才原香織編 ~才女の安息~
才原香織編 ~才女の安息~
私は才原香織と申します。現在は高等学校を卒業しまして、春からの大学生活に向けて準備を進めているところです。
今日は私の昔話を聞いて頂こうかと思います…。
私の家は、いわゆる医師一家でした。祖父も医師、父も医師で、二人で開業医をしております。
8つ離れた姉も、医学部保健学科へと進みレントゲン技師の資格を取り、現在は病院勤務をしながら開業医の夫を支える妻としての役割も果たしています。
姉が医学科を落ちてしまい、保健学科への入学を決めた時点で、私の家の医院には後継ぎがいないという事になってしまいました。
そこでにわかに期待がかけられたのが、小学校時代、成績の良かった私でした。
私は小学校5年生の時から高レベルな塾へと通わされ、勉強することを強いられました。
私自身は父と祖父を尊敬しておりましたから、その2人の期待に応えなくてはならない。そんな思いで頑張っておりました。
周囲の児童たちとは一切付き合いもなく、学校のテストは100点を取って当たり前。それが私の小学校高学年の時でした。
中学校に入っても状況は変わりませんでした。
私は部活動には茶道部を選び、同じ部の人と部活動の時間中に話す以外には付き合いのある友人もおらず孤独なまま、ただひたすらに勉強することのみを追い求めていました。
そんな状態でしたから、学年1位を取らなければ家では叱責され、塾でも叱られるという有様。今にして思えばよく反抗期の最中、それだけの状況で頑張り続けることができたものだと思います。
それだけ父や祖父への尊敬が強かったという事でしょうか。
実際に私は1度を除いて学年1位を取り続け、県内一の進学校への合格も最有力視される存在でした。
周囲の生徒達からは、いじめのターゲットにもならなければ話す相手にもならないという、完全に遊離した状態でした。
私はさみしさを紛らわすため、インターネットで見かけたお人形さんが欲しいと母にねだりました。私がわがままを言うのは珍しいと母は驚きながら、そのお人形さんを買ってくれました。マリーと名前を付けて可愛がり、家族以外ではこの子が私の唯一の話し相手でした。
そんな訳で私は中学校の同級生とまともにお話をしたことがないまま、卒業を迎えることになってしまうのでした。
中学校3年生の最後、公立高校受験の前。私は塾からの帰りに自分の体調がおかしい事に気が付きました。
すぐに父に訴え、父は風邪であろうと風邪薬を処方してくれました。
ところが残念なことに薬石効なく、私の体調は悪化するばかり。
今にして思えば、受験のストレスに体がやられてしまって免疫力がすっかり低下していたのだと思います。
公立高校本試験の日、私はどうにか会場までは父に送っていただいてたどり着きましたが、とても試験を受けられる体調ではありませんでした。
私は3時間目の試験の時に倒れ、そのまま意識を失ってしまい、気が付いたら病院で横になっている状態でした。
母は心配してくれましたが、父と祖父は落胆を隠せない様子でした。
私はそれを申し訳なく思い、たとえ滑り止めで受けた私立高校に行ったとしても、大学では医学部に行くと決意を新たにしたのでした。
そんな訳で私は学院へと進学を致しました。
入りたくて入った高校ではないという意識が最初は強く、戸惑いは大きなものがありました。
行事も多い学校で、部活動も必須とただ進学のみを考えたかった私としては、やや負担になる事が増えたという認識でした。
予備校通いも入学の時から始まり、私は18時から22時までは予備校で勉強する毎日でした。
そんな中でも活動できる部活として選んだのが、中学校時代にも入っていた茶道部でした。当時の先輩方には申し訳のない選び方をしたと思っております。
ただ、月に2回の活動日さえ守れば、後は自由にして良いというのは私には魅力的でした。
もっとも茶道は私の性格に合い、今後も続けてゆきたい趣味の一つになっているのですけれど。
私は学院の伸びやかな校風に戸惑いながらも、同じ班の人たちと交流をして行きます。
