1.消えたソフィア
「は? なんです、これ」
ガタガタと揺れる馬車のなか、シェリエルは数枚にわたり綴られた凄惨な町の様子に目を通す。
手紙には宛名はなく、「貴方様」とだけ書かれていた。
差出人はシリス侯爵領のトリンデルという田舎町に住む中位貴族の娘で、この手紙を書く前日から姉が帰らないという。
比較的大きな領地だが、トリンデルは他の町から遠く離れた僻地にあった。
「展示って…… なぜこんな物騒な町に」
「最後まで読んだ? どうやらその手紙の主はこれが僕たちベリアルドの仕業だって思ってるらしいんだよね。悪魔を退治してくれだってさ、酷いと思わない?」
「なぜ、ベリアルドの退治依頼がベリアルドに届くのです……」
「アハハ、笑えるよね。ま、彼女はその手紙が誰に届くか知らずに、藁にもすがる思いで依頼してきたってわけ。それでせっかくだから嫌疑を晴らしに行こうかなって」
シェリエルはハァ、とため息を吐いてこれまで度々あった唐突な面倒ごとに納得がいった。
こういった面倒ごとはこれが初めてではないのだ。
彼らはたまに二人で姿を消したり、稀にシェリエルを巻き込み、陰鬱な事件に首を突っ込んでは良からぬことばかりしている。
「あの、このお手紙ってどうやって届くのですか?」
「そっち? もう少しこの事件に興味を持ったら? 人の心がないわけ?」
「お兄様に言われたくありません。で、実際のところどうなんです?」
ディディエはチラとユリウスを見て、説明は任せると言わんばかりにふいと黙ってしまった。
それを受け、軽く眉を上げたユリウスが仕方なさそうに口を開く。
「ほら、私は俗世から離れて育っただろう? だから貴族社会のことを知りたくて少し細工をしたんだ。はじめは……」
ユリウスは幽閉される少しまえから、いくつか耳にした噂話や困り事の相談を自身の精霊ノアを使って解決し、同時に噂を広めたという。
『ある呪いで人知れず悩みが解決できる』
公にできない悩みというのは弱みに直結するため、本来ならそのような怪しい噂を真に受ける者なんていないはずだった。
しかし、意外にも手紙はポツポツと届くようになる。
「……ま、簡単なことだよ。噂を耳にする人物、状況、時期なんかを整えてやれば良い。案外素直に信じてくれるものなんだ」
「しかもさぁ、怪しげな手段に頼ろうとするってことはそれだけ切羽詰まってるか、後ろ暗いことがあるわけだよ。そういう人間ってだいたいまともな判断能力が残ってないのさ」
愛する人に振られた後の恋占い。
借金で首が回らない時にふと耳にした儲け話。
自分と同じ不治の病が完治したという体験談。
嫌な人たち……と、シェリエルが眉を寄せるのも当然だ。
彼らは弱り目を探して祟っていくような人間なので。
「学院でも同じ手を? 本当に余計な事しかしませんね」
「人助けだよ、結果的にね」
ユリウスの声は風に乗せるように涼やかだった。
シェリエルはこれ以上話しても埒があかないと諦め、もう一度手紙に目を通す。
震える文字がところどころポツポツと滲んでいた。
〜〜〜〜
はじまりは二年前のことでした。
ある少女が行方不明になったのですが、彼女は平民だったので駆け落ちか町からの“脱走”だと考え、とりあえず住民だけで近くの町を探しました。
数週探しても見つからず皆が諦めかけた頃、町を囲う壁にあの恐ろしいものが打ち付けられていたのです。
血の滴る肉塊のようだったと聞いております。
人を半分に折り曲げたように四角く、頭は切り落とされ、裂いたお腹に埋め込まれていたと。
見つけた人も調査にあたった憲兵も数日寝込むほどの酷い遺体だったそうです。
この町でそんな恐ろしいことが起きるなんて。
この異常な事件はそれだけでは終わりませんでした。
数月が経った頃にまた一人の少女が行方不明に……
〜〜〜〜
シェリエルは壁に打ち付けられたという遺体を想像し、今すぐ帰りたいとディディエに訴えた。が、二人は鼻で笑ってその言葉を聞き流す。
