3.月明かりの夜
ギャレット邸の晩餐では。
料理自体は馴染みのあるものだったが、変わった香草や癖のある味付けが多い。
特にシェリエルは喜んであれこれと皿に取り分けてもらっていた。
それぞれ自身の補佐官やメイドに毒見をさせても、そのことでギャレットたちが気を悪くする様子もない。
「この町は薬草が名産なのですね。町でも変わった草や花を見かけました」
「はい、気候のせいか他所では育たない薬草も育つので……」
「住人が穢れを溜めないのもそのせいですか?」
ピタ、とギャレット家の者が手を止めた。
シェリエルは前世で言うところの、「街を大麻漬けにして住民の思想を管理しているのですか?」と聞いたのだ。
トリンデルの人間にとって、これは触れられたくない最大の禁忌だった。
いや、誰だってそんなことを面と向かって言われたら気分を害するだろう。
シェリエルは構わずニコニコと肉を切り分けながら、間を埋めるように世間話を続ける。
ディディエとユリウスもだからどうしたというくらいに気にしていない。
穢れの管理は土地によってさまざまだから。
というのも、怒りや恐怖、罪悪感など負の感情で人は穢れを溜め込むと考えられていて。
狂うほど穢れを溜めれば最後は魔物になって魂まで朽ち果てるので、「これも町を管理するためなんだろうな」と、ただ納得していた。
「これだけ凄惨な事件が続いても町は穏やかでしたもの。皆、お薬がよく効いているんですね」
「……それは、どこで」
「町の至る所に咲いていましたし、飾っていますよね?」
「いえ、その…… 効能といいますか…… あれは他所では知られていないもの、です」
チリ、と緊張が走る。
けれどユリウスは得意顔で、
「花弁や葉の形から何と何を掛け合わせたものか推測できる。おそらく、脱法奴隷に使われる精神麻痺薬の材料となる花が元になっているね」
と、続けるし。
シェリエルはそれに対し、
「実物を知っていたわけではないのですね」
と、素直に感心するし。
ディディエなどはまったく別のことに意識を集中させていた。
なので、ディディエは一度葡萄酒で喉を潤すと、明るい口調で「そういえば……」と、居心地悪そうにするギャレットに救いの手を差し伸べた。
ギャレットはやっと話題が変わったと露骨に安堵する。
「最近ソフィア嬢の前に攫われたという娘は平民だそうですね。なんでも父親が再婚して義理の妹ができたとか。娘が増えた途端にまた減るなんてその一家も運がない」
「……ええ、そうですね」
「邪魔だったのかな」
ディディエは肉を切り分けながらポツリと言った。
「え、」
「いや、失礼。子を連れた再婚って何かと問題があるでしょう? ここだけの話、実は僕も最初はシェリエルを殺せるか試そうとしていたので、気持ちは分かるといいますか。あ、我が家は再婚などではありませんけどね」
「……は? ええと、それは……」
誰の気持ちを分かった気でいるのか。
ギャレットは彼女が本当の妹ではないという噂が本当なのか、だいたいこの話が何を意味しているのか、まったく理解できない様子で言葉を詰まらせた。
無論、夫人も、トリクシーもである。
「お、お兄様! もう酔いが回ったのです?」
「まさか、これくらいで酔うわけないだろ」
「せっかくお父様が苦心して誤魔化したのに、よくもペラペラと」
「いいじゃない、外には漏れないよ。ねぇ、ギャレット様?」
「ええ、もちろんです。ここだけの話、ですから」
ギャレットの引き攣った笑いに、ディディエは「ほらね」と片目を瞑る。
シェリエルは「仕方のない人」と、自身の皿に意識を戻した。
晩餐後、ディディエの客室にて。
「んー、もういいかな。飽きて来た」
「最悪ですね。人をわざわざ連れ出しておいて」
「いや、シェリエルとこうして出掛けられるのは楽しいよ? でもさぁ、待つだけって退屈じゃない」
「では夜廻りでもします?」
「入れ違いになったら困る」
ディディエは長椅子で寝転びながら盤上の駒を動かした。
チェスのような遊びだが盤面はチェスの二倍はある。
コツ、とユリウスがさした駒を横目で見てから、「うわ、怒った? そういう意味じゃないんだけど」と、身体を起こす。
二人はだんだんと複雑になる盤面に集中しながら、シェリエルを「早寝しな」と部屋から追い出した。
シェリエルは「こんなことだろうと思った」と、怒りまじりの溜息を吐いて大人しく部屋に戻る。
彼らに関しては大抵その場で一番嫌な想像をしておけば良い。
そうすればほとんど外すことは無いし、外したとしても心理的ダメージが少ないので。
「あ、あの、シェリエル様……」
