安田翔子編 ~忍さんと共に~
安田翔子編 ~忍さんと共に~
私の名前は安田翔子です。現在は市内にある女子大に通いながら、生活環境に関するデザイン全般を勉強しています。今は春休み中で、趣味の機織りやピアノに精を出しているところです。
私には将来を約束した恋人がいて、加藤忍さんと言います。
今回はそんな私の話を聞いて頂ければと思います…。
私と忍さんの出逢いは、6年前、まだ私が中学校3年生だった頃まで遡ります。とは申しましても、その時は忍さんが出演している演劇を私が観ていたというだけで、面識を持ったわけではありませんでした。ただ、格好良い方が素敵な演技を見せてくださったなと印象に残ったことだけを覚えています。
私は中学校時代にはそれほど成績の悪い方ではありませんでした。学院へは専願入試で入りましたが、私にはちょっと難しい高校だったようでこの後は勉強に苦労することになります。
私のクラス、1年1組には瀬戸彩香さんがいました。私は入学式直後の部活動紹介で私が憧れを抱いていた先輩が加藤忍というお名前であることを知るとともに、その翌日の全校集会で忍さんが性別違和という問題を抱えた方であることも知りました。同時に、彩香さんや天本早瀬先輩もそうであることも。
私の心は千々に乱れました。私は女の人を好きになってしまったのかとも思いましたが、心の性別に従うのなら忍さんは男性なのです。どうしたら良いのか、どう考えたらよいのか、当時の私には解りませんでした。
私は、全校集会から数日後、思い切って彩香さんに質問しました。
「瀬戸さんは、GDの人との恋愛とか結婚ってどう考えているの?」
彩香さんはちょっと考えて、
「よほどの覚悟がない限りお勧めしないですね。まだまだ偏見も差別も強いですし、家族を説得するのも大変ですし。添い遂げるのは大変だと思いますよ。」
彩香さんはそう答えてくれました。覚悟。どれほどの覚悟がいるのだろう。その答えを知るには私には性別違和に対する知識が決定的に不足していました。そこで私は、学校の勉強をする傍ら、性別違和についてもいろいろと調べ、解らない事が出てくると同じクラスの彩香さんのところへ聞きに行くという事を数か月、続けました。
私自身は部活動は手芸部を選びました。手芸部には中学校の頃から在籍していましたから、その延長線上で…でした。ところがこれが、思わぬ幸運を呼び込みます。
手芸部では夏休み前半に演劇部の衣装作りを請け負うのが定例になっており、実際に役者さんたちとお会いする機会もあったのです。
私も採寸や衣装合わせの時などに忍さんと話す機会があり、その為人を知ってますます惹きつけられてゆきました。性別違和という壁さえなければ、この時にもう告白していたかもしれない。そのくらいの想いを抱えていました。
8月下旬になって、それまで里中紀久子さんと二人だけで過ごしていることの多かった彩香さんの周りに、友人たちが集まる様になります。私もその輪の中に加えてもらって、彩香さん達との交流を深めました。
その過程で解ったことは、性別違和を抱えているとはいえ一人の人間には変わりのない事、等身大の高校生であることは一緒な事、そんな当たり前の事でした。
私は9月の文化祭での演劇部の公演、地区大会での公演のどちらも観に行きました。そのどちらでも、一番輝いて見えるのは忍さんでした。私はそのことを通して、忍さんへの想いが恋であることを確信しました。
私は、想いを彩香さんに打ち明けました。彩香さんはそれならば天本先輩に相談してみましょうと言います。天本先輩と忍さんは当時から仲の良い友人同士ですから、何がしかつかめるはずだという事だったようです。
天本先輩は私の話を聞き、翻意を促すかのように厳しい質問をいくつも投げ掛けてきます。私はその一つ一つに丁寧に答え、覚悟が揺るがない事を自分自身でも確認してゆきました。
天本先輩はそこまで覚悟ができているのならばと、忍さんと会う機会を設けてくださり、私はその場で忍さんと初めて真正面から向き合う事になったのでした。
忍さんもやはり、天本先輩と同様に厳しい質問を幾つも投げ掛けてきました。私の答えは揺るぎませんでした。忍さんはそんな私の様子を見て、そこまでの覚悟が出来ているならば付き合おうと言ってくれました。
私達の付き合いはその時から始まりました。気が付けば早いもので、もう4年半も前の事になります。
私がお付き合いを始めたと聞いて、私の両親はだいぶ心配していたようでした。もともと私は恋愛自体初めてでしたし、男友達もいない人間でしたから、いったいどういう経緯でどういう人と付き合っているのかと、ずいぶん気を揉んだようでした。