「でもさぁ、この町ではないんだけど、近隣の町で魔物が三体出てるんだよね。一体は僕が討伐したけど、残りは中央が処理し切れる程度の魔物でね。それでさ、ひとつ思ったんだけど……」
「被害者のうち、魔物化した者がいると言うのですか?」
「そう、それだよ! 魔物って生前の形はある程度引き継ぐけど、この展示された遺体の話でピンと来たんだよね。縦型じゃなくて元は人だったのかなって」
ディディエはパチンと指を鳴らして名探偵のような顔で言い放つ。
魔物化する恐れがあるならば確かにベリアルドの領分であった。
シェリエルは観念したように溜息を吐いて窓の外を眺める。
不謹慎なこの二人とは違って、被害者を案ずる気持ちもある。非力な女性ばかりを狙うなど、シェリエルには許し難い悪行であった。
馬車は何度か領地間を繋ぐ転移門を経由し、それでも一日かけてやっと差出人の住む町に到着した。
高い壁で囲まれたその町は要塞のように閉塞感がある。
重厚な鉄門でいくつかの厳重な身元確認を済ませて、やっと町に入ることができた。
「これほど警備の厳重な町で、なぜこのような事件が? 王国の騎士団は動かなかったのですか?」
「こういう事件は領地の憲兵預かりだし、ここはとても閉鎖的な町なんだよ」
閉鎖的という言葉に反して、民は明るく活気のある町だった。
スラムのように廃れているわけでもなく、賑わいのある田舎町でそこら中から人の話し声がする。
領地の印がないこの怪しげな馬車が通っても、「あら、お客様かしら」というくらいににこやかに道をあけ、丁寧に会釈する平民たち。
「なにか…… 違和感がありませんか?」
「シリスのなかでも特別だからね、この町は」
少しの違和感はその後、決定的なものへと変わっていた。
「あの、本当にここが?」
「うん、そのはず」
馬車が止まったのは、まだそこらへんを平民たちが歩き回る居住区域だ。
そのなかでも一等豪勢な屋敷ではあったが、ここから貴族の区域というわけでもないらしい。
「ここはね、民の平等を訴えるための実験場なんだよ。こうして貴族と平民が同じように生活して、平和で幸せに暮らしていると証明したいのさ」
「それで……」
そんな町で大きな事件でも起これば改革に支障が出ると危惧したのだろう。
政治に醜聞は厳禁である。
補佐官のディルクが来訪を告げると、屋敷からバタバタと屋敷の主人らしき人物が夫人を伴ってかけ出してきた。
先に馬車を降りたディディエを見て固まる夫妻。
「……な、え、えと…… ディディエ・ベリアルド様でお間違いないでしょうか……」
腰元に付けた家門の印章とディディエの藤色の髪を見た男は、口をパクパクさせてこの状況を飲み込もうと必死になっていた。
それもそのはず。遠く離れた何の縁もない領地から、悪魔と恐れられる一族がやってきたのだ。
今この瞬間、笑顔で剣を突き刺して来てもおかしくない人物である。
主人は細心の注意を払ってディディエの機嫌を損ねないよう、精一杯の笑みで腰を屈めるのがやっとだった。
「トリクシー嬢にご招待いただきまして」
「トリクシー……⁉︎ ま、まさか…… 恋仲……」
「あ、いえいえ、初対面です。ご安心を」
優等生の仮面を付けたいかにも好青年なディディエは、優雅に腰を折って男の警戒を解こうと微笑む。
屋敷のなかからバタバタと足音が響くと、ひとりの少女が息を切らせて飛び出てきた。
「ハッ、ハッ…… まさか…… 口封じに」
「おや、こんにちはお嬢さん。君がトリクシーかな?」
「ヒィッ……」
トリクシーは犯人だと名指ししたベリアルドの悪魔が目の前にいるからか、ガクガクと青白い顔で震えるばかりで、見ていて気の毒なほどに怯えていた。
しかし、腰を折って目線を合わせたディディエがにっこりと唇に人差し指をあて小声で何か呟くと、トリクシーは真っ赤な顔でコクコクと首を縦に振った。
この悪魔——もといディディエはこういう男である。
