百二十一記_唯一の執行者③
何かを企む青年は高らかと声を上げた。
『歪曲の紋章よ、理の外に存在せし獣を今一度解放し、我が眼前に彼ノ地へ続く門を開かん』
刹那、どこからか伸びた薔薇の蔓が膂力を発揮し氷を締め砕く。詠唱に呼応し、彼の後方には空間が不自然に歪み、どこかへと繋がる門が現れる。
「最適解は凍らせる前に俺を殺すことだった。それが出来なかった君の敗北だ」
耳障りな捨て台詞と共に彼は門の中に倒れ込むようにして虚空に飲まれた。すぐさま門は閉まり、万事休すとばかりに重たいGANDが右手に垂れる。
…やっちゃった
私はその場で立ち尽くす。ふと足から力が抜け、膝から崩れ落ちた。
…あいつの言う通りだ
甘かった。理由を聞こうなんて高尚な事を考えなければよかった。怪しきは罰せ。そうするべきだった。いや、違うとすぐに気づく。
…私は人を殺す覚悟なんて持ってない
仮に即座にその考えに至ったところで私は引き金を引けなかったはずだ。
私は無力だ。
それを自覚した瞬間、目が熱くなり堰を切ったように涙が溢れ出す。力があれば、守れると思った。だが、それ以上に必要なのは覚悟だ。時として同族すら何の躊躇もなく屠れる覚悟。私にはそれがなかった。守るだけじゃ足りない。『殺す』ためのそれが必要だった。
空虚が満ちる。地下道の中で座り込んでしばらく泣いて、頭がぐちゃぐちゃに掻き乱されて…疲れてしまった。涙も既に枯れ、泣き痕にはヒリヒリと痛みが残っている。何となく寄りかかっていた地下水道の壁から冷ややかさを感じる。それは私の非力を増長させているように感じた。
…帰ろう
いつもは軽い重力が一際重くのしかかる。私はGANDをしまって壁を支えに立ち上がると、拠点へと向かって歩き出した。
——同日、深夜、名もなき闘技場
拠点に帰ってからはいつも通りに過ごした。幸いと言っていいのか、取り繕うことには慣れている。これも囚われていた時の経験だ。とはいえ、お兄ちゃんには勘付かれそうになったが。
『イブ、どうかした?』
夕食中にふとそう聞かれたのだ。心がビクついた。即座に否定したもののお兄ちゃんは首を傾げて不思議そうにしていた。一年半も一緒にいると仲間の変化の機微に敏感になるのか、それともイデア接続者としての勘か。お兄ちゃんが自分をちゃんと見てくれていることを嬉しく感じる反面、怖くもあった。自分が犯した取り返しのつかない間違いを知られることが。
「イブ嬢、何だか身が入っていないようだけど大丈夫かい?」
私はGANDを構えたまま考え事に耽っていたらしい。バロンの口ぶりからするにかなりの間、硬直していたのだ。
「ううん。大丈夫。続ける」
それからはただ無心に銃を撃ち続けた。逃げるように、避けるように。考えることを、自分を糾弾することを。そうして向き合わないうちにその日は来てしまった。
二〇二六年、七月十六日。地下壕は隷属者の襲撃により阿鼻叫喚に包まれ文字通りの地獄と化した。
そうなるまでついぞ私はこの事件を口には出来なかった。言わないといけないのは分かっていた。何度も、何度も喉まで込み上げた。けれど、怖かった。自分の失態を晒すことが、責められることが。
そもそも言ったところでどうにかなる規模の話ではなかった。その事実はより私の口を閉ざした。
私の我儘が——XXXXXX。