百四十九記_酒屋の談合
——ニ〇ニ四年、七月四日、駅前の居酒屋にて
とある居酒屋の個室に二人の男の姿があった。
一方はスクエアフレームの眼鏡がよく似合う切り目が特徴的な端正な顔立ち。もう一方は短髪で声色が高く、お調子者のような印象を醸し出している。
「いや、先輩。久しぶりっす。会えて嬉しいっすよホント。先輩、あの日以来、来てないっすもん」
とりあえずの乾杯の後、一口喉を潤すと犬のような彼はグラスを置いた。
「吾はもう、そっちじゃない。謹慎が解ければ所轄に異動になると辞令があった」
声の調子が正反対の男は淡々と述べる。
「え!そんなん何かの間違いですよね。だってあれは先輩がいなかったら…先輩がいたから生きてるんですよ、僕ら」
凛とした佇まいを崩さない男の話に相席の彼は鋭く反応を示す。男はその反応を予想していたようで特に驚く様子もなく、目の前に並べられた酒肴に手を伸ばしている。
「側から見たら、『調査難度を上げた挙句、敗走した調査員』だ。異動はまともな判断さ。内情は内内しか知らん」
男は串に刺さった焼き鳥を箸で取り皿へと落としながら眉を顰める。本望ではないが、納得はしている。おおよそそのような雰囲気が男を覆っていた。
「白戸班みんな先輩には、三宅さんには感謝してますよ。あん時、先輩が動かなかったらって考えたら…今でも身震いしますよ」
事は三年ほど前に遡る。彼らは新宿歌舞伎町にある一部の店の資金の行方に不審を抱き、繁華街を中心に捜査を決行した結果、アジアの黒社会を席巻する犯罪シンジケート『老虎蛇』が背後にいることに辿り着いた。
『悪事は金になる』。
麻薬の密売に売春の斡旋、マネーロンダリングなどおおよそ法律で禁じられた事の悉くを行う犯罪者集団だった。大陸でその名は有名。露見しそうになれば、権力と金で握り潰す悪党の権化のような集団だ。そのらの影響が日本にも及び始めた頃合いだった。
ただそう簡単に尻尾は掴めない。組織も大きく、資金も潤沢。内部情報の多くは秘匿され、規模や実態はまるで濃霧の立ち込める森深くに隠されているかのようだった。しかし、本土に踏み込まれた以上、手を拱いてはいられない。先行で潜入していた調査員の計らいで一人、また一人と組織へと忍び込んでいった。
任務は『老虎蛇』の実態調査と秘密情報の奪取。重要視されたのは指導者や幹部の情報と組織の先の方針、そして本部の在り処などの根幹に関わる情報の入手だった。
そうして、内部を調べ尽くした後、国際警察機構を動かすつもりだった。
だが、『老虎蛇』を公安は見誤った。もしかしたら、急ぎすぎたのかもしれない。
『日本の公安が動いている』
潜入をしてから三ヶ月目からそのような情報が組織内に流れ始めたのだ。そこで潜入調査員の漸次投入は中断。それまでに潜入した十数人足らずの要員で調査にあたる事になった。
本部は分からなかったものの、密輸ルートや主な資金源たる地域、世界各国の土台人を介したマネーロンダリングの経路を暴くことはできた。諜報の成果としては上々である。
しかし、丁度半年前。事は起こった。
『この中に日本の公安がいる』
突然、組織に構成員の一人、一人が呼び出された。上役に見せられたのは名前が綴られたリスト。その中には公安調査員が揃い踏みだった。それ以外の顔ぶれもあるにはあったが、全員がリスト入りを果たしている。
三宅は思った。これは潮時だと。
公安が動き出す前から在籍する調査員も含めての総員退去。それが望ましい。
彼はそう思うや否や、組織の中で内部工作を始め、元から仲違いしていた二派閥の溝を決定的なものへと変化させて抗争を引き起こした。その中でどさくさに紛れて、海上保安庁に連絡をとり、より多くの調査員を乗せて本土へと帰国したのだった。
「単独での要人暗殺と情報操作による抗争の誘発…よくもまあやりましたよ、先輩は」
抗争はすでに終結し、三宅が行った工作は露呈している。その後に末端構成員として潜入した調査員からも『公安に仕組まれた』との話が届くことからもこれは確定情報だった。顔と本名が割れなかったのは不幸中の幸いだった。
…しばらく日本警察はあの組織には手を出せないだろう。
『所轄へと異動』は致し方なしといった所だった。調査内容は公安。それも担当だった『外事二課』の中から詳細を持ち出すことはできない。警察内にテロ側の工作員が紛れたら目も当てられないからだ。だから情報を伏せた状態での成果となる。
『潜入したテロ組織内で起きた抗争から真っ先に逃げ帰り、調査難度を著しく高めた調査員』
警察組織としては同胞が殺されたとしても『老虎蛇』の全容に迫り、世界を動かせという方針だった。アジアの巨大マフィアが日本を脅かしているのだ。警察の上層部はかなり焦っていた。だから、全容がはっきりしていたとしても公安部からの更迭は免れなかっただろう。
トカゲの尻尾切りというやつだ。時には有用な人員を一人欠いてでも守らねばならないものがある。その警視庁の方針は理に適っている。
ただ一方で三宅にも思うところがあった。
…減った調査員の補充はどうするつもりだったのか
