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椎谷杏子編 ~兄の背中を追いかけて~

椎谷杏子編 ~兄の背中を追いかけて~


 私の名前は椎谷しいや杏子きょうこ。今は高校を卒業して、市内の女子大への進学準備中。

 私に女子大なんて似合わないと思うんだけれど、第一志望に落ちてしまったのだから仕方ない。浪人するという選択肢もあったのだけれど、自分の性格上、浪人しても成績が上がるとは思えなかったしね。

 今回はちょっと、私自身のお話をしようかなって思います。


 いつもお昼を一緒に過ごしたメンバー、斎藤さいとうはるかちゃんにさいたけし君、塩飽しあくあきら君、才原さいばら香織かおりさん、中里なかざとかえでちゃんに浮田うきたあかねちゃんには話したかな…いや、あれは確か修学旅行の新幹線の中で出た話題だったから、楓ちゃんとあかねちゃんは知らないまんまかもしれない。

 私はバスケットボールが好きだ。何でそうなったかというと、4つ離れた兄貴がいて、小さい頃からその兄貴と遊ぶ時にはバスケットボールをする事が多かったからだ。

 兄貴は小学校のころからバスケのスポーツ少年団にも入っていて、まだ小さかった私に手取り足取りバスケの基本を教えてくれたの。

 私がバスケを本格的に始めたのは小学校のクラブ活動からだったけれど、そんな訳で私は幼い頃からバスケに触れながら育ってきたんだ。


 私が小学校でバスケを始めたころ、兄貴は中学校の部活でバスケをやっていて、かなりの活躍をしてた。

 中学3年になると特待の話も出てきて、県内の強豪校いくつかから特待の話をもらっていたみたい。

 その中で成績的にもちょうど合うところというので、兄貴は学院に進学したんだ。

 兄貴は学院でも中心的なプレーヤーとして活躍し、2年生の時には既にレギュラー入りしてた。私はそんな兄貴のチームの応援をしに、インターハイ県大会の会場まで行ったこともあるし、冬の大会の応援にも行った。

 どの試合でも兄貴は活躍して見せてくれて、学院は何度か全国にも行ったんだ。もちろんチームプレイが大切な競技だから、決して兄貴の力だけで行った訳ではないけれど、それでも兄貴の事は自慢の種だった。


 今その兄貴は、系列の大学を卒業して、春からプロリーグのチームに入ることになっている。ずっとバスケ一筋でやって来た兄貴らしいと思う。

 今は引っ越しをして新生活の準備中で、電話ではチームの支援もあるけれど大変だと笑っていた。兄貴の活躍に期待したいけれど、さすがにルーキーイヤーからそんなに派手に活躍って訳にはいかないかな。しばらくは練習中心の日が続くんじゃないか、と兄貴は言っていたっけ。


 兄貴の話ばかりしてしまったけれど、私にはそんな兄貴が常に自慢の種だったし、あこがれの対象でもだったんだ。

 中学校に入った時も私はバスケ部に所属した。もちろん男女で試合は別れているからまったく同じって訳にはいかなかったけれど、それでも兄貴の背中を追いかけているつもりだった。

 周囲からも『あの選手の妹だ』という事で期待されもしていた。私はそんな期待にも応えたかったし、中学校でも真剣にバスケに取り組んだの。

 兄貴はバスケを大事にしながら、勉強もおろそかにはしないタイプだった。私もそこも真似しようとしたんだけれど…そこはなかなかうまく行かなかった。結局塾通いさせてもらって、何とか兄貴よりちょっと下くらいの成績を維持するのが精一杯だったっけ。

 

 私も中総体ではそれなりに活躍できた。とは言っても県大会を突破できたことはなかったけれど。

 私が中学の時にレギュラーに定着できたのは私がとても上手だったからというよりは、部員の少なさが一番の要因だったと思う。それでもその中で、私は精一杯がんばった。

 中学三年の中総体を終えて引退した後、私には特待の話は来なかった。私は自力で学院に進学しようと、今度は勉強をがんばることになった。

 体力だけは自信があったから、毎日遅くまで勉強し続けた。塾では勉強のやり方を教わり、それを自宅で実践する。そんな日々が続いて、私の模試での成績は次第に上がっていった。


 中学三年の冬には、進路をどうするか決めないといけない時期が来ていた。私の頭にあったのは学院への進学だけ。それなりのレベルの公立高校への合格も狙えたのだけれど、家族と相談してそれはしないことにした。

