ウィリアム・シェイクスピア『ロミオとジュリエット』(戯曲)
『ロミオとジュリエット』は、悲劇であり喜劇であり、エンターテインメントであり教訓劇でもある。
まず、悲劇的な要素をいえば、ロミオとジュリエットの死、そこへ至る過程だ。ロミオとジュリエットは神父の助力によって、晴れて結ばれるための策略を実行するが、ほんの小さな行き違いによって計画は崩れ、ジュリエットが死んでしまったと勘違いしたロミオはみずから命を絶ち、それを知ったジュリエットもその後を追った。—— これは、ギリシャ神話のピュラモスとティスべの物語(血に濡れたティスベのベールを見て彼女がライオンに殺されたと思い込んだピュラモスが命を絶ち、後から現れたティスベがそれを知って後を追った。)を元にしたエピソードだが、この切なさ —— 少しでもタイミングが違っていたら、というやるせなさ —— が観客の涙を誘う。観客は、ジュリエット(ティスベ)がほんとうは死んでいないという事実を知りつつ、それを知らないロミオ(ピュラモス)が死へと急ぐのを目撃するためにやるせない感情を抱くのだ(悲劇的アイロニー)。
ストーリーの肝といえば、このクライマックス、この悲惨な事件だろうと思う。素直に考えれば、これは悲劇の筋だ。精神の浄化、エンターテインメントにはうってつけだ。
ところが、この作品の主題は何だろうかと考えたときに、やはり全編を通して訴えられているのは、モンタギュー家とキャピュレット家の抗争の無益さであるように思う。クライマックスこそわずかな行き違いによる皮肉な悲劇になっているが、元はといえばこの家同士の抗争がゆえにふたりは引き裂かれたのだ。
そして、この劇のエンディングは、じつはハッピーエンドである。ロミオとジュリエットの悲劇を知り、争っていた両家が和解し、街に平和が訪れるのだ。いわば愛の勝利である。
この結末からも、劇の主題が「争いの無益さ」あるいはその対比として「愛の尊さ」に置かれているのだと考えることができる。
とすれば、この作品は悲劇の筋(エンターテインメント)を借りた生真面目な教訓劇なのだろうかとも思うが、もうひとつ見逃してはいけない要素として、喜劇の要素がある。筆者は先にチェーホフの『かもめ』の感想文を書いたが、この『ロミオとジュリエット』にしても同じような俯瞰した見方ができるのではないだろうか。
この作品の喜劇的要素といえば、ジュリエットの乳母やマキューシオの下ネタ発言というのも有名だが、こういった小ネタのようなお笑い要素は他の悲劇にだってある。この劇に関していうならば、やはりなんといってもロミオとジュリエット、若いふたりの恋人の短絡的で大仰な恋愛の表現であると思う。これは、「ロミオメール/ジュリエットメール」あるいは「ロミオとジュリエット効果」という現代語にも現れている。
第一幕での一目惚れや、第二幕のバルコニーのシーンなど、恋人ふたりの刹那的な感情の盛り上がりやことばのやりとりは、気障で大袈裟で周りくどい。これを芝居がかっているといって嫌う人もあるだろうが、むしろその「芝居がかっている」ところがあえての狙いなのではないだろうか。時代性や翻訳の問題などで意図せず大仰と捉えられている部分もあるのかもしれないが、ある程度はお笑いを狙って書かれたものなのではないかと筆者は考える。
そして、このお笑いこそが、真面目くさった大人の無益な争いを鎮めて勝利するのである。シェイクスピアは若者の恋をおかしがり、笑いに変えて皮肉っておきながら、それを否定はしていない。むしろ最後に勝利するのは彼らの愛なのだから。
筆者が以前見た芝居や映像作品からは、なんとなく、悲劇的要素が際立っているように感じられた。ふたりの恋愛に関しても、切なさやロマンが強調され、おかしみよりもふたりの情熱に観客が同調するような作りになっていたように思う。
シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』は様々な要素で成り立っているため、そのどれをも活かして劇を作り上げるのは難しいことなのかもしれない。
と、感想文をまとめてしまったが、今回私が描いたのは、彼らの愛の勝利の犠牲となった薬剤師の登場シーンであったのを思い出した。
この薬剤師は、ジュリエットが死んだと勘違いしたロミオがみずからも死なんとして毒薬を求めたとき、毒薬を売れば死刑だというのに、ほとんど彼に脅されるような形で毒薬を売ってしまったのである。このときのロミオのセリフがまたひどい。このシーンで描かれるロミオの恋ゆえの狂気ともいうべき言動は、これまたロミオという人物の魅力のひとつでもあるのかもしれない。