部屋に入る寸前、後ろから震える声がした。
振り返ればガウンを羽織ったトリクシー。目元は赤く腫れ、今夜も姉を想って泣いていたのだろうと分かる。
「トリクシー様、どうかなさいました?」
「その…… どうかお気を付けを…… なんだか嫌な予感がするのです」
「わたくしは大丈夫ですよ、ソフィア様もきっと」
「……そう祈っております」
一礼して去るトリクリーの背を見送り、シェリエルは静かに部屋に入るとすべての灯りを消す。
シンと月明かりが差し込む客室では屋敷内の人の気配がよく分かる。
寝支度をする使用人たち。まだ対戦しているらしいディディエとユリウス。
その気配が完全に消えた頃、シェリエルもすっかり熟睡していた。
トリクシーはひとり自室で布団に包まってヒクヒクと肩を震わせていた。
仲の良い姉妹だった。
やはり帰ってくるべきではなかったんだわ……
と、意気地の無い自分を責めた。
一年の半分は貴族学院の寮に入っている。
年明けから夏までの休暇中は閉じてしまうが、教師が自分たちの研究をしているので、無理を言って寮を開けて貰おうかと言っていた——姉のソフィアが。
ソフィアはいつも気丈で明るく、しっかり者で頼りになるお姉さんなのに、冬とても怯えていた。
どうしても帰りたくないと言って、父にも相談せず学院に直談判しようとしていた。
それを止めたのがトリクシーだった。
町の事情はよく分かっている。
そんなことをしたらどう思われるか。父だって怒るだろう。
そう言って引き留め、嫌がる姉を無理やり連れ帰ってしまったのだ。
トリンデルの町は、いまとても大事な時期だ。
長年続けてきた試みが自分たちの代でダメになってしまうことを恐れている。
年中この町で暮らす大人たちはいつも明るく、そんな不安を一切表に出さないが、花の香から離れた学院では町がどういう状態なのかよく分かった。
——この町は少しおかしい。
平民と貴族の身分の壁をなくすという試みはとても素晴らしいと思う。
けれど、だったらなぜ花の香を漂わせ恐怖や悲しみを紛らわせなくてはいけないのか。
『その美しい心を保つためだよ』
父はそう言った。
大人になればしがらみも欲も苦しみも増える。だから大人にこそアレは必要なのだと。
学院では身分に従って振る舞うことを強要され、町に帰れば平民にも気さくに挨拶しなくてはいけない。
生まれたときからこうだったので、入学してから数年は学院の方が居心地が悪かった。
今でもこの町が好きだ。みんな仲が良くて争い事は滅多にない。
……でも、浮気をされても笑って許し、物を盗まれてもやれやれで済ませ、気分が乗らない時は店も開けない。
これまで被害者となった少女たちの遺族も、すでに元の生活に戻り笑顔で世間話をしたりする。
いつまでも泣き暮らすわけにもいかないし、不幸から脱したのであればそれは喜ぶべきこと。
でも早すぎやしないか。
まだ一年も経っていないのに。
父は姉が攫われたというのに憔悴し夜な夜な涙を流すだけで国に嘆願を出す様子もない。
きっと姉が帰ってきて、しばらくしたらまた穏やかに笑うのだろう。あの花で気持ちを紛らわせて。
自分もすぐに姉を忘れて、もしくは過去の楽しかった記憶だけ抱えて、この辛い事実を無かったことにするのだろうか。
まだそうなると決まったわけではないのに、吐き気を催す歪な“肉の塊”が瞼の裏にチラつき。
そのあと、穏やかに笑いあう自分たちの姿が浮かんで。
それがどうしても辛くて、悲しくて、いま流せるだけの涙でひとり枕を濡らした。
これは自分が持つ正しい感情なのだから。
——ガタン……
遠くで何か聞こえた気がした。
◆
窓が鳴る。
シェリエルはゆっくり瞼を開き、まだぼんやりする頭で音のする方を見た。
ここは二階で近くに木もないので誰かが入ってくるには大きな梯子が必要である。
そんなことを思い出しながら、シェリエルは慣れない他所の寝台から這い出した。
ヒタヒタと足の汚れも気にせず裸足で窓辺に寄る。
窓の外には雲のかかった大きな満月。ゆっくりとヴェールを脱ぐように雲が流れていけば、窓の下にボウ、と人影が浮き上がった。
「……あ、」
月明かりを背にして真っ黒な人影がこちらを見ている。
シェリエルは不思議と大声をあげることも、部屋から出て人を呼ぼうなどとも考えなかった。
煙ったような草の香りが鼻につき、なんだか夢見心地というのだろうか。
黒い人影がゆっくり手招きしていた。
シェリエルは半分眠ったような虚ろな目で……
「行かなきゃ……」
その夜シェリエルは姿を消した。
しっかり客室の扉を施錠して。