百二十二記_平和の終わり
——二〇二六年、七月十六日、レジスタンス訓練場
その時は突然だった。
『新、新!俺だ、楠木だ』
訓練の相手を静止して『大耳の紋章』を取り出すとそれを耳に当てる。
「どうしたの、そんな切羽詰まって…」
『お前、そんな悠長に構えてる余裕ねえぞ!よく分かんねえけど、居住区を中心に隷属者がバカほど入ってきやがった!』
は——
絶句する。思考が止まるその刹那。訓練場に取り付けられたスピーカーから同じ内容の放送が行われる。『俺は先に逃げるからな。お前も早く来い!』。彼は一方的にそう言うと紋章の繋がりを切った。
「ったく、今日に限ってバロンさん居ねぇぞ!」
「しょうがないだろ!多分、もう連絡は行ってるはずだ!すぐに近場の転移紋章から帰ってくる。俺たちは急ぎ住民避難だ。『脱出口』は死守するぞ!」
脱出口。バロンから事前に説明だけは受けていた。確か、地下壕とは直接的に繋がっていない別の地下空間へ移動する門だ。原理は簡単、『歪曲の紋章』をとてつもなく大きく石板に書いただけ。確か数百人単位で転移できたはずだ。おそらく避難民はすでにそこに押し寄せている。幸い、そこは俺たちの拠点の奥。楠木、イブ、マイヤは安全なはず…。
「行くぞ、新入り!」
「…はい!」
訓練場を出て居住区中央へと向かう。アナウンスによれば居住区の路地裏各所から隷属者が次々と現れているとのこと。各々、身体能力強化の紋章を駆使して移動し始める。
最高戦力を欠いた日中の襲撃。
バロンとシャーロットさんを含めた上位戦闘者はいつも通り新戦力を求めて地上に出ている。
…上位者が三十名。訓練場の戦闘者がおよそ二百
通路に出ると案の定、住民でごった返していた。混沌。数多の叫び声と雑踏。彼らは我先にと『脱出口』へ向かっているのが分かる。
「…っ。どうするよ。これじゃ居住区にも『脱出口』にも行けねえぞ」
どこからか聞こえたそれを皮切りに戦闘者が騒めき出す。『レジスタンス』にリーダーはいない。寄せ集めの集団だ。強いて言うなら、その好感度からバロンがその枠に当てはまる。だが、生憎彼は不在。その場で兵たちが顔を見合わせる。その目からは誰が指揮権を取るのか、責任の所在は。そんな事が表情から読み取れた。落ち着かせようとする少数もいるが数が足りない。
…っっ。ああ、洒落臭い
「訓練兵五十を避難誘導!残りの兵で居住区に向かい、敵を撃つ!」
俺は腰元の剣を抜き放ち、天に掲げて叫ぶ。この刹那にも人命は失われている。迷っている暇はなかった。騒めきが止まり、刹那の静寂。それから各所から雄叫びが返ってきた。
「すいません、エルンストさん。人選はお任せします。なるべく早くお願いします」
俺の横にいたオールバックの中年男性に声をかける。確か、彼は『レジスタンス』の最初期からいるメンバー。面倒見がよく、個々人の性格を熟知している。振り分けは彼に任せるのが肝要だ。それにこの瞬間も落ち着いている少数の一人でもある。人選としてはこれ以上ない。
「…それはいいが、山神くん。君はどうする」
「俺は一足先に居住区に向かいます」
「この状況でどうやって——」
その意味は分かる。早く行こうにも身体能力系の紋章で居住区に向かって逆走すれば、正面衝突の危険がある。それでも俺は容赦無く紋章を発動させる。俺だけはそのデメリットを相殺する術があった。
『俊敏の紋章よ、獰猛なる捕食者の疾くを我が身に宿せ』
『剛力の紋章よ、他が為に振るわれるその力を我が手に』
…イデア、力を貸せ
出来うる最高速で詠唱を唱えると目を瞑ってイデアと視覚を共有。住民の間に出来る僅かな隙間と人の流動を観測すると合間を縫って俺は居住区に向かい始めた。
地を、壁を蹴り、眼を目まぐるしく動かす。ただ必死だった。住民の波の後ろに行くほど血痕が目立つようになる。怪我をしているもの、血を浴びているもの様々だ。俺は住民の応急措置をしたい衝動に駆られながらも先を急ぐ。居住区の方では今も虐殺が行われているはずだ。
混乱に喘ぐ住民から目を離し、再び前を向いたその時、シャーロットさんから連絡が入った。移動速度を緩めずにホルダーから『大耳の紋章』を手に取る。
『新さま、ご無事ですか』
『はい、シャーロットさん達は?』
声が風でくぐもる。あちらもかなりの速度で移動しているらしい。俺がまだ戦場についていないことを伝えると着いたらすぐに『眷属召喚』をするよう言われる。それだけ伝えたかったようで直ぐに途絶した。
…まさかこんな形で役に立つとは
『大耳の紋章』は本来、『部屋』に入ったイブと双方に会話するため導入したものだ。連絡手段として使うことになるとは思いもしなかった。
瞬間、人の波が何かを避けるように弧の字に押し出されているのが目に入る。その中心には隷属者の姿。今にもその凶腕が住民に振るわれようとしていた。
「…Ace of spade」
身体能力強化に騎士の限界突破の口上の上乗せ。刹那、視界がぶれ次の瞬間俺は住民と隷属者の間に割って入っていた。着地した勢いのままに急速に前傾。手首を捻り、剣を切り上げる。
——タスケテ、イタイ、クルシイ
隷属者の声がイデアを通じて流れ込んでくる。ふと剣を握る右手から力が抜けそうになる。
…すまない
奥歯に強い力が籠る。俺は意志を込めて剣を握るとそのまま隷属者の首を刎ねた。人の筋繊維を断つ感覚が駆け抜ける。遅れてその肢体がどさりと落ちた。
…すまない。生きてる人を生かすために死んでくれ
「行って!ここは俺が食い止める。君たちは早く逃げるんだ」
状況の変化に固まっていた住民に指示を出すと彼らは駆け出す。間もなく付近の隷属者が俺を標的に取って動き始めた。
「我が従者『白騎士』シャーロット・ローレンスよ。縁を手繰り眼前にその姿を表せ」
刹那、白と青の眩い光が地から沸く。俺は召喚を待たずに命を下す。
「シャーロットさん、その場で隷属者を迎撃!俺は逃げ遅れた避難民を救出します」
言うや否や、俺は居住区の奥へと踏み出す。すると後方から声が届いた。
「承知いたしました。ご武運を」
そうして、俺は遍く存在する隷属者の中に飛び込んだ。