彼は自身の顔の良さを十二分に理解し、どういう声色でどういう抑揚を付け、どんな言葉を発せば相手が自分に惚れ込むか熟知していた。
よって、姉の失踪に心を痛める幼気な少女はあっという間に「彼なら何とかしてくれる」と脳を麻痺させるのである。
「こ、ここでは何ですから…… なかへどうぞ。お連れ様も、ぜひ」
「それはありがたい。ではご厚意に感謝して。僕の妹シェリエルと、友人のユリウスです。ああ、彼らの髪色は気にしないでください。特に害はないので」
馬車から降りた二人が丁寧に挨拶するも、一拍置いて夫人はパタリと気を失ってしまった。
使用人が彼女をサッと運んで行き、主人のギャレットとトリクシーに応接間に通される。
「存在が害悪」と言われ慣れている三人は、こういった反応もいつもの事なのでとくに驚くこともない。
「やはり黒髪への偏見は根強いのですね…… さすが悪魔の色です」
「私の髪色だと断定する君の図太さには畏れ入るよ。白も似たようなものだろう?」
「わたしは学院でそれなりに知れ渡っていますから。それに、奇妙なだけでおかしな伝承はありませんし」
今回もディディエが表に立つので、ユリウスとシェリエルはただ付き添いのような軽い気持ちで長椅子に腰掛けた。
この手の対応はディディエに任せておけば間違いない。
「突然押しかけて驚かれたことでしょう。何やらお困りのようですから、お力添え出来ればと思いまして」
明らかに憔悴し切ったギャレットは目頭を押さえて肩を震わせた。
はじめは警戒と困惑で口を噤んでいたが、ディディエが人好きのする穏やかな微笑みでいくつか声をかけると、ワッ! と堰を切ったように話しはじめる。
「む、娘のッ……! ソフィアが…… 三日前から行方不明で……! もうダメかもしれない、あんなに良い子が、酷い目に! これは何の罰なのでしょう!」
その告白は絶望に満ちた叫びのようでもあった。
ディディエは「ええ、分かります」「お気の毒に」「大丈夫ですよ」と何の根拠もない慰めでギャレットを落ち着かせた。
「最初は数ヶ月おきだったのが、ここ最近では数週に。ですから、我が家でも日が暮れたら必ず厳重に扉に鍵をして、もちろん昼間も一人で外に出かけるようなことは許していません! あの日も、ソフィアはおやすみのキスをしてから、自室に戻って行ったのです…… なのに!」
翌朝、メイドがソフィアを起こしに行くと寝台にソフィアの姿はなく、着替えた様子もないという。
窓にはしっかり内側から鍵がかかっていて、自室に誰かを招いたこともない。
転移は直前に訪れた場所で座標を得なければならないし、常人は一対の座標しか保持できないため、空の加護を持つ上位貴族であっても部屋に侵入することは不可能に思えた。
「正直なところ、誰かが攫われると……、恐怖すると同時に安堵もあったのです。今までは、遺体が見つかるまで次の犠牲者は出ませんでした。しばらく我が子は安全だと…… しかし、数週間前に攫われた子の遺体はまだ……」
「それは不可解ですね」
ディディエは両手を合わせて考え込むように鼻筋に手を添わせたが、同情的な瞳とはべつに横から覗いた口元は妖しく笑っている。
「ディディエ様は…… 娘を取り戻しに来てくださったのですよね⁉︎ 対価は、対価はなんでしょうか! 何でも、出来ることは致します! ですからどうか!」
「話が早くて助かります。まずはご息女を取り戻してからに致しましょう。その間、こちらの屋敷にお邪魔しても?」
「ええ、もちろんです! そ、それで…… このことはどうか内密に……」
一瞬前まで娘の無事を祈っていたギャレットは、気まずそうに視線を泳がせる。
いくら平民との平等を謳えど、貴族は貴族。領地の意向に反くことが何を意味するのか充分理解しているようだった。
◆
柔らかい日差しが差し込むごく普通の屋敷では、男が上機嫌で鼻歌を歌いながら朝食の支度をしていた。
火を入れた竈門の上で鉄のフライパンが薄く煙を立て、燻製にした塩豚を薄く切って並べるとじゅわりと音が弾ける。