斎藤遥さん、斎武さん、塩飽昭さん、椎谷杏子さんの4人に、斎藤さんのご友人の中里楓さんを加えた5人の方と仲良く過ごさせていただき、私は小学校時代以来の友人付き合いというものを改めて経験し、よいものだと思うようになりました。
高校での成績の方は、予備校の授業内容と学校の授業内容が全くかみ合わずに、私はその調整に苦労させられました。実質、テスト対策の勉強ができるのは試験前一週間の部活動が休みの日だけでした。
その日はみんなで勉強会をするのが常になりました。私はそれまで勉強とは一人でやるものだと思っていたのですが、他人に教えることで自分も勉強になる事があることに気付き、みんなで頑張ることの意義を見出したのでした。
勉強会の時だけはテスト対策という事で予備校の授業は休み、自宅に帰ってからも試験勉強に取り組んでいました。
最初のころはひと桁台にのるのがやっとでしたが、次第に順位は上がり学年1位を取ることもできるようになってきました。
その様子を見て、ようやく父も祖父も愁眉を開いてくれたのを思い出します。
私の友人の中で一人、斎藤さんは性同一性障害を抱えている生徒さんという事で、私は医学を志す者として特別な目で見守っていました。斎藤さんの方はそんな私に気付くこともなく、ごく普通に友人として接してくれ、それがどれだけ私にとって楽しい時間になったかは計り知れません。
1年生の秋には塩飽さんも性同一性障害の疑いありという事が解り、私はやはり強い興味を持つとともに、医師になった後も常に最新の情報を得ることを心掛け、学会や講習会などにも積極的に参加しなければ本当に良い医師にはなれないのだと強く感じるようになりました。
何故ならば塩飽さんは、既存の診療ガイドラインに従えば性同一性障害には当てはまらないのですけれど、学会の最新の動向や講習会では認知されているXジェンダーという立ち位置の方だったからです。
父や祖父も内科医として新しい医療には積極的な方でしたが、私もその流れを継がなくてはならないと強く感じた一件でした。
私は普段皆さんにお世話になっているお礼にと、クリスマスの時には皆さんを家に招待しました。
皆さん楽しんでくださって、私は予備校を休んでまでクリスマス会を開いてよかったと心底思いました。特に中里さんが自分のお人形さんを連れてきてくれて、初めてマリーに友達ができたように感じたのが嬉しい出来事でした。
母も父も祖父も、そんな私を暖かく見守ってくれるようになりました。
やはり人間味がなくてはいかに技術が優れていようとも良い医師にはなれないと父は言い、お前の友人たちはそういう意味で良い仲間だなとほめてくれたのが嬉しかったです。
2年生になってもクラス替えはなく、相変わらず6人の交流は続きます。
予備校で行われる授業はどんどん難しいものになってゆき、私は着いて行くのに苦労させられました。時にはついて行けずに22時を過ぎても質問しに行き、家に帰るのが最終の地下鉄になった事も何度もありました。
そんな日々の癒しの時間は、やはり皆で過ごす昼食の時間でした。昼食と昼休憩を合わせて1時間の間、私はそんな忙しい日々の事は忘れて、1人の女子高生として過ごすことができました。
それがどれだけ幸せな事でしたでしょうか。私には貴重な宝石のような時間だったと思います。
2年生最大の想い出は、やはり修学旅行でしょうか。
私達は私を含めて6人で班を組み、一緒に回りました。
配慮という事で夜に斎藤さんが別室になってしまったのは残念でしたけれど、致し方のない事だったのかもしれません。
みんなで回った嵐山の風景は、今でも大切に写真にして保存してあります。
9月半ばころからは5人の仲間達に加えて浮田あかねさんも仲間入りするようになり、私を含めて7人で過ごすことが増えました。
その分話題も豊富になり、私は私の知らないことを話している皆様の事を羨ましく思う事もありました。
けれども私には課せられた至上命題、医学部医学科への合格という目標があります。脇に目をそらしている暇はない。自分にそう言い聞かせなければならない時もありました。
