松山弘美編 ~一生の趣味を探して~
松山弘美編 ~一生の趣味を探して~
私の名前は松山弘美です。この春から高校2年生になる予定です。単位は落としていないはずだから、予定というより確定かもしれませんね。
取り立てて特徴のない私ですが、お話を聞いて頂ければと思います。
私は小学校のころからごく普通の平均的な女子でした。友達もそこそこいたし、仲も良かったのです。どこにでもいるような普通の女子。まあそんなところがこの頃の私だったのではないでしょうか。
多少変化が訪れたのは、小学校中学年のころから読書を趣味にするようになってから。
結構いろいろな本を読みましたけれど、その影響か話し方などが同年代の女子に比べて落ち着いた雰囲気になり、大人びていると言われるようになりました。
小学校時代に特筆することといえば、そのくらいでしょうか。
中学校では何となく選んだ運動部に入って体を動かしていましたが、どちらかというと冷めた性格の私には熱血な感じの運動部は性に合わず、周囲に適度に合わせながら仕方なくやっているような感じでした。
それなら最初から文化部に入ればよかったのにと思われるでしょうけれど、私の中学校には文化部は美術部くらいしかなくて、そして当時の私は美術に関心がなかったのです。
幽霊部員になるという事も考えましたが、部の中には友達も幾人かいて、その人たちと仲が悪くなってしまうと考えると、おいそれと幽霊部員になる訳にもいきません。
そんな訳で私は、中学校3年間を部活動の面ではだましだまし過ごすことになったのでした。
中学校時代の成績は、入った当時は平均よりやや上くらい。途中から塾通いも始めて、そこからは平均75点から80点くらいを出せるようになってゆきました。
それなりの成績を修めていた私は、受験でもいい結果を出す事を周囲から期待されました。
公立校入試では模擬試験でC判定だったところに挑戦することになりましたが、残念ながらこれは成功しませんでした。
そんな訳で、滑り止めに受けて受かっていた今の学校に私は入ったのです。
高校に入る時、私は考えました。中学校時代みたいないい加減な部活の選び方はしてはいけないぞと。一生の趣味にできるような部活動をやってみたいと。
入学前に予備登校でもらったパンフレットを眺めてみて、いくつか候補はありました。
いろいろ考えた末、茶道部、調理部、手芸部。この3つが私の中での最終候補に残りました。
『ご趣味は。』『お茶を少々たしなんでおります。』というのも悪くないと思いましたし、調理部で料理の腕をあげるのも将来を考えると悪くないと思いました。
それでも最後に残ったのは、手芸部でした。これは意識して生活していないと上がらないスキルだと思い、料理などは自宅の手伝いでもスキルアップは計れるかな、と考えたからです。お裁縫が得意な女子というのは悪くない。そんな気もしました。
そんな小難しい理由をつけてはいましたが、結局のところ決め手になったのは、部活動紹介の時に見た、中里楓部長の作られた衣装に魅せられていた事でした。
私もあんな服を作ってみたいし、着てみたい。それが一番の動機でした。
とは申しませども、初心者がいきなりあんな立派な服を作るというのは無理なお話です。当然、最初は基本的なところからの練習になりました。
1年生部員は私の他に同じクラスで同じ班の松川好美ちゃんがいましたが、私達1年生部員の指導を主に担当してくださったのは、2年生部員の野口洋介先輩と石川良子先輩のお2人で、野間絵里奈先輩が指導を後ろからサポートするような体制でした。
3年生の楓部長と斎藤遥副部長はそれを後ろから見守り、もし何か間違いや手落ちがあれば即サポートに入る、という形を取っていました。
3年生の先輩方は受験を控えた身でもあり、あと半年間しか活動期間がないという事もあり、指導を見守りながら文化祭に向けた作品作りをされている事が多く、いつも忙しそうにしていらっしゃいました。自宅に帰れば受験勉強をしなければいけない訳ですから、実際に忙しかったのだろうと思います。作品を作れる時間は部活動の時間のみになってしまいますからね。
私はそんな事情を察してあまり3年生の先輩に負担をかける事はしないようにしようと思っていましたが、5月に入りそうも言っていられない事が起こります。
