百四十六記_麻姑の調べ
——ニ〇ニ四年、七月三日、水曜日
「山神くんは東京の学校に編入したそうだ」
新捜索に試行錯誤を重ねる中、ついに担任から正式な発表があった。失踪してから二週間以上が経った朝だった。
朝のHRの発表の最中。一瞬先生と視線が交錯する。
その視線は『違う、ブラフだ』とそう物語っていた。
クラスメイトの急な引越し。そんな突飛な出来事でも大きな反応はなかった。それもそうだ。新の友達は俺を除けば一人もいない。
「ねー、あいついなくなったんだって」
「らしいねー。私、嫌だったんだよあいつ。なんか変だし、謎に成績だけはいいし。『自分だけは違う』ってお高く止まってる感じが気に食わなくてさー」
一限目の間、何をするも微妙な時間で手持ち無沙汰なのだろう。近くから女子生徒たちが手近な話題…新の事を話すのが聞こえてきた。
そんなやつじゃない!
反発して事情を具に話したくなる気持ちをどうにか抑える。俺は勢いよく立ち上がろうとして…体を再び椅子に引き戻した。
…まあ、そうだよな。何も知らなきゃ気味の悪いやつだ
寡黙、無愛想、身に纏う重々しい空気感。可笑しな人と捉えられても当然だ。
…だけど、必死なだけなんだよな
あいつに余分な時間はない。歩夢の死が山神新を塗り潰した。
『失いたくなかった』『生きていて欲しかった』
そんな思いが肥大して『薬学で多くを救う、救わなければならない』ともはや強迫観念の域に到達した。薬学なのは歩夢ちゃんが衰弱し過ぎて手術に耐えられない体になっていたからだった。より良い薬がより多くの人を救うはずだ、とあいつは事あるごとに口にする。
…そうだ、あいつには、あいつの人生にはすでにライフワークがある
見つけてやらないと。何か物騒なことに巻き込まれているのなら引き離してやらないと。
俺は決意を握り拳に秘める。
ただ現状は唯一『異常があった』という事しか分かっていない。
…聞き込みに、県警訪問、関わりのある親戚の家にも行った
後、俺に出来ることはなんだ?
いや、ただの学生に出来ることなんてたかが知れてるのか
一限、二限、三限、四限…。授業は完全に上の空。
碌に考えが浮かばないまま時間だけが過ぎていく。自身の無力さを痛感しながらも諦めきれない自分がいるのが分かる。ただただ歯痒かった。
いつの間にか昼休みになっていた。授業内容は全くと言っていいほど覚えていなかったが、手元には板書が書き連ねられたノートがある。
…あ、トイレ
意識が明瞭になってくると生理現象が襲ってきた。
「ナリ〜、今日は何するよ」
「ごめん、ちょっと小便!」
いつも絡んでくる友達を平手で制し、俺は教室の扉から男子トイレに向かうその途中。
「あ、いたいた。安藤く〜ん」
どうやら俺を探していたようで、その人は小走りで俺の方へと駆け寄ってくる。それは英語担当の根岸先生だった。
「すいません、先生後でも——」
「今日の放課後、三階端の空き教室に来て」
…え…?
友達と同じようにして断りを入れ先生の横を通り過ぎようとした最中、有無を言わせぬ声で耳打ちされる。瞬時に尿意が引き、俺はその場で止まって振り返った。
「それだけだから〜」
先生はゆらりと手を振り、いつもの柔らかい声でそう言った。彼女はポニーテールを靡かせながら、去っていく。後ろ姿を見たまま呆然としていると漏れそうな感覚がぶり返してきた。それを契機に硬直した思考は回り始める。
程なくして、用を足しているその時、いつかの記憶が想起された。
『そういやお前、歩夢ちゃんと会うまでどうしてたんだよ』
ただその時は気になっただけだった。新が親密と言える関係を築いているのは俺を除けば、歩夢ちゃんだけ。確か、彼女と会ったのは小二の時だったはずだった。
『今じゃ疎遠になっちゃったけど。近所に面倒見のいい高校生のお姉さんがいたんだよ。確か名前は——』
根岸恭子。今はこの学校で英語教諭のその人だった。
…同姓同名の赤の他人か。いや、このタイミングからしてそんな事はない
俺は煩悶とした感情に悩まされながら、教室に戻った。