 結局、私は『受かったら絶対入ります』という専願入試の制度を使って学院を受験して、合格したんだ。

 そんな訳で私は、3年前の春からつい先日まで学院に通っていたの。


 学院は県内でも3本の指に入るバスケの強豪校。

 もっとも1つとびぬけた存在の強豪校が別にあって、そこはインターハイ全国大会にも出るレベルの学校だから、正直に言ってしまえば『どこまでその学校に迫れるか』が私達の勝負だった。

 そんな訳で日々の練習は厳しかった。私は1年生の中では中ぐらいの実力の持ち主という認識をされて、日々努力を怠らないよう何度も言われた。下校時間の19時まで他の1年生たちと一緒に練習していたのはもちろん、自宅に帰ってからも筋トレしたり走り込みしたりして鍛え続けた。

 この学校でレギュラーを取り、活躍していた兄貴に少しでも追いつこうとして。


 そんな私の日々の癒しになってくれたのは、お昼休みや休日の友人達との交流だった。斎君、遥ちゃん、才原さん、塩飽君、楓ちゃん、そして2年の中頃からはあかねちゃんも。

 みんな個性豊かな人たちで、一緒にいると楽しかったし、飽きなかった。何時間でも一緒にいられる仲間というのはこういう人たちなんだろうなって私は思ってた。

 私は思ったことをすぐ口にする方だったから、私が話題を提供することも多かった。みんな私の出した話題によくのって話をしてくれて、嬉しく思ったことを今でも思い出すよ。


 1年生の時のインターハイはさすがに応援だった。これは仕方ないとあきらめがついた。いきなり一年目からベンチ入りなんてできるわけがない、よほどの天才でもない限り。

 でもそういうレベルの先輩が私の入学する前の年までいたのだという。伊藤いとう詩織しおりという先輩で、左右への揺さぶりとスピードが持ち味のフォワードだったと聞く。先輩達からは伊藤先輩の名前を何度聞いたか解らない。そのくらい上手な先輩だったそうだ。

 実際に系列の大学に所属している先輩の試合の様子を見に行ったこともあるけれど、確かに凄い選手だった。もしかしたら兄貴よりも上手なんじゃないか、と思える選手にはその時初めて出逢ったかもしれない。

 もちろんテレビで見るような国内外のプロリーグや国際大会の代表の選手たちなんかは除いて、兄貴と同年代の人の中で、という意味だけれど。


 一年目の秋冬の大会も、私はやっぱり応援だった。まあこれも仕方ない。

 この後の新人戦でも私はベンチ入りできなかった。この時はちょっと悔しかった。1年生でも上位レベルの子はベンチ入りしていたから。

 ちなみに普通の学校では秋冬の大会まで3年生が選手として在籍するのだけれど、学院では特別な場合を除いて…例えばスポーツ特待を狙っている場合などを除いて…インターハイが終わるのと同時に3年生は引退し、受験に専念するのが慣例となっている。

 その辺りが他の強豪校と差をつけられる要因にもなっているのだとは思うけれど、進学校だという一面も持っている以上、仕方のない措置なのかもしれない。

 冬の12月まで部活に集中しておいて、はい来月共通テストです、って言われても困るのは確かだしね。

 うちの兄貴やうわさの伊藤先輩はそのスポーツ特待を決めた珍しい例で、秋冬の大会にも出場して活躍したと聞いているわ。

 私は内心で、伊藤先輩こそ本当のライバルかもしれないと思っていた。けれども腕前では遠く及ばない…。3年の差があるとはいえ、それだけで埋められるような差ではなかった。結局、私の実力はその程度だったのだろうと今になると思うよ。


 2年生のインターハイでも、私は応援に回された。一流の選手を目指すならもううちの学校だったらベンチ入りくらいはしていないといけない時期だ。兄貴も伊藤先輩も、もうこの時期にはレギュラーを勝ち取っていた。

 悔しいけれど私は兄貴にも伊藤先輩にも敵わない。その時そう痛感した。

 追いかけ続けた兄貴の背中は、思っていたよりも遠いものだったんだ。

 この時学院は優勝を勝ち取り、地区大会へと駒を進めたの。


 レギュラーに入れずに落ち込みかけていた私を救ってくれたのは、やっぱり友人達との触れ合いだったわ。

 特に、男子バスケットボール部に所属する斎君との交流は私にとって大きな考え方の転換をさせられるものになったの。

彼と1対1で話す機会があった時、彼は『コート外のプレーヤー』という表現を使っていたけれど、チームはレギュラーだけで成り立つものじゃなくて、他の役割を果たす者がいるから成り立つんだと言われて、私はびっくりした。

