百四十四記_紅の狼煙
——ニ〇ニ四年、六月十七日、月曜日
友達とファミレスで夕食を食べた夜だった。俺は二駅先のパルクールの習い事の後、そいつは部活が終わってから。なんでもない、高校生ならよくある『気分でダベる』という何気ない用事だ。いつも通り、特に益もない話をしてひとしきりするとお開きになった。
そう思い返していると、赤の回転灯が視界の端で瞬いた。それが自意識を今へと引き戻す。
眼前には深夜にも関わらず、老若男女の人だかり。野次馬の視線を辿ると住宅街に続く道路いっぱいに黄色の規制線が貼られ、前には警察官が数人立っているのが見えた。
『この先危険です、近づかないでください』
『夜も更けています。お引き取りください』
警官の声が凛と響く。決して大きくはない。だが、その声は拡声器によって一帯に伝播した。警官は深夜の誘導も心得ているのだろうか。
「すいません、何かあったんですか」
興味本位で手近な男に声をかける。
「さあ、ね。君も集まりに引かれたのかい?」
曰く、突如として街中にサイレンが鳴り響き、一帯にパトカー及び警察官が集結。瞬く間に交通規制が敷かれたらしい。
…確かに帰り道にサイレンを多く聞いた気がする
パトカーや救急車が夜の街を駆けるのはそう珍しいことではない。特に意識してはいなかった。あくまで『気がする』と言うだけだ。
脳裏でそれとなく記憶を辿る。その時、肩を強い力で掴まれた。
「はい、はい。すいませんね、通りますよ」
俺は突然のことに肩をびくつかせた。しかし、ガタイのいい御仁は俺には目もくれずに慣れた手つきで人だかりの中を抜けていく。まもなく規制線の中へと入っていった。
…刑事かなんかか
何らかの事件があったのは確かで、大いに興味をそそられたが俺は踵を返した。今日は月曜日で当たり前だが、明日も学校だ。それに大事であれば朝のワイドショーで取り上げられるはず…。そう思い現場を離れる刹那、一点の懸念が脳裏を突いた。
…この住宅街、確か新が住んでたはずだ
とは言え、今いる場所からかなり離れている。あいつが住んでいるのは目の前に広がる街区の外れ。…おそらく杞憂だ。明日、学校に行けばいつも通り覇気のない『おはよう』が聞けるはず…。
——俺はそう思っていた。
だが、あいつは次の日学校に来なかった。担任の先生によると、早朝に体調不良で欠席と連絡を受けたとのこと。新が体を壊すこと自体は特段珍しい事でもない。彼女、刈谷歩夢が死んでからというもの『自分が経験した無力ゆえの悲嘆をより多くの人に受けさせまい』と体のことを顧みずに勉学に励んでいることもよく知るところだ。
それでも、あの夜の光景が——ざわめく人々と闇夜を制す赤が記憶の底でミルククラウンのように雫を落とした。
* * *
——ニ〇ニ四年、六月二十四日、月曜日
新が休み始めてから一週間が過ぎた。送ったメッセージは一向に既読にならず二日、三日と過ぎる内に不安は焦燥へと変質し、ついに居ても立っても居られなくなった。
まず、あいつの家に行った。しかし、出てきたのは遠藤まどかと言う少女だ。曰く、新から家を預かっているという。「ポストに入れてあった」という手紙からは大雑把にあいつがどこかへと行ったことが分かるだけだった。
翌日も翌々日も訪ねたが、待ち人来ず。やはり何らかの事件に巻き込まれたのかと担任の先生に尋ねたが、「思ったより体調が悪いらしい」の一点張りだった。
先生は答える直前、口篭ったことから怪しさを感じた俺は他の職員にも同様に尋ねたが、総じて反応は消極的であり、学校が『新のこと』について何かを秘匿しているのは明らかだった。
「おいっ!業平、行ったぞ‼︎」
思考に身をやつしていると鋭い呼び声が鼓膜を刺した。それが発端となり、茫漠としていた意識が『今』に浮上する。
…そうだ。俺、サッカーしてたんだった
今は昼下がり。昼食後、俺は友達に誘われて校庭に連れ出されたことを思い出す。
空を見上げると、高く蹴り上げられたボールが放物線を描いてゴールポスト近辺へと向かっているのが目に入った。
その瞬間、判断を下すよりも早く体が動き始めた。
数歩で最高速に至り、落下点へと向かい始める。俺の体は落下点より僅かに前に陣取ると、速度をほぼ維持したまま徐に足を後ろに振り上げた。
足裏で柔らかく捉えられたボールは俺の身長より少し高いところを舞うと緻密に計算されたかように蹴りやすい位置に下がってくる。さも当然のように軸足を固定すると全身の筋肉の捻りが利き足に集約し、ボールを強く打ち出した。
