百四十一記_闇を踊るもの
——アガルタ王宮、地下水路
断続的に続く振動で土が煙る。カビ臭い水路の傍に伸びる通路にはゆっくりと歩く人の影がある。…レディ・ローズだ。彼女は万が一を先んじてこの通路を調査していた。
アガルタは『gratia caeli』…中層域四層の湖から降り注ぐ膨大な水をどうしているのだろうか。簡単だ。分散して下に放出しているのだ。故に地下水路には都市の外に通じる噴出口がいくつかある。そう、彼女は国外逃亡ならぬ都市外逃亡を試みていた。
…研究は上々。これを計上すれば、私も『本部』に
彼女の口がニヤける。本部。それはロサイズムでも秘匿された組織。流れている情報は陰陽五行に準えて作られた十の幹部の席があるという事だけ。組織の規模は愚か、目的さえも分からない。ただ『力を示せば招かれる』そう実しやかに囁かれていた。
…実際、それは確か。私の先輩は『本部』に招かれた
レディ・ローズは一度だけ彼が『本部』に行ってから会う機会があった。その時、彼はいった。ここに至れば、全てを手に入れられる、と。富も名声も知識も全て。
彼女は知りたかった。黒バラとは何なのか。何故、前触れもなく世界を破滅し得る力が発現したのか。ロサイズムの目的は。
理由はただの興味だった。昔から知的好奇心のままに彼女は生きていた。だから、時を経て研究者になるのは必然とも言える。性に合っていた。満足していた。けれど、その対象はある未知によって上書きされた。それが黒バラ、ロザ・ペッカートゥムの存在だった。
ロサイズムという組織を知ってすぐ、彼女は組織の末端に接触し研究員となった。ただ黒バラについて特別な情報は見当たらなかった。研究の度合いは政府のそれと大差ないほどに。明らかに、そして巧妙に情報の統制が為されていた。
そうしてロサイズムに在籍して一年が経とうとした頃、先輩から一つの小瓶を渡された。『これの効果、性質を調べてくれ』それが転機だった。中身は『黒バラの種子』と呼ばれる植物の種だ。
…先輩も言っていた。この研究が進めば、『本部』も声をかけてくると。
彼女の胸はときめいていた。倫理、道徳など好奇心の障害にしかならない。そのような価値観をレディ・ローズはとうの昔にどこかへ捨ててきてしまっていた。
そんな慢心ゆえの夢想に更けていた時だった。不意に彼女ではない別の足音が空間に木霊する。振り向くと辺りを浮遊するルクス鉱石が来訪者を照らし出した。深いフードにロングコート。それに特徴的な銃剣のような改造のGAND。…アキレス・キッドだった。
先手必勝。彼女は右手に握る杖型のGANDを振り翳し、岩の槍を生成。それを彼に向かって豪速で射出する。不意打ちだったはずだ。しかし、相手は流れるように攻撃を避け、次の瞬間には彼女の足は掬われていた。GANDは蹴飛ばされ水路に落ち、彼女には銃口が向けられる。
「レディ・ローズ。いや、シェリー・エバンスだな」
レディ・ローズ改めシェリー・エバンスは肩を落とす。これは駄目だ、と。おそらく相手は国家の手合い。本名が露見している時点で個人的な恨みという嫌いではない。そもそもそこは結び付かない。私は戸籍上、死んでいる。正確には行方不明の後、死亡判定を受けている。
「…はぁ。残念です。あともう少しで真実を知れたのに」
それが彼女の最後の言葉だった。
* * *
——アガルタ郊外
「ああっ!戻ってきた‼︎駄目だよぉ!上官の命令無視しちゃあ⁉︎」
テンション高めのお出迎え。それもそうだった。発端の彼はアガルタの防衛機構『法下の秩序』が解かれるや否や、中がどうなっているかも分からないアガルタへと飛び込んだのだ。
「…………これ」
渦中の彼はバツが悪そうに目を逸らしながら大きな長方形の袋を放る。中身はご承知あの魔女の遺体だ。彼を叱咤していた女性含め辺りにいた数人が集まって来る。
「…シェリー・エバンスね。情報は取ったの、安藤くん」
安藤と呼ばれた彼は一枚の羊皮紙を取り出す。それにはびっしりとラテン由来の文字が記されていた。あらゆる物から使用者の求める情報を引き出す『ヘルメスの紋章』、それによって記された情報だ。
「…なるほど。すぐに戻って、アガルタ王宮当ての調書を作る必要があるわ。戻りましょう」
「「「了解」」」
そうして周囲から彼と一人だけを残して他は『歪曲の紋章』の歪みの中に消えていった。
「…業平くん。お手柄とはいえ感心しないよ」
男が彼の肩に腕を乗せる。そう、レディ・ローズ改めシェリー・エバンスはこの部隊に捕捉されていた。アガルタ王宮での所業以前に小さな村や集落において複数回、今回のような屍人の作成を行い、その首謀者として追われていたのだ。
「逃げられる寸前だったよ、三宅さん」
アガルタにて『アキレス・キッド』と呼ばれた青年は目深のフードと目元まである仮面をとると天然の巻毛にとても人を殺すとは思えない丸みを帯びた瞳が顕になる。異界『ラビリンス』では極悪人は即断が流儀。それは紋章という魔術めいたものが存在するため発達した処刑文化だった。
「業平くん、君は黒バラが討伐されたら『普通』に戻るんだ。…あまり手を汚すのは」
三宅と呼ばれた男の言葉を遮るように口を開く。
「いいんすよ。俺が決めたんすから、それに今回はあいつに会えた」
業平は想起する。都市を出る間際にレジスタンスの仲間と笑みを浮かべていた友人『山神新』を。それは彼が閉塞していた実世界では見られなかったものだった。あの表情を見たかったのだと眉を顰めながらも業平は微笑する。その顔は昔の…刈谷歩夢が死ぬ前によく見せていた顔と近しく思えた。それはひどく嬉しいものだった。
「俺たちも行こう。あんまり遅いと片峰さんに扱かれる」
「そうすね」
彼らは先の人らと同じく空間に歪みを作るとその中へと飛び込んでいく。
自衛隊非正規組織:ヤマト機関:ロサイズム強襲班『花葬』の隊員はそうして一帯から姿を消した。