同じクラスで同じ班の友人である松本浩紀君が、他のクラスの生徒にいたずらをされて激高する、という事態です。
私は止めに入りましたけれど、浩紀君も相手の方もどちらも聞いてくれる様子はありません。こうなっては仕方がないと、私は遥副部長を呼びました。かねてから浩紀君に何かあった時にはすぐ連絡をくれるようにと頼まれていたからです。
喧嘩の顛末の詳しい事は、多分浩紀君が自分で話してくれると思います。私は遥先輩が来てくれるまでただ見ていることしかできずにいて、自分の無力さを改めて思い知らされました。
私も現場にいた人間として生徒会から取り調べを受けました。生徒の自治が強い学校だとは聞いていましたが、こういう時も生徒会が仕切るのですね。他の学校ではあまり見られない、珍しい体制だと思います。
私はこの顛末を通して、遥副部長の持つ人間性に惹かれるものを感じました。先輩として尊敬できる人だ。そう改めて感じたのはこの時だったでしょう。
少し私自身の学校生活の事も話しておこうと思います。
入学直後の実力テストで平均80点を出した私は、順位的には40番台くらいでした。このままの順位を保って勉強できれば、系列の大学へは進学できるだろうと言われるラインには十分届いていました。
私の第一志望は系列の大学でしたから、この成績を保てばよい。私はそう考えて、手芸部の活動に励む傍ら、帰宅後1時間程度予習復習の時間を設けることにしました。
また、入学直後に行われた遠足では、同じ班の人々と仲良くなる事が出来て、その後の学校生活を順調に過ごせるようになりました。
班の人々の他にもクラスには友人が何人かいて、少人数の部に所属している身としては友人の多い方に入るのかもしれません。
私自身は『大人びた落ち着いた性格だ』と言われることが多いのですが、私自身は若さに見合った熱さを持ち合わせていないだけだと思っています。どこか冷めているのですね。
5月半ば、運針の出来を見るという事で先輩方の見ている前でのテストが行われました。
私は好美ちゃんと共にこれをクリアし、次の課題であるミシン掛けの練習へと移る事が出来ました。ミシン掛けの練習は端切れを使ってたくさんさせて頂いて、先輩方の指導もあり次第に上達してゆきました。
この頃にはもう2年生の先輩方とはすっかり打ち解けており、自由活動日には練習をしながら雑談をして過ごすこともありました。
野口先輩は硬派な印象、絵里奈先輩は柔らかい印象、良子先輩はビシッとした印象を受ける方々でしたが、個性豊かな先輩方とのおしゃべりは楽しいものでした。
楓部長と遥副部長はそんな私達をいつも暖かい目で見守っていてくださって、私達は安心して部活に打ち込むことができたのでした。
6月の定期試験も、私は特に大きな問題なくクリアすることができました。成績順も実力テストから落ちることはなく、まずまず良い所をキープできていました。
定期試験中に手芸部のミシンは整備に出していたという事で、調子が良くなって戻ってきました。私達1年生はそのミシンを使ってまた練習に励むのでした。
夏休み中には演劇部の衣装作りが入ると聞いていましたが、この年も注文が入りました。時代劇をやるそうで、江戸時代の町人の衣装を作ってほしい、という要望でした。デザインの打ち合わせには私達1年生も出席しました。やり方をしっかり見ておいてほしい、と楓部長からは言われました。来年、再来年も多分同じようなことをすることになるからでしょう。
襦袢や着物はともかくとして帯はどうするのだろう? と思ったら、手織り機で機織りして作るという事でした。私はてっきり布地を縫い合わせて作るものだとばかり思っていたので、その発想に驚きました。
でも確かに、帯って織物で出来ていることも多いのですよね。町人の衣装となればそんなに豪華なものではないでしょうから、織模様を入れて織ったものくらいでちょうど良かったのかもしれません。
実際に帯づくりを担当したのは既に一度帯を作った事があるという良子先輩と、機織り初挑戦になる遥先輩でした。
