百三十一記_進撃
——七月十七日、黎明
俺の携帯のアラームが鳴る。いつもなら微睡と格闘を始める頃合いだが、今日だけは誤差なく目が覚める。歯磨きをして、顔を洗うとすぐにインナーに着替えて靴を履き、剣帯を身につける。左腰には二本の重みを感じる。一方は鞘にすら入っておらず、簡易的な革製のホルダーに垂れ下がる形だ。
「準備できましたか。新さま、楠木さん」
シャーロットさんの言葉に頷きを返す。すると楠木がスティック型の携帯食を差し出してくる。戦闘に差し支えがないように空きっ腹にならない程度に食事は抑える。それは事前に決めていたことだった。皮袋の水を呷りながら、逸る気持ちを抑えてよく咀嚼する。やっとのことで飲み込むと一息ついた。その時、ふと気になることができ、彼女に話しかける。
「そういえば、シャーロットさん。イブの朝食って…」
「昨日の内に携帯食をいくつか渡しておきました。明日は長い間、戦闘になるから出てこないようにとも」
それを聞いてホッとする。イブは事情を知っているようだ。
「そんじゃ、そろそろ行くか」
「ああ、行こう」
「ええ、参りましょう」
俺たちは確固たる意志を持って、集合場所の真南の出入り口へと向かった。
移動には忍足を要求された。避難民はまだ大半が寝ている。それにどこに伏兵が潜んでいるか分かったものではない。念の為とイデアの危険信号に意識を向けながら、歩を進める。
そうして薄暗闇の中を進み続け、集合場所に至る。奥まで進むと開けた円形の空間があり、すでに十数人が集まっていた。
俺たちが来たことに気づくや近づいてくる人影がある。…アイザックだ。どうやら用事は点呼のようで俺たちを一人一人見やると手書きの名簿にチェックマークがつけられる。
「今日は頼むぜ、山神新。お前がどれだけ引き付けられるかで攻略難度が大きく変わる。…自分の国のことで部外者に頼るなんてのは情けねえ話だけどな」
彼は俺の肩を小突くと俺たちの後方へと消えていった。恐らく、後に来た人の確認をしにいったのだろう。ものの十分で総勢三十二名が集まるのをアイザックが確認し、出入り口付近の誰かに声を掛ける。するとその人はカードホルダーの中から一枚の紋章と取り出し唱え、出入り口は音もなく現れた土壁のよって閉じられた。驚く人はいない。その場の全員が裏切り者が入ってこないための措置だと悟ったからだった。
「さぁ!それじゃあ、行こうか」
バロンがその言葉の後に『歪曲の紋章』を唱えると彼の前の空間が軋み、何もない内側から強引にこじ開けられるように裂け目が生まれる。それが安定すると順繰りに虚空の中へと足を踏み入れていった。
「おう、バロンさん。準備は万全。いつでも行けるが」
俺が門を潜り、トンネルへと至ったときそんな会話が耳に入ってくる。彼の前には白髪混じりの黒髪の男性。それなりに年老いて見えるが、なかなかに筋骨隆々だ。恐らく所長だろう。
周囲には坑道が伸びている。ゴツゴツとした剥き出しの岩場と人気の無さがラビリンスの中を連想する。見回すと煉瓦造りの水道が小さく目に映った。通路の途中からこちらと垂直で交わっていることからここがレジスタンスによって掘削された現場だと分かる。
「おーい、新くん。ちょっといいかい」
そうしているとバロンから声がかかった。シャーロットさんと楠木に片手でジャスチャーをしてから彼の方に駆け出す。
「まずコレね」
彼から差し出されたのは三枚のカード。一枚は『歪曲の紋章』、もう一枚は『惑乱夢の紋章』。
「あとこれ」
渡されたのは一枚の術式封書。中身はこれまた『歪曲の紋章』だ。
「作戦は分かってるよね」