私は両親の理解を得るべく説明に説明を重ねてゆきましたが、両親は一度直接会って人物を確かめたい、と言います。そんな訳で早くも付き合い始めて1か月ほどで、忍さんは私の両親と対面することになったのでした。
対面はうまく行き、私の両親も忍さんの人間性を認めてくれたようでした。もちろん一度の対面ですべての心配が払拭された訳ではなくて、この後も折に触れて様子を聞かれましたけれど…。
忍さんとの馴れ初めは、そんなところです。
少し話を戻して、学校生活の方にも触れてゆきますね。
私が手芸部に入ったことは先程も申しましたね。1年生の時の文化祭には、機織りで作ったタペストリーを出品しました。これが私と機織りの接点となり、今でも手芸の中で機織りは私の好きな分野になっています。
同学年で手芸部に入った人には中村敏子さんがいて、私は最初こそ戸惑ったものの、中村さんのおおらかな性格のおかげもあって仲良くすることができました。
文化祭が終わると部長の改選があり、2年生の笈川京子先輩が部長となります。笈川先輩は落ち着いた優しい性格の先輩で、初めて機織りに挑戦した私にも優しく指導してくれた、私の恩人の一人です。
3年生の引退した手芸部はわずか3人という少人数になってしまいましたが、秋冬の自由に活動できる時期を迎えて、私はいろいろなことに挑戦してみました。その中で自分の性に合っているのは機織りとレース編みかな、と思うようになりました。
ちなみに学業の方は、私は課題の提出や出席率は良かったので内申点は悪くなく、それがテストの不出来を補ってくれるような形でした。決して学業を疎かにしていたわけではないのですが、私にはあまり学校の勉強が向いていなかったようで、なかなか成績は伸びませんでした。
2年生に上がりますと、忍さんが受験の時期に入ります。私は邪魔をせずに応援したいと思い、彩香さんと一緒に差し入れ用のお菓子を作って持って行ったりしていました。彩香さんは調理部でしたし、天本先輩を応援したいという気持ちも強く、私たち二人はよくお互いの気持ちを話し合いながらお菓子を作ったものでした。
彩香さんがバレンタインデーに告白した事も聞いていましたし、返事を待ってほしいと言われて健気に待ち続けていることも、聞いていました。
私はその話を聞くと、胸が痛む思いでした。どんなに辛い事だろう、どんなに答えを待ち望んでいる事だろうと。できる事ならば彩香さんを受け入れてほしい。私はそう強く願っていました。
そんな私の様子を察した忍さんは、『天本は色々と難しい部分もあるし不器用な奴だから、時間はかかるだろうな…。』と言って、『でもきっと大丈夫だから、心配するな。』と私を慰めてくれるのでした。
結局彩香さんの想いは、天本先輩の卒業式の時にようやく受け止めてもらえたのです。知らせを彩香さんから聞いた私は、電話口で良かったですねと言いながら私まで泣いてしまいました。
彩香さんと天本先輩のお付き合いについては、ご本人達が話されるだろうと思います。
2年生の時の部活動では、まず年度初めに新入生の中島涼子さんが入部してくれました。落ち着いて知的な雰囲気の中島さんも手芸の経験者で、私と同様に機織りに興味を持っている様子でした。中学校の手芸部ではあまり触れない分野ですから、その分興味も強かったのかもしれませんね。
私は中島さんに機織りを教える一方で、自分はレース編みに挑戦していました。細かな作業の続くレース編みは私には面白いものに感じられ、この年の部活動ではずっとレース編みをしていました。
夏休みの衣装作りでは赤ずきんの衣装と猟師の息子の衣装と狼の着ぐるみを作りました。笈川部長と中村さんが狼の着ぐるみを担当して、私と中島さんが赤ずきんの衣装と猟師の息子の衣装を担当して、手分けをして作業を進めてゆきました。
私達の方はそんなに奇抜なデザインではなかったですから順調に作業を進めてゆきましたけれど、狼の着ぐるみの方はかなりの苦労があった様子でした。何度も演劇部の方に来ていただいては試着して不具合がないかを確かめて、何度も何度も手直しを重ねていましたから…。
この年の文化祭ではレース編みと、昨年度に作った織物を展示しました。どちらかというと織物の方が見栄えもしていて友人たちの評判もよく、まだレース編みの方の腕は今一つなのかなと思ったものでした。
