十二記_旅立ち
——二〇二四年、六月十八日、火曜日/早朝
俺は自分の家の前にいた。シャーロットさんに家まで転移させてもらったのだ。
…これでよし
俺はポストの中に一通の封筒を忍ばせる。業平も根岸先生も今は親交が浅い。ただまどかだけは心配だった。彼女にとって俺のいるこの家は憩いの場となっている。なら、言伝ての一つして行った方がいいだろうと思ったのだ。
「よろしいですか、新さま」
「はい」
その言葉に頷くと彼女は、カードを持った右手を突き上げて口上を言った。
『アトラスの紋章よ、天と地を支えしかの巨人の力をもって異界へと続きし扉を開かん』
刹那、虚空に俺たちを飲み込もうとする激しい空気の流れが発生する。其れに抵抗し足を踏ん張る俺の背後から強い力が働いた。
シャーロットさんが俺を押したのだ。きりもみ回転を始める俺を他所に彼女は慣れたようにその場で軽く跳び、発生している荒々しい流れに身を任せる。
黒と紫が混在する空間の中で俺は深く深く落ちていった。
* * *
…今日も来ちゃった
私はいつものようにポストを開き、裏側に貼り付けられた合鍵を手探りで取ろうとした。
…ない
「あれ?あれ…?」
驚きながら、姿勢を屈めて下からポストを覗き込むも鍵はない。
代わりに一通の封筒を見つけた。
『まどかへ』
…おにーさんの字だ
私はその場で封を解くと手紙を読み始めた。
まどかへ
多分、まどかのことだから今日も家に来ていると思う。
突然で悪いけど、俺は遠くに行かなくちゃいけなくなった。
途轍もなく遠い場所だ。長かったら七年は帰らないかもしれない。
『任せて』と息巻いておきながら、最後まで面倒見きれないことを申し訳なく思う。
ただ、正直に言うと君に教えられることは随分前から無くなっていた。まどかはすでに独力で知識を学べるようになっているから、後は自分で頑張るだけなんだ。
そうだな…これは本当に俺の勝手なんだけど、帰ってきた時に心身共に成長した君が見られると嬉しいかな。
ああ、それと鍵は封書の中に入れて置いたから、家はこれまで通り自由に使って構わないから。それじゃあ、また今度。
知っていた。私はとうに自分だけでやっていける事を。そもそもおにーさんは『勉強』そのものを教えると言うよりは『勉強の進め方』『モチベーションの高め方』『毎日続けるための習慣』など勉強する以前のことに重点を置いていた。
因みに私が成績を伸ばせなかった理由もここにある。勉強の進め方…詰まるところ、手に取る参考書の難度を違えていたのだ。だから、おにーさんと一番最初にやったのは参考書のチャートの組み立てだった。やがておにーさんがやっていたことをいろんな事を真似して自分なりのものに仕立てていった。
正直、半年前くらいからは自分で出来るようになっていた。それでもこの家に通い続けたのは何処となく居心地がよかったからだ。
…おにーさんと勉強して、冗談言って。私、それが楽しかったんですよ
手紙を捉える視界が揺れる。気づくと頬には涙が伝っていた。おにーさんとの日常は暫くぶりの充足した日々だった。それこそまだ家族が仲違いしていなかった頃のように。
…おにーさん『面倒見きれなくて申し訳ない』なんて言ってますけど。本当はとうに終わっていたんです。それでもおにーさんが私が居ることを許してくれたから、こんなに楽しかったんですよ。
「…おにーさん私待ってますね。きっとここじゃないと分からないと思いますから」
そのうち帰ってくるのは間違いない。何せ、おにーさんは約束を違えなかったのだ。一年もの間ずっと。なら、その言の葉に嘘はない。
私は封筒の中から鍵を取り出す。その日、私は初めて『マスターキー』を使って一室に赴いた。




