百記_自戒の祈りと死者への手向
…チチッ……パチッ。…パチチッ…。
暖炉の薪が音を上げる。日の入りの悪く、電気のないこの家では炎の灯りが生命線だ。楠木はその前で俺の盾と睨めっこしていた。
「楠木少年、どれくらいかかる?」
「固定してる皮ベルトが全部傷んやがる。一応、ヒンジも変えたいからしばらくかかるな」
灯りで盾を照らしながら、楠木はそう答える。
「ってか、新。手ぇ大丈夫か。こんだけ皮伸びてたら怪我してんじゃねーか」
彼は盾から顔を上げて、家の壁にもたれていた俺の方に振り返る。
指摘を受けて確認するも特段痛みはない。念の為と前腕の鎧を外して袖を捲ると鬱血痕が残っていた。左手を開いたり閉じたり、腕を回転したりするがどこかが痛むということはなかった。
「ちょっと赤くなってるけど、大丈夫だよ。ほら」
彼に向かって声を上げながら、眼前で持ち上げた左腕を右手で叩く。丁度、盾のベルトと干渉していた箇所だ。
「なら、良いけどな」
それを見ると楠木は再び盾へと視線を戻す。近くに座るバロンと何やら話しながら、修繕に入った。楠木に灯りを安定供給するために彼が火の管理をしている。
視線を家のドアに向ける。俺の仕事は見張りだ。黒バラの隷属者は原則として人を見つけない限りは家屋への侵入はない。さらに都市のメインストリートには集中しているので路地裏はかなり安全と言える。
しかし、油断はできない。ハグレがいる可能性は常にある。それに彼らはいわば、体の中が植物化している。怖いのは光のない夜よりそれの降り注いでいる昼間だった。
「…新さま、少しよろしいですか」
隣に座るシャーロットさんが呟く。目端で彼女を方を見ると顔はしっかりドアの方を向いている。
「なんですか」
目を前に戻してから応じると、彼女は一拍空けてから息をついてから口を開いた。
「…先ほどの隷属者、あの攻撃わざとですよね」
「……」
俺は彼女の言葉に沈黙を返す。わざと、と言われればわざとだ。猛獣相手ならこんな失態は犯さなかった。
「…はぁ。昨日、バロンさんから隷属者の話を聞いた時のあなたの様子からおかしいとは思っていたのです。先の戦闘を見て確信しました。新さまは隷属者を殺すことを躊躇されています。そうですよね」
視線がこちらを向き、シャーロットさんは断言する。
事実だった。
理性の上では分かっている。隷属者が襲ってくるなら、倒さなければやられる。人の時もそうだ。ロサイズムの大男…バルバロイとの一戦は『炎の紋章』によって感情を増長されていたから戦えていたものの、本来は人を相手取って命懸けの戦いなど出来るはずもなかった。
——相手が死んだら悲しむ人が確実にいる
我ながら都合のいいことにこれは同族相手にしか感じない。虫や動物相手には露ほども感じないのだ。食物連鎖だからしょうがないとでも考えているのかもしれない。
そんなことを思う自分自身に呆れ、現実から目を背けるように俯く。すると徐に口が動き始めた。
「目が、目があったんです。あの隷属者になってしまった女の子と」
この都市の多くの隷属者は鼻頭を中心にバラが咲くため顔が判別できない。ここに入ってきた時に戦った無数の彼らは少なくともそうだった。
ただ、その人は違った。咲く場所が良かったのか左半分の顔が綺麗に残っていた。
「彼女は泣いていました。目で訴えていたんです。『イタイ、タスケテ』って…」
少なくとも俺にはそう見えた。瞼に火照りを覚え、瞳を閉じると裏には先ほど戦った女の人の顔が想起される。胸に苦しさを覚え、目を見開く。明らかに息が荒くなっているのを感じる。
けたたましい心音を抑えようと何度も喉を鳴らす。それはまずいものを飲み込んで胃の中に消してしまおうとする感覚とよく似ている。しかし、何度それを行なっても胸中の異変が止まることはなかった。
「…新さま、お辛いとは思いますが、『妥協』してください。襲って来る相手に剣を向けられなければあなたが死んでしまいます」
…言われなくても分かってる
だから、先の戦闘では感情を押し殺して剣を抜いた。だが、結果がこれだ。人の部分を垣間見ようものならきっと振るえない。
もしかしたら、次は剣を抜くことすらできないかもしれない。それほど隷属者の名も知らぬ彼女の顔は脳裏にこびり付いている。次の戦いで考えただけで手が震え始めるほどに。
「ちょっといいかい?新くん」
俯いていると頭上からバロンの声が聞こえた。
「良いのですか、バロンさん。楠木さんの補助は…」
「それは大丈夫。楠木少年、盾のバラシが終わったみたいでね。『こっからは集中するから、一人でやる』と追っ払われてしまったよ」
彼はわざとらしく右手を力無く振るジャスチャーをする。
「シャーロットちゃん、外の警戒頼めるかい?ここは新くんと僕でやるよ」
「…分かりました。バロンさん、ここを頼みます」
彼女はすんなりとそれを了承して、武器を手にドアの外へと出ていった。
ギギッ…というドアの閉まる音がする。扉の向こう側から物音がしなくなるとバロンは俺の隣に座り込んだ。
「ちょっと話が聞こえちゃったんだけど。もう一度、君の口から聞きたい」
——どうして、隷属者を殺すことを躊躇うんだい?
俺は答える。それは彼らが人でその人が死んだら悲しみ人が必ずいるから戦えない、と。
「…そうなんだ。…残念だけど、君のその考え方ではこの戦いは生き残れない。ましてやその思想のせいで君の大切な仲間が死んでしまうかもしれない」
彼はゆっくりと上を向くと「これは仕方のないことなんだ」とでもいうように長いため息をついた。
「確かにね、君の持つ思想は尊いものだよ。何があったか知らないけど、そこまで他人のことを考えられる人は珍しい。普通はみんな自分のことばかりだ」
バロンは柔らかな声色で話し続ける。それが暴言であればどれだけ良かったことか。閉した心の僅かな隙間を縫って言葉が伝わり続ける。
「でもね。君一人の届く手には限りがある。どれだけ強くなったとしても、ね。それは状況によっても変わる。だから、命に優先順位をつけて命を選定しないといけない。今回はここまで、次は……ってね。それで『これで良かったんだ』と決めつけるんだ。そうしないと理想と現実とのギャップに苦しみ続けることになる。それだと新くん、君が壊れてしまうよ」
彼の手が肩に乗る。じんわりと暖かいその熱は暗に「仕方のないことだ」と告げていた。
すると俺の眼前にジャラッという金属音と共に何かが吊り下げられる。
「もし、命を選ぶということに重みを感じるから、これを使うといい」
それは彼の持つロザリオだった。暖炉の橙と窓から差し込む人工光源の白を反射し、十字は鈍く光る。ゆっくりと手を伸ばすと俺の掌に落ちてきた。
「別に怪しい宗教の勧誘じゃないよ。信仰は君に任せるさ。別にロザリオが嫌だったら、数珠でもいい。自らの罪を贖い、死者の幸せを祈る。多少は自分を許せるはずだよ。…少なくとも僕はそうしてる」
バロンは話を終えると立ち上がり、扉の外に消えた。
手の中には彼のロザリオがある。俺は震える手でそれを握ると一言述べた。
…名も知らぬあなた。殺してしまってごめんなさい
再び手を開いて十字を見やると、俺は苦笑した。こんなことで彼女を死に追いやった事実は変わらない。論理ではない。けれど、バロンの言ったように少し心が軽くなったような気がした。