百二十七記_氷結剣ジャバウォック
天幕を出ると俺とシャーロットさんは楠木に連れられて新しく作られた拠点に案内された。比較的片付けやすいケトルやトライポットはどさくさに紛れて回収したようだが、長机や天幕は地下壕の方に置きざるを得なかったらしい。別に代わりがないというわけではないが、この非常時に日常的なものがあることに安心感を覚える。
拠点に着いてから小休止を終えると予備コンロや長机、持ち運び式の風呂などの設営を始める。それから夕食を作り始めた。明日は決戦だ。腹は据えておかねばならない。
『イブ、起きてる?』
『うん…』
不安げな声と共に『不死の紋章』と繋がる円形の門が宙に浮かぶ。その中からマイヤを抱えたイブが現れた。顔を俯けているからか、長い髪が垂れて表情が影になる。だが、その猫背の歩き方や下から彼女を見上げるマイヤが心配そうに鳴くのを見るに今回の出来事で相当のショックを受けている事がわかる。ホントなら、俺もあんな阿鼻叫喚が連なる常世に到来した地獄など彼女に見せたくなかった。ただ、あの場で『不死の紋章』を手放すわけにもいかない。結果、紋章を通して見たくもないもの。…年不相応な戦乱の地獄を見せてしまった。
「イブ、ご飯食べられる?」
立ち尽くす彼女の前に片膝をついて、そう自分にできる限り優しい声色で囁くことだけだった。イブは返事の代わりに頷き、マイヤを地に下ろす。その間にマイヤのご飯はシャーロットさんが用意してくれたのだが、余程イブの様子が気になるのか、彼女の足元に蹲り全く餌に手をつけなかった。俺たちが食事を終えても全く減っていないことからそのまま置いておくことに決める。
その後、シャーロットさんとイブは風呂に入りに行った。どうにも今日はイブから片時も離れたくないようで風呂嫌いのマイヤもそれに随行していた。
俺は彼女らが出るまでの暇は装備の点検に当てようと決めて、剣帯を腰から外しポーチからルクス鉱石を取り出したその時。
「新、ちょっといいか」
折りを見たように楠木が話しかけてきた。
「別にいいけど、どうしたの」
俺は剣とルクス鉱石を机に置いて、近くに転がっていたスツールを手に取って座る。すると何処から出したのか、一振りの長剣が眼前に突き出された。
楠木に受け取るよう顎でクイと促され、それを手に取る。
…刃がない
ルクス光に当てるも刃特有の鋭利な煌きが帰ってこない。儀式用の剣かとも思ったが、それにしては装飾が無骨だ。ただその剣身のある部分に目が止まる。それはよく知った紋章だった。
…氷結の紋章
それが四つ連なっていた。
「気づいたみたいだな、新。今、お前が思った通り、それは対象を凍結させることに特化した紋章剣。…悪いな。ホントは今日みたくなる前に間に合わせたかったんだが」
曰く、あの十一層で取った氷結樹の木の実の余りを全て『回収の紋章』に取り込んで紋章化し、楠木自身がそれを彫り込んで転写した紋章剣だそうだ。それを聞いて合点が行く。
「それじゃ、バロンに鍛冶屋の話聞いてたのって…」
ローレライの鍛冶屋。バロンのお勧めで襲撃の前日に彼が行っていた場所だ。あの日、その場所で楠木は最も耐久性の優れた金属をローレライと呼ばれる鍛治師に所望。すると出て来たのは刃付けのされないまま放置された直剣だったらしい。想定した使用用途から刃がなくても問題がないことを悟った彼はそれを買い叩いて購入。それからバロンに会議に呼ばれる直前まで作業し、やっとのことで完成させたらしい。
「なんか…ありがと」
隷属者を無為に殺さなくて良くなったことで、肩の荷がスッと降りる。今日は多数を守るという大義名分を持って迫り来る彼らを殺し続けたが、殺すことに慣れることはついぞ無かった。少し思考を傾けただけであの渇いた肉を切り裂く感触はこの手に蘇ってくる。楠木の剣の存在はこれから犯すはずだった数多の罪を無きものにしてくれた。
「別に俺はこれ以上死人を増やさないため…いや違え、よな。お前にこれ以上『人を殺す業』を背負って欲しくないだけだ。俺の我儘だ。死人を増やさないだけなら、氷結の紋章を分配した方がいいに決まってる」
楠木は俺から目線を逸らし、下を向いて頭を抱える。対して暑くも無いのに額には汗が浮かび、瞳孔が不自然に開く。身内贔屓をしてしまったことに気付き、自身を糾弾しているのは明らかだった。
「大丈夫だ、楠木。明日、俺たちがより多くと相対して封じれば、何も問題にならない」
俺は彼の肩に手を置き剣の柄を握り込んで、そう宣言する。刻印した紋章を取り出すことはできない。なら、できる事はこれからを良くすることのみだ。
「そうだ、そうだな…。俺もなるべく状況把握に努める。明日は頼むぜ、相棒」
「ああ」
不意に宙に差し出された拳に自身の拳を合わせて応じる。
「なんか思い出すな。『茫漠蛾の巣窟』を攻略した時のこと」
楠木の呟きに含み笑いを返す。確かに似ている。自分たちの最善を尽くしても成功確率は著しく低く、そんな馬鹿げた策に命を投げ出さす他、選択肢が無かったあの状況に。
「なら、どうにかなるかもね。俺たちはすでにそれを超えてる」
冗談めいた口調で楠木に返すと、「だな」と一言だけ口にする。
その時、後方からファスナーの音が響いた。どうやら丁度よくイブとシャーロット さんが風呂から上がったらしい。
「お前、どうせ今日も瞑想してから寝んだろ。だったら先入ってこいよ」
「それじゃ、お言葉に甘えて」
イブが『部屋』と行き来出来るようカードホルダーだけは長机の上に残し、俺は彼女らと入れ替わるように風呂場に向かった。