百二十八記_心奥への到達
…今日も気持ちよかった
風呂から出る頃にはシャーロットさんは寝床についており、楠木も頭を背もたれに預けてうたた寝していた。無理もない。日常が壊れれば、必要以上の精神的負荷がかかる。それにぶっきらぼうな割に面倒見のいい楠木のことだ。率先して避難民の誘導や手当てをしていたに違いない。その姿は容易に想像できた。
「楠木、楠木出たよ」
肩を叩き、椅子を揺らして彼を起こす。彼はびくりと体を震わせると何事かと頭を左右に振りながら、目を覚ました。数度瞬きをすると状況が分かったようで落ち着きを取り戻す。
「わりぃ。寝ちまってた。俺も入ってくるわ」
楠木は臀部を掻きながら椅子から立ち上がると風呂場へと向かっていく。その最中、彼は何か思い出したように振り返った。
「そうそう。イブとマイヤは『部屋』に入ってったぜ」
「了解」
俺は片手をあげてそれに応じる。そうして向き直ると静寂の中、ジジ…とファスナーを引き上げる音が木霊した。
…俺もさっさとやって寝よう
多少の面倒臭さを感じながらもその場で座禅を組んで姿勢を正す。そうしていつものようにスマホのタイマーをつけると目を瞑り、呼吸へと意識を向けていく。次第に聴覚が鋭敏になり、遠くから声が鼓膜を突くようになる。その状態がしばらく続くとはたと音が途絶え、意識が内在する何かへと向いていく。体の中に小さな自分が降り立ち、薄暗闇のゆっくりと下へと落ちていく。その時、体の所々が赤く染まっていることに気づいた。同じ部分に嫌な疼きを覚える。
…まさか、イデアの使い過ぎによる消耗
それは痛みには昇華しない。『疼き』で止まり、嫌な感触だけが体の奥を突いている。
…アルバートの言ってた『イデアが乱れてる』ってこれのことだったのか
一年半前の『茫漠蛾の巣窟攻略』以降、俺のイデアを具現化した『火の紋章』と『水の紋章』を多用することは今日まで無かった。凝視してみると内側から外側に赤みが派生しているようにも見える。捉えようによっては魂が身体を侵食しているという見方も出来るか。
自身の体内を下る中、考えを巡らせる。そうしていると足に固く確かな接地を感じる。いつの間にか身体の中だと思っていた風景は消え失せ、代わりに一つの丘と仄暗いが立ち込める空間が目の前に広がっていた。
キーコ、キーコ…
すると近くで木が周期的に軋む音が響く。その方に視線を向けると——木馬を揺らす幼き頃の俺の姿が映った。ワイシャツにサスペンダー付きのズボンにローファー。その格好はお坊ちゃんを思わせる。彼は俺が気づいたことに勘づくや否や、木馬から降りこちらへと向き直る。
『やあ、久しぶり。いつぶりかな、僕』
手を後ろで組み、姿勢を正した彼は俺に何度も会ったことのあるような口を聞く。しかし、記憶を探っても全く心当たりがない。
『…やっぱりね。ちょっと手を出してくれる?』
訳もわからないまま、指示だけが体を動かす。刹那、幼少の俺は俺の手を叩いた。頭に電撃が走り、ニューロンの結合が起きるように独立した何かが繋がる。
そして、俺はここがどこで彼が誰であるかを思い出した。
「久しぶり、『僕』」
俺の固有イデアの番人。人間の集団的イデアが俺を侵食しようとした時にそれに抗う防衛本能、それが『僕』だ。
『思い出したみたいだね。…また随分と心象紋章を使い込んでくれたようじゃないか』
「それはなんかその…。ごめん」
『僕』は嫌味たらしくため息をつく。明確な代償を忘れていた訳だが、現世でも心象紋章に何らかの代償があることは事あるごとに揶揄されていた。それを知った上での紋章の行使であるからして後悔はないが、理由を思い出したせいで気になることが出来た。
「『僕』。あの『憎悪の侵食』はどうなってる」
『ま、まずはそれだよね。いいよ、付いてきて』
永遠にも思える空間を彼に連れられて歩く。すると前のように黒い水面の上に白が滲んだ地点に至る。そこに行くまでにアガルタでの戦闘と『火の紋章』を思い返していた俺はかなりの拡張を覚悟していた。だが、それを見た俺は驚いた。こんな物かと。白の滲みは二回り大きくなっている程度。裁量は判らないが、それほど大きな変化には感じない。
