百二十九記_拠り所
——同日、深夜
起きた。
目覚めは悪い。それは精神的ストレスからであろうことは容易に想像できた。体が重い。布団に包まることもなく、ベッドに倒れ込むようにして不毛な考えを巡らせ続けていたらいつの間にか眠っていたものだから、寝た感じがしない。
……。
体を起こす。物に当たる。鬱憤は晴れない。
地団駄する。気分が高揚するどころか、虚しくなっただけだった。
…私、あの人たちを。あの街を
殺した。壊した。絶望へと追いやった。
『それは、お前のせいだ』
無数の声が響いた刹那、目を見開いた。凄惨な光景が目の裏を焼く。物々しい叫び声が耳の中で鳴り響く。それは『不死の紋章』を通して見えてしまった物だった。心臓を抉り出されるような痛みが胸を襲い、胃がキリキリと悲鳴を上げた。
痛い。イタイ。痛い。
『俺たちはもっと痛かった』
苦しい。クルシイ。苦しい。
『俺たちはもっと苦しかった』
罪を自覚するごとに呼吸は浅くなり、しゃっくりが始まる。息が吸えない。耐えきれなくなり倒れると、思ったより低いところに落ちた。左半身が鈍い。どうやらベッドから転げてしまったらしい。天を見上げるとやっと呼吸が出来るようになる。そのまましばらく深い呼吸を続けるとやっと意識がはっきりとしてくる。その時、不意に胸の上に重たい何かが乗っかった。
「ニャー」
「…マイヤ」
彼女を両手で持ち上げて注視すると、そのまま抱き寄せる。ドクドクと心音が体を伝って伝播する。いつもなら逃げるマイヤがこの時だけはじっとしていた。
そうしてどれだけ経っただろうか。少しばかり活力が湧いてきた。マイヤから手を離すと彼女は私の隣で後ろ足を畳んで座り込む。私は何とか上体を横にして引き寄せ、起き上がる。
徐に門を開いた。私が潜り抜けるとマイヤも飛び抜けてくる。外に出ると思った通り、お兄ちゃんたちは寝ていた。それもそうだ。明日は大変な作戦だ。今、寝ずに注意力が逸れれば一大事だ。でも、とにかく誰かと話したかった。椅子に掛けられたブランケットを羽織り、その想いだけで天幕から脱し、歩き続ける。
周りはテントだらけだ。闘技場の中は冷ややかな空気が私の存在を嘲るように充満しており、静寂だけが存在を許されていた。まるで猛吹雪の雪原のようだ。足は一歩ごとに吸い込まれ、持ち上げるのが酷く辛い。それでも私は進み続けた。温もりが欲しかった。
そうして歩み続けて大きな天幕に至る。中からは暖色の光が漏れていた。それを捲って通るとたった一つ見知った人相が私の瞳に映った。私の存在に気づいたのか、その人は入り口の方を振り返る。
「どうしたんだい?イブ嬢、こんな時間に——」
「…っく。バーローンー」
声を聞いた瞬間、何故だか堰を切ったように涙が頬を流れ落ち始めた。別段、悲しいことはない。なぜだろう。考えても分からない。でも、とにかく泣きたかった。
「どうした、どうした、どうしたよ。取り敢えず、中入って」
「知ってだのー。私、知ってだの、バロン。知ってても言えながっだの」
慌てて私に近寄り招き入れる彼に私は嗚咽を漏らす。端的に言っても伝わるわけはない。でもそんな理性はその時は何処かへと飛んで行ってしまったらしく、ただ支離滅裂な言葉を連ねる事しか出来なかった。
ズビーーーーー!