庭で放し飼いにしている鶏が産んだ卵を二つ割り、塩を振ってから蓋をした。
待っている間に隣の鍋から蒸した芋を取り出して、アチアチと指で踊らせながら半分に切って皿に乗せる。
あと三つ同じように芋を取り出してから井戸から汲んできた水桶にそれを浸した。
そうこうしているうちに肉と卵の香ばしい匂いが漂ってくる。
蓋をあけるとツヤツヤに輝く二つの目玉焼きが震えていて、男はその焼き加減に満足して芋の乗った皿にずるりと滑らせると上機嫌でテーブルに運んだ。
男はそれを食す前に、芋を冷やしていた桶に戻る。
まだ料理は終わっていないのだ。
丁寧に皮を剥き、そのまま手でぐしゃりと潰して、そのまま三つの皿に乗せてまたそれぞれをぐしゃぐしゃと握ってつぶしていく。
そこにひとつずつ生卵を割り入れ指でぐっちゃ、ぐっちゃと捏ね回すと、それらを器用に両手に持ってテーブルの自分の向かいに置いた。
「…………」
「うぅ……」
「ゔー! ンン! ンンンッ!」
向かい合えば膝が当たりそうなほどの狭いテーブルだが、男の膝が誰かと当たることはない。
前に座る三人の少女は、左足と左手、右足と右手というように、それぞれ縛られ蛙のように開脚させられ椅子に置かれているからだ。
一番左の茶色髪の少女はもう声をあげる気力もなく、目は穴を開けたように黒く窪んでいる。
「ンンッ、お前はぁ、本当に長持ちだなぁ。良い子だ、良い子だなぁ」
男は口を封じていた布を取ってやり、自分の食事をしながら茶髪の少女にぐちゃぐちゃになった芋をスプーンで口に運んでやった。
少女は上手く咀嚼できず、ぼろぼろと口端から潰れた芋を落としたが、男はそれに怒ることもなく「平民だから仕方ないかー」と間延びした声で口元を布で拭ってやる。
真ん中の少女は低い呻き声を漏らしながら、虚な瞳をゆらゆら宙に漂わせていた。
「ンー、お前たちは後なー。良い子にしてろー」
男はニタニタと笑いながらゆっくりと自分の食事を済ませ、それから真ん中の少女の猿轡を取って芋を口に詰め込んだ。
何の抵抗もなく食事をする姿に、男は満足そうに頭を撫でる。
最後は一番最近この屋敷に連れ込まれた少女——ソフィアである。
乾いた頬に染みた涙の筋と目の周りに広がる青い痣はまだ新しい。
ソフィアの瞳には恐怖よりも怒りが滲んでいて、男は食事をさせるのも一苦労だというように溜息を吐いた。
「最初はなー、仕方ないな」
ソフィアは布をちょいと指でずらしてその隙間からスプーンをねじ込まれる。
咀嚼する必要もない流動食はほろほろ涙を流すソフィアの喉をゆっくり降りて行った。
食事が終わると、三人は順番に部屋に戻される。
そこには手作りらしい穴の空いた椅子が三つ、そのうちひとつはまだ汚れの少ない新しいものだった。
少女は順番にその椅子に並べられ、ドロワーズをずるりと引き下げられて露わになった尻をそのままその穴にあてがわれる。
三人の少女は一日の大半をこの椅子で過ごしていた。蛙の置物のようにずっとその姿勢で。
茶髪の少女は既に手足が痩せこけ、関節がごつごつと骨の形を浮き上がらせている。
「今日はー、誰からするかー」
ソフィアは恐怖と絶望のなかで祈るようにギュッと目を瞑る。
早く殺してほしい。
でも死ぬのは怖い。
痛いのも嫌だ。
死にたくない。
悪夢ならはやく醒めてほしい。
腹の奥底で渦巻く黒いものだけが生きているという実感を与えてくれた。
きっと、この感情が消えたときには他の二人のように、人の形をした別のものになってしまうのだろうとまたほろほろ涙を流す。
二人はもう、自分が何者でどういった存在なのかも忘れてしまったように無気力に空を見つめていた。
男はそれを大層気に入っているのか、すりすりと真ん中の少女の足に頬擦りしてはまた膝裏を舐めている。
「お前もそのうちこうなるぞぉ」
ゾッとするような低い声。
ニタニタ笑う男の目がソフィアに向けられていた。