楓部長は衣装作りの総指揮を執り、布地などの発注やスケジュールを決めたり演劇部と細かな打ち合わせをして細部を詰めたりと、八面六臂の活躍ぶりでした。さすがに部長を務めるだけあるなあと、私は人格的にも能力的にも楓部長への尊敬の念を深めました。
実際の制作の作業は、私達1年生が担当しました。もちろん2年生の先輩方に手伝っていただきながら、ですが…。
着物作りですから基本は直線縫いで良いのですが、着物特有のきせをかける(縫い目から約2ミリのところで布を折ってしつけ、縫い目を見えなくする技法のこと)必要があって、それが作業を少々難しいものにしていました。
先にしっかり縫い目のラインをへらでつけておくようにと繰り返し野口先輩や石川先輩からは指示されましたが、それも納得のいくことでした。
今回は丈夫さと作業の速さを重視してミシンで作りましたが、和服は独特の縫い方も多くて本来は総手縫いで作るのが本式なのだと良子先輩から教わりました。
演劇部の衣装作りが終わると、午前は文化祭に向けた制作、午後は夏休みの課題をするという日程が組まれました。演劇部の衣装作りはほぼ終日やっていましたから、みんな課題が疎かになっていたのですね。かく言う私も、手をつけてはいたものの進みは遅く、まとまった時間を取って進める必要は出ていました。
私達は成績の良い絵里奈先輩に教えを乞いながら、課題を済ませてゆきました。
文化祭に向けた制作の方では、楓部長にたくさんお世話になりました。もともと楓部長の作られたドレスを見て入部した私は、ああいうドレスを私も作ってみたいと思っていたのです。
デザイン画を描いて楓部長に見せると、楓部長は早速手持ちの型紙の中から似たものを探してくださり、それを手直ししながら新しい型紙を作ってゆく方法を教えてくださいました。
私は楓部長の教えに従って作業を進めて行き、何とか文化祭に衣装を間に合わせる事が出来ました。私の作ったドレスは、去年演劇部の注文で作ったという架空の学校の制服や、楓部長の作品と並んで展示され、私は誇らしいような恥ずかしいような気持になったのでした。
文化祭が終わると次期からの部長と副部長の指名が行われます。
部長には野口先輩が、副部長には絵里奈先輩が就任しました。私達は新しい体制の手芸部で活動を進めてゆきます。
秋から冬にかけては自由に作品が作れる時期。
普段の指導は野口部長や良子先輩、絵里奈先輩にしていただいていましたが、私は引退後も定期的に部に来て実技を磨いている楓先輩にも教えを乞いながら、新たな衣装の作成に入ってゆきました。
どうやら、楓先輩の趣味と私の趣味は似通っている部分があったようです。もっと時間があったなら、さらにいろいろなお話ができただろうと思うと、残念でなりません。
3年生の先輩方の卒業式の日。
私はお世話になった楓先輩と遥先輩が卒業されてしまうのがさみしくて、とても残念でした。まだまだ教わりたいことは一杯ありましたし、楓先輩の事もようやく解ってきた頃にお別れだというのですから。
それでも、涙の別れというのはこういう時にはふさわしくありません。笑顔で送り出して差し上げなくては。私はそう思い、気持ちを改めて2人の先輩を他の皆さんと一緒に裁縫室でお待ちしました。
やがて現れた袴姿の楓先輩と遥先輩。みんな口々にお礼の言葉を掛ける中、私もお礼を言いました。
「半年という短い間でしたけれど、先輩達にはずっと見守ってもらえて心強かったです。」
と。お世辞ではなく本音です。楓先輩には特に、その後も引退後にもかかわらず様々な指導を賜ったことを改めて御礼申し上げました。
私は、一生の趣味にするには十分なくらいの腕と知識を先輩方から引き継ぐことができたと思っています。
今度はこれを新入生に伝えながら、より一層磨いていくことが目標です。
来年度、手芸部には何人の新入生が来てくれるでしょうか。今から楽しみにしています。
野口部長、絵里奈副部長のもと、手芸部は今日も元気に活動中です。
本人の性格を反映してか、淡々としたお話になりました。
この後もう一人の1年生部員の好美さんのお話も出てきますが、二人の性格を対比して見て頂ければ面白いかもしれません。
楓さんとは多分、卒業後もチャットでやりとりなどしているのではないでしょうか。卒業が縁の切れ目だとはあまり思いたくないですね。