勢いよく鼻を噛む。案内された椅子に座り、足元には熱系の紋章の刻まれた暖房器具が置かれている。私を触ったバロンが冷たすぎるとの事で急遽、取り出した品だった。
「あーあー。目も鼻も真っ赤かだよ。…それでどうしたんだい?取り乱すなんてイブ嬢にしては珍しいんじゃ…っても僕の前では二度目かな」
私は声を出そうとする。ただ何度口を開いても言葉が出てこない。躊躇っているのはすぐに分かった。今からするのは罪の告白だ。胃の中に砂利が敷き詰められているような感覚がある。言いたいことは脳内で時間と共に整理されていくのにそれが言の葉として紡がれることはない。
「ゆっくりでいいよ」
バロンは口元を緩めて、一言だけ告げる。その慈愛に満ちた言葉が私の胃に潜み音を立てる悪魔を一時的に封じる。途切れながらではあるが言葉が少しずつ出ていくようになる。
「私…あったの、バロンと買い物した日に。…変な人と。嫌な予感がしたから…私は。その人の…後をつけたの」
「…それで?」
言葉が途絶える。ほんのちょっと話しただけなのに疲れを感じる。それを見てとったのか、バロンは少々、間を開けてから話の続きを促してくれた。
「その人…王宮の…スパイ…だった。だから、私…戦った。…けど、…逃げられちゃった」
刹那、あの日の男の顔が脳天を突き、並々ならぬ感情が込み上げた。
「私がっ!私が殺さなちゃいけなかったのっ!私がっ!あの時、あいつを殺していれば!その覚悟があれば‼︎みんなこんな事にならなかった!」
先と一転して口は滑らかに捲し立てる。目に力が入り、握る拳は震え出す。
「イブ嬢、イブ嬢!…落ち着いて」
対面するバロンが立ち上がり、私の肩に両手を掛ける。そうしていかる肩を宥め、私は僅かに落ち着きを取り戻す。彼に深呼吸を勧められ、言われた通りにそれを繰り返す。そうして呼吸が整うとバロンは再び自分の席に戻る。
「イブ嬢の言いたいことは分かったよ。こうなったことに責任を感じているんだね」
私はコクリと頷く。バロンはそれに理解を示すと首を横に振った。
「君が責任を感じる必要は無いんだよ」
「…っ!でも」
口を開いて反論を企てるも彼が私の前に平手を出して静止する。有無を言わさぬバロンの表情が私をそこで踏み止まらせる。
「君は偶然にも『レジスタンス』の訓練兵、その誰一人として気づかなかった裏切り者に気づき、たった一人で近づきこれを止めようとしたんだ。それだけでも十二分に偉いよ」
「……」
「それにね、子供に人殺しの業を背負わせる社会なんて間違ってる。今、君は僕も想像し得ない後悔と無力感に苛まれているかもしれないけど、きっとその人を殺していたら君は別の意味で後悔を背負っていたよ、『なんで私は引き金を引いてしまったんだろう』ってね」
バロンは眉を顰める。まるでどちらの業も大差ないとでも言うように。むしろ私自らが引き金を引かなかったことを、私の罪を肯定しているようにも聞こえた。
それは違う。
上半身を彼の側に傾けて訴えようとするもこれまた彼に制止された。鋭い眼光が私を椅子に縫い付ける。その時、ふと私の口から言葉が零れた。
「ねぇ、バロン…。私はいつになったら、大人になれるの」
思わずハッとする。それが全ての根幹だった。お兄ちゃん達が私を守るのも、バロンが私に責任を問わないのも私が子供だからだ。だから、私は大人の彼にそう問うたのだ。それに彼は漠然であり、しかし確かな答えを返してきた。
「いつなんだろうね。世間一般的には二十歳と言われるけど…ある日突然『大人』になるわけもないからね。…強いていうなら、大人になろうとし続けることによっていつかそうなってるんじゃないのかな。…少なくとも僕はそう思うよ」
…そっか
バロンの言うことは私にとって雲に手を届かせるほどに遥かな道のりを想像させたが、不思議と出来ない気はしなかった。
「大人とは何か、君がこれから歩く生の中で考え続ければ、いつかは自分で定義付けられる日が来る。それが君にとっての大人だ。イブ嬢は齢九歳にしてそれを考え始めたから、スタートは他の子達よりずっと早い。もしかしたら、早急に理想になる準備は整うかもしれないね」
彼はキザっぽくそう言うと自語りする自分が恥ずかしくなったのか、突然立ち上がり、私の髪を両手で揉みくちゃにし始める。それは気恥ずかしさをはぐらかしているようにも見えた。
「ふふっ」
いつもなら、嫌だと跳ね除けるそれが今日はなんだか心地よかった。思わず含み笑いが溢れる。私を責め立てる無数の声はいつの間にか鳴り止んでいた。