2.トリンデルの町
それぞれ客室を用意されたシェリエルたちは、一度ディディエの部屋に集まることにした。
「どう思う?」
「どうせそこらへんの気狂いだろう。“稀によくある”ことじゃないか」
「その気狂いがどうやって部屋に侵入したかだよね。ギフトかな? ユリウスみたいに精霊と契約してるとか?」
「ふむ、精霊の気配がするかノアに探らせよう」
ソフィアの部屋を見てみたいとトリクシーに頼むと、最初は「姉の部屋に勝手に男性を入れるのは」と躊躇っていたが、最後は「少しでも手がかりが見つけてほしい」と言って了承してくれた。
精霊は完全に閉ざされた場所だと中から招かれなければ入れない。
特に箱型の構造物は結界のような作用があり、拳ひとつ分は隙間がないと弾かれるのだ。
「ここが姉の部屋です。何もかも、布団もそのままに……」
部屋はこじんまりとしていて少女から貴婦人へと変わろうとしているような内装だった。
家具やカーテン、調度品などは落ち着きのある色味で揃えられているが、可愛らしいウサギのぬいぐるみや少し歪なレース編みの花が額装され飾られている。
「何か変な臭いがしませんか?」
「……これ? シーツにシミが出来てる」
雑に捲られたシーツの足元に、涎の痕のような白っぽいシミができていた。
カラカラに乾いたそれが異臭を放つとも思えないが。
深夜、少女の眠る足元に男がダラダラと涎を垂らしながら忍び寄る光景が頭に浮かぶ。
それはトリクシーやメイドも同じだったようで、なるべくそちらを見ないように目を背けていた。
「……そのシーツだけでも片付けたかったのですが、気味が悪いとメイドも嫌がりまして」
「へぇ、平等の精神はそういう弊害もあるんだね。本来雇用主の命令なんて絶対なのに。あ、ディルクも僕に反論するか」
場違いに明るく笑うディディエにヒクと頬を引き攣られせたトリクシーだったが、次第にその軽快な口調にきっと何とかなるという安心を得たらしい。
ホッとしたように顔色を取り戻していた。
が、シェリエルはそのシミを一度確かめて、軽く首を振る。
「これではなく…… 香、いえ、薬草を燃やしたような燻った臭いです」
「え、本当? ユリウスどう?」
「言われてみるとそんな気がしないでもないが」
ヒクヒクあたりを嗅ぎ回る二人はなんともハッキリしない表情で首を傾げた。
鍵や壁を調べ完全な密室であると確認すると、適当にトリクシーに頼み事をして部屋から出す。
「ネージュさん、出てきても大丈夫ですよ」
音もなく現れるネージュとノアは、キョロキョロと部屋を見回して隅々を歩き回ると、窓辺に飛び乗り仲良く日光浴をはじめた。
白猫と黒猫の日向ぼっこである。精霊でも性質はその姿に引っ張られるようだ。
最近シェリエルと契約したばかりネージュはふわふわと長い毛並みを日光に煌めかせ、まあ悪くない日当たりだ、というように目を細める。
シェリエルは「お気に召しました?」とニコニコ笑ってネージュの耳の付け根をごにょごにょ指先で揉んでやった。
「ちょっと、ちゃんと調べてよ! 何なのさ、お前たちの精霊は!」
「ネージュさんはお疲れなんです! こないだも魔力をたくさんいただいてしまったので」
「ノア、どうかな? 何か分かるかい?」
ノアはふぁ、と欠伸をしてふるふると耳のうしろを掻いていた。
ネージュも眠そうにザリザリと綿雪のような毛並みを整えているだけ。
「気配は無いようですね。ではやはりギフトか他の方法か……」
「じゃ、やることはひとつだね。少し町を歩こうか。こういう町は討伐依頼も無いからかなり貴重だよ」
「お兄様はそれが目的でこの依頼を受けたのです? 今夜にもソフィア様が殺されてしまうかもしれないのに」
「まだ大丈夫じゃない? 短くても一週程度は楽しむみたいだし」
失踪した娘たちは皆、数週間で戻ってくる。
生前の姿とはまったく別の姿形ではあるが。
トリンデルの町はあのような凄惨な事件が起こっているとは思えないほど平和で賑やかだった。
彩り豊かでたくさん天幕の市場が出ていて酒場も昼から開いている。
