百五十七記_紋章
——同日、夜
何とか家に帰り着くことができた。正直なところ走りたかったが、変な事をすると目立つ。普段はどうしていたかを考え、意識的に模倣する事を強く意識した。
…はぁ
鍵を開け中に入ると安堵が込み上げる。体力的にはどうという事はないが、精神的にひどく疲弊していた。何せ、警察と相対したのだ。相手は公安か定かでないが、とにかく心中穏やかではなかった。
…いや、こうしちゃいられない
疲れたから休む。そんな余裕はすでにない。
警察に認知された。その事実が不味い。廃工場でも思ったが、俺が捕まるかは秒読みの可能性が高い。それまでに真実に至らなければならない。
…手がかりはこれ
俺はリビングで水を一杯だけ呷ると二階の自室に駆け上がった。即座に取り出したのはあの廃工場で見つけた何らかの言語で著された『日記』だ。それを机の上に置くとパソコンの電源を入れた。椅子に座ると日記から読み取れる文字をメモし始める。それを片っ端から検索にかけるのだ。
「vir , is , est , ego , rosaism , regina , puella , labyrinth , puppa…」
ラビリンスはすぐに分かった。迷宮だ。他も調べるとすぐに出てきた。どうやら、この日記はラテン語で書かれているらしい。なぜ廃れた言語で書かれているのか不思議だった。隠したいのなら、暗号の方がよっぽど強力だ。いや、日記だから自分用。はなから隠す気などないのだ。死語が使われている理由は気になるが、そんな事は後回し。俺は黙々と解読を始めた。
日記が書かれ始めたのは二年近く前。新失踪に関して触れられているのは三月上旬から。
そこから数行ずつ新が失踪した一日前の『6/16』まで連なっていた。
読み取れない所や検索に引っかからないところは飛ばしながら、キーボードを打ち続ける。カタコトの日本語を意味が通るように解釈し、また次の文へ。それの繰り返し。
いつの間にか母さんは帰っていて、夕食の時間になっていた。
俺は夕食を掻き込むと、すぐに部屋戻り、解読の続き。
英語と同じで常用語は案外少ない。深夜に差し掛かる頃には所々、推測が立つようになってきていた。分からない単語だけ調べれば、意味が分かる。ただ内容が奇想天外で頭を抱え始めていたのだが。
まず、この日記の持ち主は『rosaism』と呼ばれる団体やら組織やらに属しているらしい。そして『labyrinth』と呼ばれる何処かから『regina』の命を受けて、従者の『|puppa servilis《隷属の人形》』を伴って、こちらの世界『|mundus verus《真の世界》』にやってきた。
この時点で訳が分からないが、何度も出てくる以上『こことは別の仕組みで運行される世界が存在し、そこから人攫いがやってきた』と解釈するしかなかった。
命は『山神新の奪取』。ここについては詳しく触れられていなかった。関連性も不明だ。
ただ著者は『|regina est ego《女王は我儘だ》』と零している。
下調べは入念にしていたようで新が何曜日に何をしているかも細かく記されていた。あいつの行動は単純だ。日の気分によって変わることは滅多にない。学校と近所のスーパー、家。用事がある時でドラッグストア、ケーキ屋、尾後医院くらいのものだ。
実際、『forum』『domus』など行動範囲に纏わる言葉も確認できた。それを踏まえて拉致する計画も立てられている。『2024/06/17』に決行し、基地を解体した後ラビリンスに帰る手筈となっていた。
しかし、そこで俺は違和感を抱く。それなら何故基地は原形を留めていたのか。
一つ、拉致は失敗に終わった。
一つ、拉致したのは良いものの、計画に狂いが生じ、慌ただしく帰りざるを得なかった。
「ん〜」
俺は上唇と鼻の間にペンを挟んで唸る。ここでまた手詰まりだ。
…そういえば、後ろの方にデカデカと何か書いてあったよな
宙に視線を走らせているとふとそんな事を思い出す。日記を持ち上げ、右から左に指を動かすとページが勢いのままに舞う。俺はある所で送るのをやめた。それが書かれていた場所をおおよそ覚えていたからだ。
『Diligens!!』
大した事じゃな——。落胆しかけたその時、脳裏をある記憶が瞬いた。
…そうだ。あのカード
俺は改めてページを捲り、例のものを探す。…ない。俺は机の上に目をやった。紙が乱雑に折り重なっている。その只中に目当てのものはあった。どうやら、日記を調べるときにどかしてそのままになっていたらしい。
…確かこれにも言葉が
『Crimos atlas , vis gigas sustinendi caelum et terram habet , portam sequndi mundum alie aperi』
「アトラスの紋章よ、天と地を支えし巨人の力を持って他の世界へ続きし扉を開け、か」
四苦八苦しながら解読する。日記の短文と違ってかなり長い文章だった。思わず、日本語として意味が通ると口に出していた。刹那、湧いた満足感。しかし、俺はかぶりを振った。何の手掛かりにもなりはしない。
『念入りに』という言葉の真意は気になるが、やはりただの栞か何かだったのだろう。
俺は日記と違って徒労に終わったカードの解析結果に落胆し、一息ついた。途端に肩や背中の凝りを意識して、思わず立ち上がる。
その時だった。部屋の端が欠けていた。比喩ではない欠けていたのだ。部屋を支える柱を中心に円形の歪みが揺れている。目を凝らすと暗闇の中に起伏のような物が見えた。
…なんだあれ