中島涼子編 ~部長の重責~
中島涼子編 ~部長の重責~
私の名前は中島涼子。今は市内にある女子大に通っていて、来春2年生に上がる予定です。
今度はこんな私の昔語りを聞いてもらえればと思います。
私の家庭では、母が洋裁をすることもあって手芸は身近な存在でした。幼稚園の頃からクロスステッチのやり方を教えてもらったりして、小さな頃から触れる機会が多かったのです。
あ、クロスステッチとは、×印の縫い取りを布に並べることにより図案を表現する刺繍の技法の一つです。マス目状の布を使う事で図案を作るのが簡単にできる事から、初心者向けと言われています。
そんな訳で私が手芸に触れた時期は早く、小学校の手芸クラブではもちろん一番の腕前でした。母は編み物の作り方もフェルト人形の作り方も教えてくれましたし、そうしたことを通じて型紙作りから縫いしろの取り方、様々な縫い方の方法や編み物の基礎など、一通りの事を私に教えてくれたのでした。
中学校になり反抗期に入ると、母に教えを乞う事はなくなりました。自分で手芸の本を読み、自分で技術を習得して行く方向へと転じたのです。それはささやかな親への抵抗だったのでしょう。自分よりもずっと手芸の上手な母の存在を素直に認められずに、自力で母を乗り越えようとしていたのだと思います。
そんな私は中学校でも手芸部に入り、腕前と知識の深さから他の部員から頼られる存在へとなってゆきました。その事は私の自尊心を満足させましたけれど、同時に増長することへもつながっていたのですね。
次第に私は基礎基本の練習を怠る様になり、知識だけで技術が伴わないような状態になっていったのでした。
あらためて顧問の先生にそのことを指摘された時、私は深く恥じ入りました。周りから持ち上げられていい気になっていた自分に冷や水を浴びせかけてくれた恩師には、今も感謝しています。あの時の一言がなかったなら、私は手芸を続けて行くことはできなかったでしょうから。
ついでに私の中学校時代にも触れておきましょう。私自身は性格的には大人しい方でしたが、人付き合いは悪くなく友人も多い方でした。ただどこか冷めたところがあって、周囲の友人からは大人びて見えていたようです。
成績も三年間を通してよい方で、入試でも良い高校への進学が有望視される存在でした。もっとも現実の壁は厚く、県内有数の進学実績を持つ公立高校の受験は失敗し、私は学院へと進学したのでした。
高校1年の時。入学直後の全校集会で、私達新入生の仲間も含めて性別違和を抱えた人たちが同じ学校にいることを知らされます。
特に私の目に留まったのは、3年生の天本早瀬先輩でした。天本先輩は女子としてはかなり身長が高く、175cmはあったのではないでしょうか。私は内心、こうした人たちはスーツなどもトールサイズでも適合しなくて、オーダーメイドしないといけないだろうなと思ったものでした。
そういうオーダーメイドの服を作る仕事に就くのも面白そうだ。当時の私はそう考えていました。高身長の女子も増えている世の中ですから、きっと需要はあるはずだと思ったのです。
そんな事を考えていたからか、部活動登録では足は自然と手芸部へと向かいました。本当は手芸と離れて別の事をやってみようかとも思っていたのですけれど、直前に先ほどお話したような将来像を描いていたものですから、やっぱり手芸とは離れられなかったのですね。
当時の手芸部は3年生の笈川京子部長と、2年生の中村敏子先輩と安田翔子先輩が在籍されていました。1年生は私1人で、少々さみしい思いをしたものでした。
私は長年の経験者でありながら、中学校時代にサボっていたツケが回ってきて、最初に行われた運針の練習で笈川部長から注意をされてしまいました。いくら知識として技法を知っていても、それを支える基礎基本が出来ていなくては意味がないのよと優しく私を諭してくれた笈川部長は、私の増長を止めてくださった恩人の1人です。
気持ちを入れ替えて基本の再習得に励む私を、中村先輩と安田先輩は暖かく指導してくださいました。結局4月中には運針の練習は終わり、連休明けにはミシン掛けの練習に入れた記憶が残っています。
オーダーメイドの服を作ってみるという私の希望を叶える機会は、意外に早くやってきました。例年夏休みには演劇部から手芸部に衣装制作の依頼が来るのが通例だと聞いていましたが、私もその制作に参加することになったのです。
