語っていた。両手の爪に尻尾。それに肉食動物特有の鋭利な牙もある。もしかしたら、口での噛みつきをしてくるかもしれない。攻撃手段は実に豊富だ。
…疾さは慣れてきたけど、実質腕三本はずるくないか?
えっ。
俺は心中のボヤきにギョッとする。「慣れてきた」?とんでもない。冷や汗かきながら攻防を演じているに過ぎない。終始、相手有利のように思える。
純粋な能力さだけではない。度胸や場数。純粋な戦闘経験に理不尽なまでの差を感じていた。
リザードマンがこちらに向かって突撃してくる。両手と尾による隙のない攻撃。ナイフで逸らし、体を捻り、足を叩きつけ…考える間もなく体を酷使し続ける。
明らかな脊髄反射。脳の容量はすぐに限界を迎えたが、それでもなお齎される戦闘データ。身体と意識の不一致。本来なら、繋がっているはずの感覚が独立しているように感じる。
普段は感じることのないチグハグさに俺はすぐさま気持ち悪くなった。体は相手の攻撃に対して応戦し続ける。それをやめると死ぬことが本能的に分かっているからだろう。
…アレ
その時、ふと気づく。自分の体調を記述し続けている自分がいることに。
…まさか
俺は一つの仮説を立て、実行する。すると先ほどまで感じていた気持ち悪さが嘘のように軽くなった。普段とは桁違いの情報を日常のように全て処理しようとしたから、機能不全が起こっていたのだ。俺は視覚、聴覚、嗅覚、触覚の四つを一時的にシャットアウトした。理解すべきものから見えているだけのものに格を落とした。
その中から、必要そうな情報を汲み取る。言わば、ゲームの前衛と後衛だ。自身の中に実行役と戦術役を設けることで情報の氾濫から脱することが出来た。
すなわち『疾さは慣れてきたけど、実質腕三本はずるくないか?』という問いは体から発せられたものであって脳から出たものではなかったのだ。だから、俺は吃驚したのだ。
…そうと分かれば
俺は戦闘を注視する。リザードマンの皮膚には浅い斬撃がいくつも入っている。だが、決定だとしては弱い。俺の体にも切り傷はあるが表面を引っ掻かれたようなものだった。
…強く
俺は命じる。すると体は相手の攻撃を避けた後、深々と前傾し鋭い突きを前腕に見舞った。
ガギン!
金属同士がぶつかるような高周波の音が鳴り響く。全身を覆う鱗があまりに硬い。今の攻撃で数枚剥がれたが、それまでだ。右手に持つナイフに目をやるとブレードの部分が乱反射していた。今までの攻防の中で爪や鱗と激突した結果だろう。所々、欠けも目立っている。
…このままじゃジリ貧だ
戦闘は拮抗している。けれど、こちらの武器の損傷具合が大きすぎる。相手の主武装である両手の爪と長い尻尾は未だ健在だった。さらに持久力の問題もある。この水準の戦いを俺自身がどれだけ続けられるのか、全く検討がつかない。
…決定打になり得るもの
俺は脳裏で胡座を掻いて頭をうんうんと悩ませながら、改めて相手を具に観察する。視界の中で二重になる相手の体を凝視する。動作に合わせて眼を動かし、なんとか視認に至る。
そうして相手の全身を隈なく調べるとリザードマンの目元、ちょうど下瞼の辺りに他より鋭い切り傷が走っていることを発見した。
…あれは何の傷だ
古傷…ではない。その切り口からは僅かながら出血し、頬に赤い線を作っている。俺との戦闘が長引いていることを考えると、この戦いでついたものと考えることが自然だ。
…しかし、どこで
これまでの戦闘を反芻しようとした刹那、答えは現れた。迫る尻尾を受けるように構えられたナイフがそれと衝突した瞬間、切れた。欠けるのではなく切れたのだ。少しであるがブレードの部分に縦筋の綺麗な断面があった。よく見ると欠けた刃の中に幾つか同じようなものが見て取れる。
…そうか
刹那、一つの策を閃く。主導権を『意識』に戻す準備を整えて機械をうかがう。
…まだ…まだ……今!
自分が体に溶け込むとグラつきを覚えた。やはり、相当の疲労が蓄積していたのだ。瞳で迫る貫手を追いながら、頃合いを見計らい、体を沈ませる。極度の変重心で左足に溜まった力を放出し、相手の後方へ。その最中にナイフから手を離す。移動した俺はすぐさま身を翻すと相手の背に向かってかっ飛んだ。
…っ
しかし、怪物に油断はない。いつの間にか引き絞られていた尻尾がとてつもない勢いで俺の方へと射出される。空中で身を捩り、紙一重で躱しながら相手の背に右足を叩きつける。
瞬く間で地に伏せられた異形の顔には困惑の色がある。だが、これで終わりではない。
俺は両手で尻尾の半ばを持つと反対方向へと捩じ切った。途中、骨が擦れるような鈍い音が響いたが、構うことはない。そのまま腕で先端を手繰ると鋭利な尾を喉元に突き刺した。
傷が喉を貫通したにも関わらず、リザードマンの体はしばらく抵抗した。それを全身で踏ん張るとやがて身を震わせて静止する。
俺は尾から手を離すと二、三歩後退した後、その場でへたり込んだ。