百三十六記_監獄からの解放
——『法下の秩序』
…ちっ!
思わず舌打ちする。天井が異様に高いこの空間では圧倒的に奴が有利だった。上空に佇むは一体の怪物。隷属者を逸した強さからして第二種:死者を運ぶ者だろう。一対の頭に四本の腕、二対の紛い物の翼、それに一つの下半身。厄介なのは二つの頭がそれぞれ別の思念体で全方位を視野角としていること。自身に近づくか、『法下の秩序』制御装置に迫ろうとする動きを見せれば、背で浮遊する翼が旗めき、無数の荊棘を放ってくる。さらに地上には隷属者がいる。上ばかりに気を取られていては足元を掬われる。にっちもさっちも行かない状況だった。
そうした状況下、今は出方を探る段階と私は判断し、アイザックさんとプリアさんには死を運ぶ者の動きを注視しながら、隷属者との戦闘を主に据えるよう指示を出していた。かの怪物の動きを見ることに重点をおいてしばらく、空間内の隷属者は着実に減っている。
かく言う私も立ちはだかる隷属者を屠りながら、劇場のような空間を疾駆し、隙あらば地面に突き刺さる直状の荊棘を手に取り滞空する異形にそれを投擲していた。大抵は翼が盾となり弾かれる。仮に当たったとしても即座に再生が始まり、荊棘は再び地に落下し、乾いた音を立てていた。
…時間もなければ、算段もない
回廊の拮抗状態はそう長くは持たない。仮にあの黒騎士を無力化したとしても集結する隷属者に押し潰されるのは時間の問題だ。
焦る気を落ち着かせる。そうしてもすぐに胸の内に焦燥は生まれるのだが、これをまた一息で払拭する。不毛な繰り返しだが、逸ってはいけない。急いては事を仕損じる。昔からよく言われることだ。それに急ぐことは無意識に視野の狭窄を招く。不明なことが多い以上、大局的に戦場を見て、情報収集に努めなければならない。きっと今の私は苦虫を噛み潰したような顔をしていることだろう。それほどに本能とのせめぎ合いを続けていた。
もどかしさを鋭い息として吐き出しながら、何度目かも分からず怪物を見据え荊棘を構えた…その時。
…あれは
最中、気づきを得る。しかし、体は止まることなく荊棘の槍を射出する。すぐさま防御と無数の荊棘による反撃が返ってくる。疑問を解決しようと静止を促す本能に逆らい、必死に体を、剣を、盾を動かし、降り注ぐ荊棘の包囲から抜ける。傾いた体勢を足を踏み出しながら安定させ、なおも駆けると隷属者もいない空白へと至る。
怪物を見やる。あれが見間違いでなければ試さねばならない。
…先に目にしてのは右の鳩尾
凝視する。本来、治るはずの傷がそのままだった。私が付けたものなのは間違いない。そこは三日月にくり抜かれていた。…掠ったということだろうか。
試さねばならない。
握る細剣を鞘へと納め、行動を再開する。周囲の隷属者の攻撃を避けながら、床に突き刺さる荊棘を槍としてひたすら死を運ぶ者へと投擲する。ここまでは先と同じだ。ただ違うのは明確な意図があると言うこと。私は右半身のみを重点的に狙っていた。
すると怪物の動きが変わった。いや、わかり易くなったと言うべきか。致命となる右半身への攻撃を左半身を反転させて受け始めたのだ。それはこれまでも偶発的には起こり得たはずだ。ただ私が意図を持ったことで明瞭となった。
…仮定はほぼ確実。あとは——
後は右半身に攻撃を命中させるだけ。さすれば、それは動かぬ証拠となり得る。算段も立つと言うものだ。ただそれが一筋縄では行かなかった。機動性が違う。こちらが致命となる攻撃をしてからでも優に不死の左半身で対応されてしまうほどに。それでも続けねばならないと確証を得るために投げ続けていると…。
刹那、一つの荊棘が怪物の鳩尾から胸に掛けて深々と突き刺さった。当たったのは右半身。完全の不意の攻撃。死を運ぶ者も宙でフラつく。
その時、通信が入る。
『…シャーロット。あんたがやりたかったのって、こういうことだろ』
アイザックさんの戦う方に目を向けると彼は別の荊棘を手にしていた。
『…隷属者はこの数だとプリアだけで対応が効く。俺が引き付けるからあんたが首を取れ』
通信終了と共に彼は動き出す。戦場を見るとプリアさんが殺傷から拘束に切り替えて紋章を行使しているのが目に入った。再び、怪物に双眸を戻す。
…なるほど、それは大役だ
剣を抜き放ち、登れそうな所を探す。豪奢な柱や彫刻で空間が作られているため凹凸は多く、足場に困ることはない。助走を付けて踏み込み、最も低い一つに足をかけ、別の足場へ向かって飛ぶ。一足飛びにそれを続けるとやがて怪物の滞空する高さより上に至る。
どうやらアイザックさんに完全に気を取られているようでこちらに目は向いていない。彼は私のように荊棘の槍の投擲を行いながら、広間を縦横無尽に走り回っている。あまりに速いその動きは複数の紋章によって成り立っていることは明らかだ。それ故に右半身への被弾も見受けられるが、彼も近くガス欠になるのは明らかだった。
…ただこれで仕舞い
私は足場の彫刻を蹴り、隷属者の頭上に飛び出す。そして——
「Ace of spades」
空中で限界突破の口上を唱え、それと共に生み出される激しい気流で方向を切り替え、怪物に迫り、剣を振るう。一度目で二対の翼を捥ぎ、二度目を体に向かって叩きつける。すると浮力を失った死を運ぶ者は私共々急速に落下し始めた。その最中、二度目の剣撃によって露出した核に細剣を突き立てる。地面に激突する瞬間、空に身体を投げ出し、身を打ちながら勢いを殺し、事なきを得る。多少の痛みはあったもののすぐに立ち上がり、細剣を回収した後『法下の秩序』の制御装置へと向かう。ウエストポーチから『鍵』を取り出すと鍵穴へ差し込み、それを回す。すると半透明な翡翠色の画面が目の前に現れ、流れに沿って深部へ達する。
『pausa』『interitus』
(停止)(破壊)
選択画面のまま、胸元のマイクを手に掛ける。
『バロンさん、バロンさん、どうぞ』
『あ、終わったかい。じゃ『停止』で』
バロンさんに通信を繋げるとまるで画面が見えているかのような返答が返ってくる。理由はともかく私は言われた通りに『停止』を選択。すると画面はプツリと切れ、色味を失い、それが空間を伝播する。
『プリアさん、アイザックさん。脱出します』
『『了解』』
隷属者の相手をしていた彼らに通信越しに声を駆けると私たちは『法下の秩序』が鎮座する広間から回廊へと戻った。