バロンの言葉に首を縦に振る。目を瞑り刹那の間で手筈を反芻し、再び開く。すると所長に事前に打ち合わせていた通りトランシーバを渡された。機械より疎通系の紋章の方が嵩張らず、動作も数段早く済む。しかし、デメリットもある。大量生産が難しいのだ。
何故かは未だに解明されていないが、生物が意志を持って描かなければ、紋章はその効力を持たない。機械で再現しただけのものは紋章としての力を持つことができないのだ。故に今回のように大人数が関わる際は機械が使われることが多い。
俺は腰のベルトに受信機、インカムを耳にかけ、最後にブレストプレートの固定具にマイクをつける。所長とバロンと送受信のテストを行い、それを終えると俺は渡された『歪曲の紋章』を用いて、地下百五十メートル地点へと転移する。即席で組まれた単管の足場に降り立つとカンッと金属音が辺りに響いた。
『珠玉よ、光れ』
ウエストポーチに手を入れ、ルクス鉱石を取り出す。詠唱すると浮遊。暗闇を後退し、ある一点でそれが止まる。
…地下三十メートル地点
凝視すると薄らと転写された紋章、そして粘着テープで強引に止められた受信機が目に入った。一息つく。あまりの静けさに日常のそれが俺の存在を自覚させる。息の余韻が空間から消えるのと同時に肝が据わった。右手をトランシーバのマイクまで伸ばし、スイッチに手をかけ押し込んだ。軽快で無味な音が鳴る。
ピピッ…!
『Hoc yamagami , Ego loco operis incipedi adveni. Responde mihi , Balon』
(こちら、山神。作戦開始地点に到達。…バロン、どうぞ)
それから数拍空く。通信が混線しないための措置だ。
『…Hoc balon , Rogerious. …Operis incipimus.』
(こちらバロン。了解。これより作戦を開始する)
…ピピッ!
『Rogerious』
(了解)
返事をすると、一度マイクスイッチから手を離し、もう一度押し込む。
『開闢の紋章よ、天地鳴動の力を持って森羅万象を砕き給え』
壁に取り付けられた受信機に言葉が届くと地響きが地を伝い始め、天井に罅が入ったかと思うとそれは爆散する。大小の瓦礫となった岩壁が降り注ぐ。俺は時を同じくして再び詠唱した。
『Ace of spade』
激しい気流が足元から立ち込め、体には人の身には余る膂力が宿る。そして、俺は足場を最大の力を持って蹴った。鉄がひしゃげる音がする。すぐに意識的にイデアに接続し、落石の未来を観測して回避。壁や大きなそれを足場に地上を目指す。それこそが俺が先鋒に抜擢された理由だった。通常、破砕と共に動き出すことは致命傷を負うリスクを孕むが、俺は例外的にそうならない。イデアを用いて数瞬先の未来を見ることができるからだ。
目をあちらこちらに動かして、より良い足場を選定する。やがて地上に亀裂が伝わったのか、眩い光が暗闇に降り注ぐ。俺はより集中を高め地上に至るとすぐさまカードホルダーから一枚の紋章を取り出した。
『惑乱夢の紋章よ。種を拐かす冷徹なる白き闇を持って我らを隠匿せん』
刹那、辺りには何処からか霧が漂い加速度的に視野を奪い始める。周囲には無数の隷属者もある。ただ、俺はそれに構わずウエストポーチから一枚の術式封書を取り出し、地面に擦り付ける。無用になった紙を放ると四方八方から迫る隷属者を尻目に剣の柄に手を伸ばした。
『氷結の紋章よ、龍血を継ぐ奇跡の大樹よ、その力を持ってかの者を拘束せん』
そう唱えながら、楠木にもらった一振りを勢いよく抜剣した。円を描くように回旋し、隷属者を制止させる。間髪入れずに俺は胸元のマイクに手を伸ばす。
『Successus!』
(成功!)
一言そう告げると俺は霧の中、隷属者を観測し戦場へと飛び出した。