私が担当したのは赤ずきんの衣装と猟師の息子の衣装でした。安田先輩が見守りながら必要な技術を教えてくださり、私は初めて自分で一から衣装を作る経験を得たのでした。無事に作り終えた私は、先輩の助言を素直に聞き作業を一つ一つ丁寧に進められて、増長していた自分と決別できた事に安堵しました。他人様の衣装を作るのに、慢心や増長した心を持ったまま挑みはしないかと、自分自身心配だったのです。まだその頃の私には、自分で自分自身を律するという事がきちんとできる自信がなかったのですね。
文化祭へ向けた作品作りでは機織りを選びました。新しいことに挑戦してみたい気持ちもありましたし、それを通して改めて基礎からしっかりやってゆく大切さを学びたい。そんな思いからでした。
文化祭後の部長改選では中村先輩が部長に、安田先輩が副部長に就任しました。笈川先輩が引退して3人になった手芸部ですが、秋冬は自由に作品が作れる貴重な時間でもあります。私は織物に精を出してゆきました。
時には私が織った織物に中村部長が刺繍を入れて合作を作ることもあり、楽しい時間を過ごしていました。
翌年になり、新入生として中里楓ちゃんと斎藤遥ちゃんが入部してきました。2人とも見事な初心者っぷりで、私は基礎基本の教え方に苦労しました。3年生の先輩の助力を仰いだ事も何度もありました。もっとしっかり基礎基本をやっていればもっとうまく教えられたのかな…と、今でも思うことがあります。
その年の演劇部の注文は、ヴィクトリア調の男女の衣装でした。私はデザインの段階から同席しましたけれど、何度もデザイン画を描き直して演劇部の持っているイメージに近付けていく作業は、なかなか大変なものでした。
実際の制作も、私と遥ちゃんが女性の衣装を担当したのですが、これがパーツ数が多くて大変苦労しました。オーダーメイドの衣装を制作するといっても、こういう特殊な注文だと大変な苦労があるなと痛感したものです。それでも、こういうオーダーにも応えられるようになっていきたいと思う気持ちは強くなってゆきました。
文化祭後、私が部長、楓ちゃんが副部長になります。もう3人しかいないのだし、先輩後輩の壁を取り払って仲良くしても良いのではないか…。そんな事を考えたときもありました。別段他に友達がいなかったという訳ではないのですが、楓ちゃんと遥ちゃんならいい友達になれそうだ。そんな事を思ってでした。
でも、一度取り払ってしまったら、来年度の新入生にもそうしてあげなければいけません。それは果たして良い事なのか? と悩みました。
結局は部長という立場もあり、2人とは一線を引いた立場で接するままになってしまいました。今でも少々、心残りになっているところです。
もっとも楓ちゃんは今私がいる大学に進路を決めたという事ですから、また交流を持つことができるだろうと思いますけれど。現に、私が安田先輩や笈川先輩と交流を保っているように…。
お話が脱線しましたね。今は2年生の時のお話をしていたのでした。私は2年生の秋冬も織物でタペストリーを作り、それに刺繍を入れて華やかにしてゆくという制作を行っていました。結局、翌年の文化祭まで出来上がったのは3枚ほどでしたけれど。
楓ちゃんはお人形さんの服作りに、遥さんはレース編みにと3人それぞれ別々の分野で制作を行っていましたけれど、時には雑談に花を咲かせる時もありました。調理部に招かれて合同でお茶会をすることもありましたっけ。高橋千絵調理部長とは結構仲が良くて、今でも同じ大学という事もあって交流があります。
新学期になり3年生になると、今度は受験という重圧もかかってきます。私自身はそれなりの成績を取っている方で、志望する大学はそこまで難しい大学ではなかったこともあって、実技の腕を落とさない範囲で受験勉強をするという、普通から見たら本末転倒な事をやっていました。本当ならいったん腕が落ちても良いから試験勉強に集中して、しっかり受験対策をするべきところなのですけれどね。
この年の新入生は3人入ってくれました。野口洋介君、野間絵里奈ちゃん、石川良子ちゃんの3人です。3人のうち普通の生徒と形容できるのは良子ちゃんだけで、野口君は見た目が気合の入ったツッパリといった雰囲気で不良っぽく、絵里奈ちゃんは遥ちゃん同様性別違和を抱えた生徒という事もあって、さてこの後輩たちをどううまくまとめて行ったらいいのだろうか…と、当初は悩んだものでした。
もっとも私の悩みは杞憂に終わり、野口君は見た目に反して背中に一本筋の入った良い男子でしたし、絵里奈ちゃんも手芸部の活動の上では普通の女子と変わるところがある訳ではなかったのですが。
