ウィリアム・シェイクスピア『ハムレット』(戯曲)
感想文?
今回のは、半分以上が紹介文か解説文のような……(^^;
シェイクスピア四大悲劇のうちの一作『ハムレット』だが、タイトルロールの「ハムレット」というキャラクターは俳優にとっては憧れの存在であろうと思う。ハムレットは、その叔父クローディアスが先王(ハムレットの父)を毒殺して王位についたと知り、これを討って復讐しようと志すが、いざとなると思索に陥ってなかなか行動に移すことができない —— そんな王子だ。この優柔不断さが、叔父のみならず多くの人物の死を引き起こし、そしてみずからも命を絶つこととなる大惨事につながるわけだが、このハムレットのように思索的な性格が、後にツルゲーネフによって「ハムレット型」と名付けられることになる。つまり今日、こういった悩める人物の典型例・代表を彼は担っているのだ。
また、ハムレットとクローディアス、そして先王の死後間もなく亡き夫の弟と再婚したハムレットの母ガートルード、—— ハムレットは父の死の真相を知る以前から、母と叔父との早すぎる再婚(近親相姦)を不満に思っていた —— この三者の関係は、先に感想文を書いたチェーホフの『かもめ』のトレープレフ・トリゴーリン・アルカージナの三者に通じる部分がある。(トリゴーリンはアルカージナの愛人であるが、アルカージナ・トレープレフ親子と血縁があるわけではない。あくまでも、「通じる部分がある」という話だが、じっさいに親子が上記の役を演じて『ハムレット』のセリフを言い合うシーンもあるため、チェーホフがこの関係を当てはめていることはたしかだ。)
このほかにも、たとえばイプセンの『ペール・ギュント』で主人公ペールがハムレットのセリフに言及するなど、『ハムレット』は後世の様々な作品に影響を与えている。
また、ハムレットの恋人であるオフィーリアという人物(『かもめ』ではニーナに通じる)は、絵画の題としてもてはやされた。
ジョン・エヴァレット・ミレイやウォーターハウス などの英国画家のみならず、フランスのカバネルやドラクロワ、オディロン・ルドンなど、多くの画家に描かれ、—— 特に狂乱に陥ったオフィーリアが川で溺れ死ぬシーンは多くの画家の想像力を掻きたてた —— そしてついには、筆者もその末席の座布団の端っこのほうを汚すことになったわけだ……。
じつはこのオフィーリアの死、シェイクスピアの戯曲中ではオフィーリア役の女優によって演じられるシーンではなく、ハムレットの母ガートルードのセリフとしてその悲惨なようすが語られるのだ。(第四幕第七場)
もともとシェイクスピアの劇は現代の演劇と違ってことばで語る特性の強いものではあるが、『ハムレット』は特にセリフを利用して —— 俳優が動作を演じるよりも —— 鮮明なイメージを観客(聴衆)にほどこすことに長けていると感じる。
オフィーリアの死はその悲劇性や倒錯性によって多くの画家にもてはやされたが、この戯曲には、セリフで映像を見せるという意味で特に取り上げるべき特徴的なシーンがもうひとつあると筆者は思っている。
ハムレットが父の死の真相を知り復讐を誓った後の第二幕第一場、ここではオフィーリアのセリフによって、ハムレットの不審な行動が語られる。彼女は恋人の不審なようすに怯え、父親にそのことを打ち明けるのだが、—— オフィーリアの部屋へやってきたハムレットは青い顔をしていて、彼女の手首を握ったりするが、やがて肩越しにオフィーリアを見つめたままに部屋を出ていった —— このシーンのハムレットの思考や行動については他では言及されないため、オフィーリアの語るまるで亡霊のようなハムレットの姿が観客の脳裏に焼きつくわけだ。『ハムレット』で亡霊といえば第一幕と第三幕で直接舞台上に姿を表す先王の亡霊だが、筆者にとってはオフィーリアのセリフによって語られた亡霊のようなハムレットの姿のほうが印象的だった。いつかこのシーンも絵に描いてみたいと思っている。
ちなみに、文中に掲載したオフィーリアの死の絵画(拙作)のタイトルは『オフィーリアと詩人』で、これはフランスの象徴派詩人アルチュール・ランボーの詩『オフィーリア』から想起したものである。