住人はみんな顔見知りなんじゃないかというくらい。
ちょっと歩くたびに誰かと話しているし、「よぉ、おっかさんの具合はどうだい?」「息子さん仕事決まったんだろ?」「お前んとこそろそろ収穫時期じゃなかったか? 人手は足りるか?」と、家庭の事情も筒抜けのようだった。
こんな狭い世界でどうして犯人が見つからないんだろう。ちょっとおかしな人がいればすぐに疑われそうなのに。
と、シェリエルだけが真面目にこの事件について考えていた。
「これはこれは……」
「先生? どうかしました?」
「うん、ずいぶん面白いことをするなと思って」
「……?」
白と黒の髪色はこの世界では存在しないとされているが、この町で二人に特別な視線を向ける者は居なかった。
それどころか他所者である三人にも目が合えば会釈し、店の者は「安いよ、安いよ! お土産にどうだい!」と気さくに声をかけてくる。
花売りの少女がニコニコとシェリエルに近づき、「お姉さん、このお花きっと似合うわ!」と無邪気な笑顔で一輪の花を差し出すほどに、町は彼らに好意的だった。
これはシェリエルが言葉を躊躇うくらいには異様で。
例えるなら、一家団欒の晩餐に全国指名手配されているシリアルキラーが入り込んでいるのに、「おや、こんばんは」とにこやかに声をかけるようなものである。
そも、平民が貴族に気さくに声をかけるなど、他領ではあり得ない。
「あ、わたし、いまお金が……」
「二輪貰おう。釣りは要らない」
「わ、ホント⁉︎ こんなにたくさん! お兄さんありがとう!」
店ごと買えるほどの硬貨を渡したユリウスは、受け取った二輪の花をシェリエルの髪にさしてやる。
「え、一輪は僕にじゃないの?」
「ディディエには毒だからね。あまりシェリエルに近づかない方が良いよ」
「なんて物を人の頭にッ!」
ギャン、と噛み付く勢いで声を張り上げるシェリエル。
隣でディディエはヒクヒクと声を殺して笑っていた。
しかしシェリエルもそれで花を叩き捨てるわけでもない。とりあえず一輪外してどんな花なのかを観察し始める。
「ベリアルドには咲かない花だよ。毒性は弱いけどね」
「どんな効果が?」
「気分が良くなる」
その一言でシェリエルは理解した。これはディディエには与えられないと。
ディディエは基本ナチュラルハイなので精神を向上させる薬物は効きすぎるのだ。
さてこの花。香りを嗅ぐくらいなら気持ちが緩んでハイになる程度だが、長年嗅ぎ続ければどうなるだろう。
やけに町の人たちが明るいのはこのせいか、とシェリエルは勝手にスッキリしていた。
理由のわからない不可思議なことが奥歯に挟まった小骨のように気になる質なので。
よく見れば至るところに似た花が飾ってある。
いっそ町のモチーフにでもすれば良いのにと思うくらい。
「こうして花を身に付けることで、町の警戒を解くのですね?」
「君に似合うと思っただけだよ」
「嘘ばっかり」
拗ねた口ぶりは兄のディディエそっくりである。
決して本気で拗ねてなどいないが、そういう素振りをすることに意味があるのだ。
ユリウスも日課のように「酷いな、生まれてこのかた嘘なんて吐いたことないのに」と、シェリエルの口元を真似ていた。
三人は誰に聞き込みをするでもなく、ダラダラと他愛のない話をしながら、市場を抜け、民家を見て回って、畑道を歩く。
「ああいったお家も良いですね」
「狭すぎるでしょ、家畜小屋かと思ったよ」
「お屋敷だと管理が大変です。一人暮らしするならあれくらいで充分です」
「使用人のすることをわざわざやろうなんてどうかしてる」
「ほう? 私は使用人を使っていないが?」
「オウェンスに全部やらさせてるだけだろ。一度くらい自分でやってから物を言え」
「先生はメイドを使う気がないのならば、もう少し家事を覚えた方が良いと思いますよ」
「シェリエルが教えてくれるのかな? 二人で暮らしてみるかい?」
「なに、お前殺されたいの? やる気? 人の妹を誑かさないでくれる?」
「心外だな、その気はあるよ。シェリエルが頷けばね」