 ひたすらレギュラーを取ることにだけこだわり続けた私には、この考え方はショックだったの。

 下支えする者がいるからこそチーム力は向上する…。言われてみればその通りだ。私は何年もバスケをやりながら、その視点を持つことができていなかったことを反省したわ。

 それと同時に、下手くそと言われ続けながらもチームを支え続ける斎君の姿を、尊敬のまなざしで見るようになっていったの。

 どんな雑用でも喜んでこなし、少しでもチームのために役に立とうとするその姿勢は、私にはないものだったから。

 そういう考え方がなくて、どうしてチームプレイができるだろう。私は自分の腕前の他に、メンタルの面でもこのままではレギュラーにはなれないなと感じたわ。

 バスケは、個人プレーでするスポーツではないのだから。


 修学旅行の時の話は、この直後の事だったと思う。

 どうしてバスケを始めたのかの話から始まり、みんなで何でその部活に入ったのかの話をしたのだったっけ。

 遥ちゃんの手芸部は、何か手で物作りをしてみたかったから。

 斎君のバスケ部は、バスケが好きだったから。

 才原さんの茶道部は、中学校から茶道をやっていてその延長だと言っていたっけ。

 塩飽君の科学部は、理科が好きで特に実験が好きだったからと言っていた。

 みんな、それぞれの理由で自分の所属する部活を決めて、がんばって活動しているのだなと私は感じたの。


 2年の9月の試験前一週間の仲間内での勉強会から、調理部長のあかねちゃんが仲間に加わり、より賑やかになったの。

 そう言えば触れていなかったけれど、私が赤点を回避し続けられたのは先生方が出してくれた試験対策のプリントと、仲間達との勉強会の両方があったからだと思っているわ。

 そういう意味でも友人達には感謝しないといけないわね。一番多く質問をしていたのは私だったのだから。


 2年生の時の秋冬の大会。私は補欠メンバーに選ばれたの。もしレギュラーやベンチ入り選手に何かあったら、代わりに大会に出る役割。

 補欠でもメンバー入りできたことは嬉しかったわ。とはいえ、私が試合に出るときというのは部活の仲間たちに何かがあった時ということでもあって、それは期待しちゃいけない事だと思っていたの。

 幸い部活の仲間達には何事もなく、補欠は補欠のままで終わった。でも私はそれでも満足だったわ。チームの一員としての役割をもらえたのだから。


 3年生に上がり、次第にインターハイまで部活に打ち込む人と、早めに受験勉強に入りたい人との間に微妙な空気の差がどうしても生まれてきてしまう時期。

 私も受験勉強もしなきゃとは思ってはいたけれど、引退までは部活に打ち込む方を選んだ。

 その結果かどうかわからないけれど、インターハイ県大会では私はベンチ入りメンバーに選んでもらう事ができたの。私は素直に喜んだわ。

 いつも昼食を一緒に食べている面々も、それぞれに私のベンチ入りを祝ってくれた。私にはそれが一番嬉しかったわ。

 遥ちゃんは斎君に『悔しくない?』と聞いていたけれど、彼の中にもそういう感情は確かにあったと思う。でも早い時期から『コート外のプレーヤー』に徹してきた彼にとっては、そんなに大した問題じゃなかったんだと思う。

 実際、斎君は言っていた。『俺は好きなバスケットボールの近くに3年間いられて幸せだった。それで良いんだ。』と。ああ、この人は本当にバスケが好きなんだなって、その時ほど強く思ったことはなかったわ。


 その年のインターハイでは私も何度か試合に出られて、準優勝という結果も出せて引退の花道を飾る事ができたの。私も、好きなバスケにずっと打ち込めて幸せだったと思うわ。

 大学に入ってもバスケは続けるつもり。私の進学先はあまりスポーツに力を入れている大学ではないから、勝ち負けにこだわるよりもみんなで一緒に楽しむことを優先したいと思うの。

 バスケは楽しいものだって、みんなに解ってほしいからね。


昼食会中以外はあまり存在感を放てなかった椎谷さんですが、こういう背景設定があります。

よほどお兄さんに憧れていたのでしょうね。

でも斎君との交流を通して、次第にバスケに対する考え方は変わっていったようです。

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