第七話~変化する、疲弊する~
転職後、初の年末繁忙期は本当に大変だった。
正直夏の繁忙期も経験していたが、そんなレベルではなかった。
正直覚悟が足りなかった、と思うぐらいには仕事が忙しく平日は仕事→寝るだけの機械とかしてしまっていた。
同然休みになれば母親の洗濯物や、食料品・日用品の買い出しなどで駆り出され殆ど休む暇もなかった。
「師走」という言葉が本当に似合う12月だったと思う。
その間、父親の惑星直列並の通院もあったが、これも結構グダグダだった。
以前にも記述した通り、私木辺本人と木辺母で通院を回していたが、主だって行っていたのは母であった。
その為、父親の健康保険証や診察券なども全て母が管理していた。
その母が緊急入院したことで、母が自分の鞄を持っていったことで全て入院している母が持っている形となってしまったのだ。
当時の私はそんなこと露知らず、父親の一件目の通院の前日まで気が付くことはなく、前日になって必死に家探しし見つからず、通院当日となった翌日に母に電話してようやく母が持っていることに気が付いたのだった。
ちなみにこの時コロナのお陰で助かった・・・というわけでないが、病院内での携帯電話の持ち込み・使用が許可されていた時期でもあった。
面会できない変わりに他の患者さんの迷惑でなければ、病室で携帯電話の使用が出来たお陰で運よくなんとかなったのだった。
ただこの時の父の通院は他市の総合病院での検査で、当然だが朝からであった。
しかも気が付いたのが当日朝ということもあってお昼からの受け渡しでは間に合わない。
気も引けたが病院に直で連絡。事情を説明し特別に朝受け渡してくれることとなった。
と、同時に母親から「おむつの中に入れるパットも少なくなっているので持ってきてほしい」と言われたので購入しこちらは9:00からであれば曜日関係なしに渡せるということだったので持っていった。
受付で検温・消毒を済ませ、受付で荷物の受け渡しをする旨を伝える。
「今担当の看護師が下りてきますのでお待ちください。お持ちいただいた荷物も担当の看護師が届けるそうなので渡してください」
と言われたので、入り口横の待合で待っていると担当の看護師が二階から降りてくる。
時間外の対応だったのでしっかりとお礼を言って、持ってきた荷物を渡すと
「は~?仕方ないので受け取りますね」
と、心底面倒くさそうに看護師さんに言われる。
先日の入院の説明や父を過剰に待たせた一件で病院への不信感があった私は「は?」と喉元まで出かけていた。
母から私への受け渡しは時間外ではあるが、私から母への受け渡しはこの時間は問題なはずだ。
それを「仕方ない」と言ってしまうのはどうなのだろうか、しかも疑問形のため息着きで。
態度が悪いとか、そういうレベルではない。
「仕方ない」と思いながら患者さんや患者家族に接してしまうのは、それこそ仕方ないことだと思う。
看護師さんだって報酬を貰って働くサラリーマンなのだから。
ただそれをまさか患者家族に向かって言う、というのはどういう了見なんだろうか。まさかそんな態度を隠しもせず日々患者に接しているのではないのだろうか。
近年、新型コロナウィルス感染症の影響で患者家族が病院内へ立ち入ることが出来なくなり、病院の中はある意味誰の目に触れることの無い密室になっている。
それをいい事にやりたい放題やっているのではないか。
そんな邪推をしてしまうほどに、私はこの時イライラしてしまった。
正直すぐに病院へ連絡してクレームを入れてやろうとさえしたが、やはりここでも「今クレームを入れて、もし私が邪推していることが合っていたりでもしたら母親が酷い目に合うのではないか」と考えて思いとどまった。
「あの人の家族は煩いから」などと謂れのない弊害を受けても・・・と思うとどうしても行動に出ることが出来なかったのだ。
結果さえ言ってしまえば、恐らくこの時思いとどまらずそう思われてもいいからクレームを入れておけばよかった、と思うことが後々あるのだが・・・。
兎に角、その時は父の通院時間も迫っていたため頭をそちらにシフトすることでなんとか怒りを沈めていった。
この日は膀胱がんの定期検査だったので、血液検査と尿検査、数分の問診という内容だったのだが朝入って帰ってきたのが15時頃と本当に時間が掛かった。
父の膀胱がんは特に変わったことはこの時点ではなかった。
本来であればこの時放射線治療に開始の打ち合わせを行う予定だったのだが、母が緊急入院したことで延期となってしまった。
放射線治療は、基本的に1カ月、週6で病院へ通い行うのだが、父母の年齢を考えて雪道を運転しての通院は難しいだろうと考えて、雪解けと共に開始するつもりだったのだが今回母親の入院もあり、私では1カ月丸々休むというのは難しかったため母が退院してから考えよう、とこの時は考えていた。
父も同じだったようで、私の意見に賛同してくれた。
先生からも「年齢的に見て、急激に癌が成長するとは考えられないのでまだまだ考える時間はあって大丈夫でしょう」と。
実際放射線治療をすれば完治できるほど、父の癌は小さいものだったので先生に言われたこともあって、結論を持ち越したのであった。
帰宅後、妻が帰ってきてからリハビリセンターであったことを話すと
「それなんで言わないの?馬鹿なの?ヘタレなの?」
と、やたらと罵倒されたことを今でもよく覚えている。
週5の繁忙期、休みの2日間は家族の為に、そして時々父の通院と私が自由に使える時間など殆どない状態だったので、流石の私も限界だったのだろう。
年越し直前で体調を崩したのだった。