医師一家に生まれたことを残念に思う事も、正直に言わせていただければありました。私には皆さんのような普通の高校生活は送れない。そのことがとても残念でした。
特に斎藤さんや中里さんが部活動に一所懸命になっているご様子を伺ったり、塩飽さんから実験に打ち込んでいる様子を伺ったり、浮田さんから分厚いレシピノートを見せていただいた時、斎さんや椎谷さんがバスケットボールに打ち込んでいるご様子を伺った時などには、強くそう思ったものでした。
そんな私に、転機が訪れます。
茶道部の先輩方が引退するので、私が部長職を引き継がねばならない事になったのです。
唯一の2年生だからという理由での任命とは言え、茶道部の長として振舞わねばなりません。これまでのように勉学一筋に打ち込むことはできなくなってしまったのです。
私は予備校に遅刻する回数が増え、注意される機会が増えました。
しかし部長として部の活動は疎かにはできないですし、後輩が自由活動日も腕を磨こうと精を出しているというのに、部長が週に2回の活動日だけ出席するのでは、何ともおかしなことになってしまいます。
結局私は、自由活動日の活動切り上げ時間を短縮することで両者に折り合いをつけました。他に良い方法が無かったのです。
それまで17時までは活動していたものを、16時30分までの活動にしてもらいました。それならば予備校の時間に間に合うからでした。
後輩には申し訳のない事をしたと今でも思っております。事情を話したら、笑顔で先輩の良いようにと言ってくれた後輩には、感謝の言葉もありませんでした。
12月の後期中間試験の時には、何故私が公立高校入試に落ちたのかという話題が出ました。私は恥ずかしながら正直に答え、体調管理も受験のうちだと思っているとお話しました。
心身ともに健康な状態でなければ、全力で試験に臨むことなどできませんものね。
この年のクリスマスは浮田さんも加えた7人で過ごしました。その前に中里さんにはマリーに衣装を作ってもらっていて、そのお礼も込めて中里さんのお人形さん、千秋ちゃんと一緒に並んで写真を撮らせて頂きました。その時の写真も、大切にアルバムに保存してあります。
もちろん、集まった皆様で一緒に撮った写真もですけれど。
3年生になるとクラス替えがあり、私は理系クラスの5組へと移動になりました。斎さんや塩飽さんとは同じクラスになりましたが、残りの面々は3年1組にと別れてしまいました。
それでもお昼の交流は続きました。今度は空き教室にみんなで集まるという形に変わって。
同様なグループが2,3ありましたから、やはり文理選択の時に別れ別れになってしまった方は私達の他にもいらっしゃったようです。
3年生に入り予備校の授業はもう受験対策に入って行き、学校の授業とは全く無関係になりました。
私は難問に取り組みながら、必死に成績をあげようとがんばっておりました。
結果は模擬試験で理系1位、しかも2位を大きく引き離して…という形で現れ、私は心中でとても安心したのを覚えております。これまで苦労してきたことは無駄ではなかったのです。
最後の年の文化祭、私は最後のご奉公とずっと茶道部の喫茶のお店番をしておりました。1年生、2年生の時も部員不足でずっとお店番でしたから、私は文化祭の様子を見て回れたことがありません。
それが一つの心残りとなっております。
3年生の最後、受験の日。今度は万全の体調で臨むことができました。精神的にも直前までみんなで『がんばろうね』とチャットをしていたおかげで、落ち着いていられました。
私の安息。それは最初は5人の、途中からは6人の仲間たちとともにあったのです。
才原さんは才能だけであの点数を取っていたわけではなくて、裏ではこうした苦労があったのです…というお話です。
仙台にも医学部専門の予備校というのは実在します。才原さんはそういうところに通いながら、高校3年間を過ごしていたのですね。
時折お休みを頂く事もあったようですけれど。