気づくと俺が蹴り出したそれはゴールネットを揺らしていた。
「セルフでボレーとか…。相変わらずナリは素人にしちゃ出来過ぎだぜ、チキショウ」
後ろを追ってきていたのか、膝に手を当てて洗い呼吸をする友人が声をかけてくる。
「あったりめぇよ、俺に掛かればこんなもんよ」
顎に垂れる汗を拳で拭いながら悔しがる友人に間髪入れずに軽口を返す。別の生徒がボールを取りに行き、「まだ出来るぜ」と校舎の時計を指差すのを端緒に俺は自陣へと戻り始める。
…ま、俺もよく分かってないんだけど
ボレーやらバイシクルやらオーバーヘッドやら。これまでサッカーよろしく、他の競技でも何かする度に専門用語を連ねられてきた。だが、俺自身はそれを意識してやったことが一度もない。そも今やっているパルクール以外は専門的に習ったことすらない。体が勝手に動くのだ。
『自分が置かれた状況に即応する、してしまう』
表現するならそう…途轍もなく運動神経がいいのだ。始めはそんなこともないと思っていたが、これまでの人生がそれを証明していた。
…今はいいけど、昔は苦労したよな
ふと回顧する。小学生くらいだったか。人間、出来ないものを嘲るが、同様に出来過ぎる人間も虐げる。当時は『出来過ぎる』こと、そして元から気弱な性格をしている事もあり、タチの悪い悪戯を受けていた。雨の日に傘を隠されたり、露骨に無視を決め込まれたり…色々だ。
そしてその悪戯は加速度的に伝播する。小さい子供は自己の確立がなされておらず、コミュニケーション能力も未熟。だから、どうしても人の集団的側面に頼ってしまう。
『身代わり』。
一人を標的に、話題に上げて他者との繋がりを強固にする。コミュニケーションの『暗黒面』とも呼べるそれ。俺はその的になった。当然、性格は捻じ曲がり、根暗で卑屈。日頃から人に気付かれないように肩を縮こませて地に視線をやつしている始末だった。
そんな時だった。歩夢ちゃんと新に会ったのは。
『君、これ一人で作ったの?えっ!凄い。今度歩夢にも教えてよ』
『え、すご』
興奮した様子で食い気味に話しかけてくる少女に、淡白に…けれど悪意なく俺に純然な興味を示す少年。初めて会ったのは家から離れた公園だった。
…知り合いがいない所に居たくてわざわざ遠出してたんだっけ
この時の俺は砂場のスペシャリストだった。碌に友達もいない当時の俺が数々のひとり遊びの末にたどり着いた至高の遊び。
それが砂場だった。
公園に来てまず始まるのは砂の選別。ざるの中に砂を入れて石を省く。そうして集めた細かい砂に適度に水を加えて、型がぎゅうぎゅうになるほどに詰める。それをひっくり返してベースを作成。そこから、粘土用のスパチュラや爪楊枝を使って整形、彫刻を施していく。時にはお山を作って特大の物を作ることもあった。
そんな砂場の技巧を同世代に褒められたのは初めての経験だった。
数日後、砂場に一人で居続ける俺を見かねたのか。歩夢ちゃんは『みんなで遊ぶのも絶対楽しいよ』といい、半ば強引に俺を砂場から連れ出した。
俺を見ず知らずの子供とのドッジボールに招いたのだ。
始めは人目を気にしていた俺だったが、不思議なことに虐げられることはなかった。
そして夕方には全力で遊んでいた。
卑屈な俺がここまで伸び伸び人と遊んだのはこれが初めての経験だった。もしかしたら彼女の人一倍明るい人柄に周囲が感化されていたからかもしれない。
それからは公園限定だがよその子供とも遊ぶようになった。特に新と歩夢ちゃんとは馬が合い、いつしか見かけると声をかけるようになっていた。相変わらず、学校は苦痛だったが、中学の頃にもそれは無くなった。なんと新と歩夢ちゃんが同じ学区だったのだ。だから、自然といじめはなくなり、歩夢ちゃんや新の機転で特異な身体能力は概ね好意的に受け入れられていった。
…懐かしいなぁ
見切り発車で何でも進めてしまう歩夢ちゃん。危ういところで手綱をとる新。それに付いて回る俺…いや、僕と言う構図。心地のいい関係性だった。
ただそれは四年前、突如として終わった。
刈谷歩夢、あの向日葵のような彼女の死によって——
「おーい、業平。始めるぞー」
「、ああ!すぐ行く」
急に足元の地を踏み締める感覚が消え、泥が纏わり付くような錯覚を覚えた刹那、助け舟のように声がかかった。瞬間、重みはふつと消え、俺はその幻から目を背けるように駆け出した。