「だから、僕からシェリエルを奪おうって魂胆が気に入らないって話をしてるんだけど?」
「ディディエも一緒に来れば良いだろ?」
「なら良いよ。でも僕下働きとかしたくないからある程度広めの屋敷で使用人も入れて…… て、今じゃん」
「そうだね」
夕暮れの小道には虫の音がチリチリと鳴り、空は青と赤が歪なグラデーションを作っている。
遠くには空を中断する高い壁。
ゆっくりと、誰にも気付かれないようにじわじわと陽が落ちていく黄昏時。
ピチャりと水溜りに何かが跳ね、バサ、バサリと鳥の羽ばたきが連鎖した。
「静かですね」
「ずいぶん歩いたな」
美しい田舎の風景は闇に呑まれる間際、ぼやけた輪郭を残すこの時間こそ不気味に映る。
川淵ではためく白い布。
庭先でジッと佇む黒い細長い何か。
畑の中央にポツンと立つぼろ着を着せられた案山子。
誰も彼も彩度を落とし、正体不明の怪しげなものに見えてくる時間である。
「そろそろ良いかもね。帰ろうか」
あてもなく彷徨い歩いた三人は、晩餐の時間の少し前に立ち止まり、音もなくパッと煙のように消え去った。
◆
「おじさーん! 卵ちょうだーい!」
「ンーッ、好きに取ってけー」
ちょうど台所の小窓からは男の横顔が覗いていた。
庭の柵をギイと押してズカズカ入ってきた一人の少年は、勝手知ったるというように鶏小屋に入っていく。
庭では無数の鶏がツイツイと草にクチバシを突っ込んでいて、卵を数個カゴに入れた少年が小屋から出てくるとバサバサっと道をあけた。
「なんかさぁ、最近卵少なくない?」
「ンん、そうかー? 今日も何人か来たからなぁ」
「ゲッ、オレが遅かっただけか! おじさんとこの卵、美味しいもんね。次からもうちょっと早く来るよ。そだ、これ母ちゃんから! いつもの芋ね」
「おー、あんがとなー。そこ置いといてくれー、今ぁ手が離せないんだぁ」
男は窓からヒョコッと顔を出して、額の汗を拭う。
少年は芋の袋とともに庭先のウッドデッキに腰をおろしてダァ、と一息吐いた。
「ねぇ、知ってる? 今日さ、他領からとんでもなくキレイな顔の人たちが来たんだよ! 視察かなって話してたけど、女の子もいたから越してくるのかもね!」
「ンンッ、そーかー」
「すっげーキレイな顔だったんだから! 女の子もかわいいって感じじゃないんだよね、キレーなの、ビックリするよ!」
珍しい客人の話を興奮気味に捲し立て、ふぅ、と満足すればスンスンと鼻をヒクつかせる。
少し癖のある匂いは少年の家で出るどの料理とも違う。
また猟師に分けて貰った珍しい肉で煮込み料理でも作っているのだろう。
少年は「今日の卵が肉に化けたか」と、人差し指で鼻を擦った。
「もしかして魔獣肉? いーなー、俺も食ってみたい」
「いやなー、こいつは痩せすぎてて、ッン、ほとんど食うとこ無いんだなー」
「ちぇっ、なぁーんだ」
「ンンッ、ンー。暗くなるから気を付けて帰れー」
「はーい、じゃ、あんがとね! おやすみ!」
小脇に卵の入ったカゴを抱え、少年は元気よく走り出す。
男はそれに「おー」とだけ返し、骨ごとぶつ切りにした肉の塊を大きな鍋でえっさえっさとかき混ぜ続ける。
たしかに肉は少なく、枯れ木のような肉である。
輪切りになった断面はほとんどが骨だった。
よっこいせと鍋底を引っ掻くようにヘラを返すと、ゴトリと丸い塊が浮かび上がる。
ぽっかり開いた暗い穴は、もう何も映していないし何も語らない。
「あー、疲ぇた」
「……」
「ン、残念らったなぁ、あの子ぁ、キレイにできなかったー」
「……」
「お前はキレイにぃ、してやるからなぁー」
男はベロンと目玉の乗った舌をソフィアの目の前に突き出した。
ちゅるりと口内に戻してくちゅくちゅ咀嚼するとゴクリと嚥下する。
ソフィアはぎっちりと目を瞑って顔を背けるが、耳には余計に不快な音が響いた。
「はぁ、ンンッ、あハ…… 寂しいよなー? ンー、やっぱり、仲間は多い方が、いいよなぁー?」
「……」
男は焦点の合わない瞳をぐるぐる彷徨わせ、だらりと開いた口の端から涎を垂らした。