『あの時、アルバート君に教えてもらってよかったね。イデア強度の上げ方』
どうやら俺の直感は間違っていなかったようで、『僕』は皮肉を込めてそう言った。
曰く、アルバートの教えてくれた『瞑想』を俺が一年半もの間やり続けたおかげで俺個人のイデアが強固になり、侵食に対して耐性を得たとのこと。本来なら川幅ほどに成長し、以降は加速度的に侵食が進み、下手をすれば『憎悪』に飲まれている可能性すらあったという。
『だからって、バンバン使っていい訳じゃないからね。侵食は抑制できてるけど、確かに進んでいる事に変わりはないんだから』
俺の抱く感情を先読みしたように『僕』は釘を差してくる。
「分かってるよ。そもそもこんな緊急時でもなければ、普段は紋章を使わない。君も知ってるだろ。俺を観測してるんだから」
ラビリンス探索中は余程のことがなければ、紋章を使わない。それは戦闘勘を磨くためだった。シャーロットさんに「Rosa・peccatumの鎮座する深層の水準は際限まで上げた戦闘能力に紋章行使を加えてやっとやり合えるかどうか」と聞かされている。今はまだ魔物と読み合い、純粋な戦闘能力で渡り合う時期だ、とも。
『そんなこと言うけど、『僕』は厄介事にすぐ首を突っ込むだろ。今回はなし崩しだから何とも言えないけど、これからどうなるか分かったもんじゃない。心象紋章以外もちゃんと使えるようにしといてくれないと困るよ』
…否めない
完敗だった。自己を観測する自己とはこれほどまでに合理的なのかと頭を悩ませる。何を言っても勝てる気がしない。
『そんなことは言うけどね。…今回ばかりは盤面が悪すぎる。ちょっと手助けをしてあげるよ。君が死んでしまうのは僕も本望じゃない』
彼はズボンのポケットに手を突っ込む。白く光る真珠のような小さな玉を取り出した。
『これは君が一年半を経て、イデアの強度を上げた賜物だ。危なくなったら使うといい』
『僕』は言葉と共にそれを俺に向かって差し出す。受け取ると白い炎が全身を包むように渦巻いた。しばらくするとそれは胸の中心で収束し、俺の中へと入っていく。
「これは——
彼に問おうとした時だった。心層空間が大きく揺れた。何処からかノイズが聞こえ始め、それは少しずつ大きくなっていく。
『——た。—らた。あらた、新!』
楠木の声だった。
『言ってなかったね。『僕』は瞑想中に自身と向き合う間にここに降りてきたんだ。君の肉体は今頃、横たわっているよ。楠木君には気を失っているように見えたのかもしれないね』
空間にはヒビが生じ、辺りから無数の光芒が視界を劈く。
『目覚めが近いかな。戻るといいよ。僕からの要件はもう済んだ』
ついには足元の黒で満たされた水面が断絶する。
…待て、まだ君に聞きたいことが
俺はよく知っている。どれだけ有益な事を知り得てもこの場所でのことは——
体が宙に浮き『僕』との距離が瞬く間に離れていく。反射的に手を伸ばすもそれは無為なことだった。
『大丈夫だよ。君は堕ちてきたんじゃなくて降りてきた。だからきっと——』
忘れない。
口に綻びを覚える。流石は『僕』だ。俺のことはお見通しだとでも言うように彼は語り、俺は問いへの答えを得る。満足感の中、意識は泡沫となって消えていった。
* * *
「新、大丈夫か!」
必死に叫ぶ楠木の声が覚醒の兆しとなる。瞼を開くとテント内に吊るされた電球の明かりが目を突き、無意識に瞬きを繰り返す。やがて視界は安定し、遮るように楠木の顔が瞳に映った。
「…大丈夫」
ぼんやりとした意識の中で口元を何とか動かし、ゆっくりと上体を立てる。次第に頭が明瞭になると、心奥で『僕』と話した内容。そして、これまで彼に伝えられたことが想起される。
…よかった、覚えてる
その事実に安堵する。共有すべきことは多かったが、明日の作戦のことも考慮し楠木には予め『掻い摘んで話すこと』を伝えてから、自身の心奥『イデア境界』で起こったことのあらましを語る。それを終えると早々に二人して寝床についた。