それどころかむしろ、3人とも中学校でも手芸をやっていて、即戦力クラスの腕前を持っていた事に驚かされました。受験勉強の間に錆びついた感覚さえ取り戻してあげれば、すぐにでも作品制作に入れるだろうと思ったものでした。
1年生3人への指導は基本的に楓ちゃんと遥ちゃんの2年生コンビに任せて、私はそれを後ろで見守る形を取りました。私にはもう指導できる期間も半年しかないし、私が見守れる間に2人に指導経験を積ませておきたかったからです。
その頃には楓ちゃんは自分で服の1着くらい楽に作れるくらいの腕になっていましたし、遥ちゃんも編み物の腕がかなり上達していましたから、特に指導を任せる事について不安は持っていませんでした。もっとも2人は、1年生部員の方が上手なのでは? と悩んでいたようでしたが…。
教えるべきは技術だけじゃないという事をはっきり示してあげられなかったのは、私の指導力不足だったなと今でも思っています。二人には基礎基本を大事にする姿勢や、一つの作品に根気よく取り組む姿勢、外部からのオーダーに丁寧に応える謙虚さ、そういったものを伝えてほしかったのですね。でも当時はそれをうまく言葉に表す事が出来ませんでした。
その事が楓ちゃんと遥ちゃんを悩ませる原因になったのなら、やっぱりそれは部長である私の責任だっただろうと思います。
もっとも1年生の3人は持っている腕前に対して姿勢は謙虚で、おのずから先輩たちのそうした姿勢を学び取っていっていたようでした。まだ増長を残していた私の新入生時代と比べて何と素晴らしい事かと、部長として喜ばしく思ったものでした。
この年の演劇部の注文は、架空の学校の制服を男子用3着に女子用2着の5着作りました。基本の型紙は男子用のスーツの物を流用して、そこから手直しして女子用も作ってサイズを直して…と、なかなかの作業になりました。こればかりは手間を省くという訳にはいかないので、1、2年生のみんなに作業を進めてもらって、私がチェック役に回るという体制で行ったのでした。ここでは楓ちゃんの自分での服作りの経験が大いに役に立ってくれたのを覚えています。
演劇部の衣装作りは何とかお盆前までに終える事が出来て、お盆期間中はお休みを取る事が出来ました。
お盆明けからは今度は文化祭に向けた制作と、これまで進められなかった分の夏休みの課題を持ち寄っての勉強会をやりました。私も楓ちゃんや遥ちゃんに教える事が多かったのですが、1年生の中では絵里奈ちゃんが野口君や良子ちゃんに教えている事が多くて、絵里奈ちゃんも頼もしい所があるのだな、なんて嬉しく思ったものでした。
文化祭では昨年制作した演劇部の衣装の展示をメインに持ってきて、その周囲に部員それぞれの制作物を展示する、という形を取りました。私は秋冬に織り上げて、それから暇を見ては刺繍を入れていたタペストリー3枚を展示することにしました。
文化祭終了後、楓ちゃんに部長職、遥ちゃんに副部長職を依頼します。遥ちゃんは1年生部員の方が腕があるのにそれでも良いのかと及び腰でしたけれど、1年生部員たちの後押しもあり就任を承諾してくれました。
この5人なら手芸部は悪いようにはならないだろう。私はそんな安心感をもって部長を退任する事が出来ました。
公式には部活動を引退した後期に入っても、私は週1回のペースで手芸部に顔を出し、基礎基本を忘れないようにと練習に励みました。大学の入試に実技が出るわけではないのですが、いざ大学に入ってさあ、制作だとなった時に腕が錆びついていたのでは困る。そんな考えからでした。
いかなる時も基礎基本を疎かにしてはいけない。それが私が恩師と先輩から受けた教えでしたから。
大学入学後も、自宅で母と一緒に洋裁をやって腕の維持に努めています。サークルは手芸のサークルの他、挑戦してみたかったテニスの同好会にも所属しています。
忙しいですけれど、充実した大学生活を送れていると思います。
来年度もそうであってほしいですね。
本編ではまじめな優等生という感じだった涼子さん。でもそこに至るまでの道にはいろいろあったのでした。
優等生すぎると増長するという面は結構往々にしてあるのですが、そんなところが涼子さんにもあったのですね。
部長として登場した期間が長かったので、その頃のお話も中心の一つです。個性豊かなメンバーをまとめ上げるのに苦労していた面はやはりあったのではないでしょうか。
幸い手芸部内で不和が起こることはなかったのですけれど、それも涼子部長のリーダーシップがあってこそだったのかもしれませんね。