この文化祭の後の部長改選で、私は手芸部の副部長になりました。2年生は私と中村さんがいましたけれど、みんなをまとめる力は中村さんの方が上だと思っていましたから、良い人選だと思いました。私は部長を細かな事柄でサポートしてゆけばいいのだろうと考えていました。
文化祭の時のこともあって、この年の秋冬にはレース編みに集中して作品作りを行いました。やはり一度手を出したからにはなにがしかの成果を出したかったのです。何枚か作るうちにそれなりの出来の物が作れて、自分としては一つの目標を達成できた感じでした。
3年生になると、今度は私が受験生の立場になります。毎週火曜日と木曜日には忍さんが私の家に来て、勉強を教えてくれることになりました。
そんな訳で私は、火曜日と木曜日は手芸部に顔を出さずにまっすぐ帰る様になりました。大学へ行くには今のままの成績では厳しいのは解っていましたし、早いうちからがんばらなければと思っていたからです。
結果は次第に表れ始め、模擬試験でも目標にしていた、今在学している大学の判定は次第に良いものになってゆきました。
部活動の方では、この年は中里楓さんと斎藤遥さんの2人の新入生が入ってくれました。お二人は楓さんの方が少し経験がある程度で、ほぼ初心者からのスタートでした。
運針の練習から始めてもらい、ミシンの練習に移れたのは6月に入ってからと、例年に比べるとややスローペースでした。あんまりうまく指導してあげられなかったのかな…と、今でも思う時があります。お二人の努力はかなりのものでしたから、もっとしっかり指導できていれば、もっとペースを速めることもできたのではないかなと…。
演劇部の衣装作りはこの年は男女1着ずつの2着でしたが、どちらも装飾が多めの西洋の時代衣装でした。おかげでパーツ数は多めで、型紙作りや縫い合わせにみんなで苦労したことを覚えています。
演劇部の衣装が完成して初めて、楓さんと遥さんは自分の作品作りに入る事が出来たのでした。遥さんはレース編みをやってみたいという事でしたから、私が基礎基本を教えて解らないところがあれば聞いてもらう、という形を取りました。文化祭まで1か月を切った中で、伝えられたのは本当に基礎基本だけになってしまいましたけれども…。
私自身も文化祭に向けて作品を作っていて、また機織りに戻りました。やっぱり私は機織りが好きみたいです。
文化祭では忍さんが2日間とも見に来てくれました。2日目は展示の説明役を終えた私とゆっくり校内を回りました。前年は演劇部の公演で忍さんがほとんど動けなかったので、初めて一緒にゆっくり回る文化祭になりました。
私達と入れ替わりに天本先輩達も展示を見にきてくださったそうで、後で遥さんが如月京香先輩と彩香さんのコメントを私に伝えてくれました。
文化祭が終われば私達3年生は引退です。手芸部に所属して、あっという間の2年半でした。でもやりたいことはたくさんできましたし、引退するにあたっての心残りはもう楓さんや遥さんの指導ができないことくらいでした。二人ともまだ成長半ばで、今後どれだけ伸びるかを楽しみにしていましたから…。でもそれは、きっと中島新部長が引き継いでしっかりやってくれるだろう。私はそう信じて笑顔でお別れをしました。
2月には大学の入試があり、忍さんの力添えのおかげで私は合格することができました。
3月2日の卒業式の日。中島さんと楓さんと遥さんに進路が決まったことを告げて、祝ってもらえました。私は3人の最近の作品を見せてもらって、皆それぞれに成長していることを実感しました。これなら来年の手芸部も大丈夫だろうと、心から安心したことを覚えています。
大学に入ってからは、一般教養を学ぶ一方で、デザインの基礎になる事も学んでゆきました。私の今の目標は、服飾デザインを学んで機織りで作品を生み出してゆくことを考えています。
忍さんは大学が6年間ありますから、私の方が1年早く卒業することになります。少しは花嫁修業をする時間も取れるのかな、なんて今から思っています。
少々、気の早いお話ですけれど…。
ファーストシーズンでは彩香さんの陰に隠れ、セカンドシーズンでは半年間しか活躍期間のなかった翔子さん。ちょっと不遇なキャラではありますが、それでも彼女にも物語はあるのです。
控えめなキャラ設定も手伝ってあまり目立った活躍をしていないように思われがちですが、遥さんに技術を伝えたのは翔子さんだったり、加藤さんとの関係もあったりと、意外と設定は濃いキャラクターでした。
お話はほぼ高校在学中のお話だけで終わってしまいましたね。大学はまだ2年生を終えたところですから、専門領域をやっていくのはこれから、という事になります。