公安は少数精鋭で規模も小さい。国内での活動は過激派の活動の低迷により手が余っている状況だが、海外はそうじゃない。いくらあっても手が足りない。テロ組織は『老虎蛇』だけではないのだ。
それに、外国への調査員の養成には時間がかかる。まず、言語の壁。それに現地の文化やそれによって形成される価値観。これが出来て初めて現地民とコネクションができる。そして、組織内の不文律。『如何に素早く、組織に馴染むか』。こればっかりは数多くの潜行で獲得する他ない。だから、現場からすれば死なせる余裕などはないのだ。
…歯痒いところはあるが、調査はCIAに引き継いだ。こっちが暴露した情報を上手く使って美味しい所を持っていってくれるだろう
肴に舌鼓を打ちながら、三宅は先まで行っていた諜報活動を振り返っていた。
悔いがないと言えば嘘になる。せめて『老虎蛇』の本部は秘密裏に特定したかった。
…そもそも公安の動きが何故、奴らに詳らかになったのか
三宅は口では「更迭は免れない」とは言いながらも、心中は未だあの組織に囚われていた。
「重苦しいっすよ、先輩。諦めホントはついてないんでしょ」
いつの間に頼んだのか、追加の品を店員から受け取りながら後輩は声をかけてくる。
…そうだった
目の前の後輩を目端で見ながら、瞼を細める。目の前の彼は事心理戦に関しては群を抜いていた。勘が鋭く、人の機微を読み取るのが非常に上手い。さらに気を利かせてくるから、相手に取り入りやすい。…調査員としてはこれ以上ない逸材だった。『老虎蛇』の時も遺憾無くその能力を発揮し、幾つかの支部の特定という成果を挙げていた。
…剽軽に見えて大したやつだ
三宅は後輩の能力を改めて評価しながら彼に視線を送る。すると何やら件の人物は自分のカバンをゴソゴソと弄っていた。目当てのものがあったのか、眉根とぴくりと上げた。
「じゃん。ちょっとこれ見てくださいよ」
後輩がカバンから取り出したのは一封のマチつき封筒だった。
三宅が封を解くと出てきたのはクリップ留めされた数枚のプリント用紙。表紙には『山神新行方不明事件』と大きく印字されている。
「ほら。前、先輩言ってたでしょ。『捜査の失敗を忘れるには新しい捜査に乗り出すしかない』って」
三宅は思った。本当によく気が利く、と。今回の件を引き摺っていることを承知で新しい事案を持ってきたのだ。この様子だと、始めに『異動』と三宅から聞いて驚いていたが、元から知っていたのかもしれない。彼は一連の流れを見てそう感じていた。
三宅が書類に目を通していると彼が読み終わる頃合いで補足を始める。
「その事件、動きがおかしいんすよ。たかが学生一人の行方知れずで管轄でもないのに警視庁が動いてます。しかも、親族から『行方不明届』が出される前に…ですよ」
「そうみたいだな」
三宅は相槌を打ちつつ、訝しさを覚える。この少年は何らかの要因で警察に捕捉されていたのか。そうでもないとこの速さは奇妙だ。
「…この少年、前科は?」
三宅に問いに後輩は首を横に振り、説明を続ける。
「さらにおかしいのが、警察がこの事件を早く終わらせたがっていることです。バカでかい人数投入してる割に引き上げが早いんすよ。これってなる早で証拠隠滅したかったっていう裏返しにも見えます。ね、なんかニオうでしょ」
仔細を述べる後輩を捉えながら、三宅は思案する。
異動までの残り三ヶ月。謹慎中は休みも同然。ただ今までまとも休みをとったことのない三宅は手持ち無沙汰だった。新人の時から休みの日は昇級試験を見越しての法律の勉強やより多くの検挙率を出すにはどういう作戦を立てればいいか、など仕事に繋がることに時間を費やしていた。
そこまでして目指したのは理想の警察官。法に厳しく、人に優しく公共の安全を保障する。まさしく正義の味方だった。彼は小さい頃、同年代の子が憧れるようにヒーローになりたかった。現実ではそれが警察官だったという話だ。
…組織がタブーを犯すのなら、それを追求するのも警察官の仕事だ
知っていて見逃すのと知らずままでは訳が違う。三宅は拘っていたのは自身が思い描く正義の味方…警察官像を組織が体現しているかという事だった。だから、彼は『老虎蛇』の件については悔いこそあれ、納得はしていた。公安の方針以前に人を犠牲にしてまで潜行するのは信念が許さなかった。
「…これはこちらで受け持つ。悪いな、今日はお開きでもいいか」
彼は胡座を崩すとその場で立ち上がる。
「いいっすよ。…やっぱ先輩はそうでなくっちゃ。最速の警視にして摘発率ナンバーワンの『探りの三宅』。最後の大仕事見せてくださいよ」
期待を寄せる言葉に三宅は身を翻しながら、片手で反応を返す。後輩とは飲み屋で会計を済ませた後、別れた。
三宅は歩きながら、いくつか持つ携帯電話の内一つの電源を入れる。そのまま電話機能をタップすると手動で番号を打ち込んだ。デフォルトの発信音が鳴る。
「……」
繋がるも相手は無言。挨拶がなく、繋がっているのかも分からない。だが、それは身元を隠すための常套手段だと三宅は知っている。
「吾だ。山神新という先日行方知らずになった高校生とその周囲の人物について調べてほしい」
要件を告げると『ブッ』と通信が切れた。