百五十五記_秘密の小部屋と来訪者
俺は身を翻し、メモとりをしていた場所へ戻ることにした。気が狂っているのは自覚している。一度、座って気を落ち着けなければ。そう思ったのだ。
その時、何かにつまづいて転んだ。足元が疎かになっていたらしい。起き上がると下には長方形の欠けた煉瓦が落ちていた。
…今日は厄日かナニか
身を屈めてそれを手に取るとピッチャーがボールを投げる要領で壁へと思い切り放った。いい気味だ。数瞬の後に断片と化す。鈍い音が木霊した。だが、それだけでは終わらなかった。
ガラ。
何の事はない。ただの音だ。探索中も時々聴いていた何気ない音。首を横に振り、淡い期待を否定し目指していた場所へと歩を踏み出した。幸いそう遠くはない。あっという間に辿り着くとリュックサックに手をかけた。苛立った時は甘いものが効く。持ってきた携帯食を食べようと思っていたその時、再び音が響いた。
ガラ、ガラ。ガラガラガラ。
聞き間違い…ではない。小岩が次々と転がるようなそんな音が耳を劈いた。音は加速度的に大きくなり、しばらくして止まった。俺はリュックを片手に恐る恐る音源へと近づく。
本来、光が反射するはずの位置でそれは暗闇に呑まれていた。突如として現れた穴はアーチ上の門の形となって崩れている。小岩が外側から内側ではなく、内から外へと転がり出ていることから俺の投擲が直接的要因でないことがわかる。
ライトを掲げ、中を照らすとそこは小部屋になっていた。間違いなく幼少の頃、俺たちが終着としたあの部屋だ。
ただ様相が少し違った。あの時は錆びたインテリアに数々の寝台、壁は打ちっぱなしのコンクリート。しかし、目の前に広がるのは平たい石が幾重にも積まれた壁に西洋風の家具…机と椅子、そして小部屋の中心に吊り下がるランプ。寝台は新しいものが一つだけ。数多あったそれの代わりに幾つか棚が置かれている…明らかな生活感が感じられた。
周囲を警戒しつつ、のそりのそりと足を動かす。一歩、また一歩と小部屋に足を踏み入れていると、ボッと中心のランプに灯りが灯った。張り詰めていた体がびくついた。ただ、数秒経ってなにも起こらないことを確かめると弛緩する。まじまじとランプを見つめるとガラスの中で揺れる炎が瞳に映った。電球ではない、焔だ。いま時代に珍しいものに惹かれながらも自分を押し留める。
…案外、仕掛けは電気。センサーの類か
だが、それならセキュリティの一つも発動して然るべきだ。闖入者を脅かすために警戒音が鳴り響いてもおかしくはない。
…いや、この部屋に入ることがまず出来ない。それが最もな対策か
どんなシステムでここが隠されていたのか、俺には皆目検討がつかなかった。偶然、物に当たり散らして見つけたのだ。俺は腰元にライトを戻してその部屋を物色し始めた。
まず、目に入ったのは木製の机に置かれていた本だった。その横には羽ペンのような物が立っている。いや、ようなではない。まさしく羽ペンだ。近くにインク壺が置かれていた。
…作りといい、装飾といい。随分と古めかしい
俺は部屋を横目に本に手をかけた。しっかりとした作りだ。本の角には補強のためか金属が打ち据えてある。背を持ち、ページを捲り始める。それは日記だった。ただ内容はわからない。明らかにローマ字の筆記体ではあるのだが、英語ではない。『EGO』『VIR』『SCIO』見たこともない羅列が並んでいる。かろうじて日記と分かったのは『202□/〇〇/××』と数行ごとに書かれていたからだ。そして、それは『2024/06/16』で止まっていた。
…新が失踪した日の一日前
その所有者はあいつの失踪に関わった者だとすぐに分かった。
『…arata yamagami——』
所々で新の名前が確認できたからだ。
俺は内容を探ろうとスマホを取り出す。読み取れた文字列だけでも検索にかけてみようと思ったのだ。しかし、アンテナが立たない。地下深くからなのか『通信圏外』らしい。
俺はそれにもどかしさを感じながら携帯をしまい、白紙のページを親指で弾いた。手の中でパララと凄まじい速度で裏表紙へと向かう紙片。他に何か書かれていることが無いか、一通り目を通そうというその時。本の中からするりと紙切れが抜け出た。
思わず、日記を机に置いてその場で屈む。拾い上げたのは一枚のカードだった。トランプカード。スートはクラブ、数字は9。そのカードは変わっていた。普通、トランプカードは数字の数だけ対応する紋様が連なるが、手に持つ物には図柄がデカデカと描かれ、周りには魔法陣のように円に沿って英字が並んでいる。
図柄は雲に隠れた太陽を一人の人が支えており、人が見下げる下には木々が連なっている。いや守っていると言ってもいい。俺はそう読み取った。どちらかというとトランプというよりタロットカードを思わせる。
…スケール感的にこれは巨人か?
裏返すとこれまた精緻な紋様が施されていた。ただ、これは普通のトランプも一緒だ。赤やら、青やらの色や紋様に違いはあるが、大抵、裏はこんな感じだったと記憶している。
…日記にただカードを挟むか。俺ならどうする?
自身に問いかける。パッと思いついたのは、栞か目印。それならこれが元あった場所には何かが書かれているかもしれない。俺は片手にカードを手にしたまま、再び日記を開いた。予想したものはそれの最後のページにあった。
『Diligens!!』
手書きで大きくそう書かれていた。ページの大半が空白のままなことを考えると、ここに挟んであったと考えるのが妥当だろうか。
しかし、俺にはそれが何を意図するのかが分からなかった。ただ言語であることは確実だ。日記の文然り、これの所有者はヨーロッパ圏の言語で記している。
…部屋の様子からするに随分と戻っていない
机にはうっすらと埃が積もっており、部屋全体から人気がしない。日記が六月十六日を最後に途絶えていることも加味すると、その日にこの拠点を放棄したのかもしれない。
…持って帰って分析だ
腰を落ち着けて、一語、一語調べれば内容は自ずとわかるはずだ。今まで直接的な成果がなかったことを考えると今回の探索の結果は上々と言えた。
調査は切り上げとし、俺はリュックに日記やら羽ペンやら持ち帰れそうな小物を入れていく。画像検索にでもかければここにいた人物の具体的な像を捉えられるかもしれないと考えてのことだった。
…帰るか
その時だった。不意に背中に気配を感じた。俺は思わず肩紐に掛けかけた手を止める。
ザッザッザッ…。
「…警察だ。直ちに両手を上げて、その場で屈め」
たったそれだけの言葉。しかし、先ほどまで穏やかだった俺の心中には荒波が吹き荒れた。焦燥と戦慄、それだけが心を支配した。