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アントン・チェーホフ『かもめ』(戯曲)

今回、長いです。

まあ、先の二作品は短編だったのでね。


 チェーホフの喜劇『かもめ』、これは私が今もっとも好きな戯曲作品だ。NHKの朝ドラ『なつぞら』の作中にも出てきていて、少し嬉しい。


 チェーホフの喜劇は人間愛あふれる群像劇だ。作為的なストーリーに押し込められたキャラクターではなく、等身大のリアルな人間が描かれている。四幕の劇の中で様々な人物が登場し、代わる代わる、各々の心の問題をぶちまけていく。人物同士の思惑は絡み合うかに見えて、絶妙に相手をすり抜けていく。—— 多くの人物が登場して終始ことばを交わしているにもかかわらず、彼らの会話は常にすれ違っていて、それぞれが孤独なのだ。


 喜劇というと、シェイクスピアの『夏の夜の夢』のようなドタバタラブコメディを思い浮かべる人もあるかもしれない。あの劇をはじめ、喜劇のラストには思いあう者同士が結ばれてハッピーエンドになる場合も多い。

 しかし、喜劇の本質はエンドではなく、その過程のすれ違いにあるのだと思う。これは登場人物の視点では気づくことのできない一種の劇的アイロニーだ。(ドゥミのミュージカル映画『ロシュフォールの恋人たち』のデルフィーヌとシモン・ダムが非常にわかりやすい例だと思う。)

 観客の視点で額縁(プロセニアム)の中の出来事を見るからこそ、そこにおかしみや切なさを見出すことができる。喜劇中の人物たちはいつだって必死であって笑いどころではないし、そもそもの話、客席にいる私たちのように劇中すべての事象を客観的に目撃することなど不可能だ。



挿絵(By みてみん)




 『かもめ』の紹介をしているのにドゥミの映画の例だけで済ますのはもったいないので、作中からの例を出す。


ソーリン「事のついでに、ちょっと聞かしてもらうが、あの小説家は全体何者かね? どうも得体の知れん男だ。むっつり黙りこんでてな。」

トレープレフ「あれは、頭のいい、さばさばした、それにちょいとその、メランコリックな男ですよ。なかなかりっぱな人物でさ。まだ四十にはがあるのに、その名は天下にとどろいて、何から何まで結構ずくめのご身分だ。……書くものはどうかと言うと……さあ、なんと言ったらいいかなあ? 人好きのする才筆じゃあるけれど……が、しかし……トルストイやゾラが出たあと、トリゴーリンを読む気にゃどうもね。」

ソーリン「ところでわたしは、文士というものが好きでな。むかしはこれでも、あこがれの的が二つあった。女房をもらうことと、文士になることなんだが、どっちも結局だめだったな。そう。小っちゃな文士だっても、なれりゃ面白かろうて、早い話がな。」

トレープレフ「(耳をすます)足音が聞える。……(伯父を抱いて)僕は、あの人なしじゃ生きられない。……あの足音までがすばらしい。……僕は、めちゃめちゃに幸福だ! (足早に、ニーナを迎えに行く。彼女登場)さあ、可愛かわいい魔女が来た、僕の夢が……」

(チェーホフ『かもめ』神西清訳・第一幕より)


 おわかりいただけるだろうか。一見会話をしているようなふたりだが、トレープレフはトレープレフの気分で、ソーリンはソーリンの気分でそれぞれ言いたいことを言っているにすぎない。劇中には少し切ないすれ違いも多いが、ここはだれがどう見ても「喜劇的な」すれ違いではないだろうか。



 次に、切ないタイプのすれ違いを挙げてみる。

 それぞれの幕の冒頭シーンにかならず登場しているマーシャという女性は、作家志望の青年トレープレフ(第四幕ではすでに作家)に恋をしているが、その恋は叶わない。トレープレフには女優志望のニーナ(第四幕ではすでに女優)という恋人がいるからだ。

 このマーシャという女性は観客にとって非常に魅力的な存在で、この群像劇の中心人物であるトレープレフを見ていくのに欠かせない存在だ。

 ここで、トレープレフの印象深いセリフをふたつ挙げる。


「[……]……自分の若さが急につみとられて、僕はこの世にもう九十年も生きてきたような気がします。[……]」(同上・第四幕より)

「(悲しそうに)君は自分の道を発見して、ちゃんと行く先を知っている。だが僕は相変らず、妄想もうそうと幻影の混沌こんとんのなかをふらついて、一体それが誰に、なんのために必要なのかわからずにいる。僕は信念がもてず、何が自分の使命かということも、知らずにいるのだ。」(同上・第四幕より)


 これらは、第四幕におけるニーナとのシーンのセリフだ。ニーナはトレープレフと恋仲だったが、彼を捨てて旅立っている。このシーンで、ふたりは二年ぶりの再会を果たしているのだ。

 マーシャの恋は叶わず、トレープレフの恋も叶わず……そして皮肉なことに、ニーナは有名作家トリゴーリンという人物とのあいだに子をもうけていたが、彼女もまたその恋人に捨てられた身なのである。—— このように、客席から相関図を俯瞰してみることによって、人物たちの切ない物語が浮き上がってくるのだ。

 また、先に挙げたトレープレフのセリフだが、じつはすでに、他の幕でマーシャが発しているセリフに通じるところがある。


「わたしは、こんな気がしますの――まるで自分が、もうずっと昔から生れているみたいな。お儀式用のあの長ったらしいスカートよろしく、自分の生活をずるずる引きずってるみたいな気がね。[……]」(同上・第二幕より)

「[……]ご本が出たらお送りくださいね、きっと署名なすってね。ただ、『わが敬愛する』なんてしないで、ただあっさり、『身もとも不明、なんのためこの世に生きるかも知らぬマリヤへ』としてね。[……]」(同上・第三幕より)


 これらはそれぞれ、マーシャが別の人物に語ったセリフだが、トレープレフへの叶わぬ恋という前提があるため、先に挙げたトレープレフのセリフ時の状態と酷似している。(もっとも、トレープレフの場合は作家ということもあり、また相手のニーナも女優というかたちで芸術に携わる立場でもあり、このふたりの会話には「芸術家としての在りかた」というような要素も絡んでくるのだが。)



 「喜劇的なすれ違い」「切ないすれ違い」と称してその両方を挙げてみたが、このどちらも、観客から見れば喜劇としてとらえることができる。前者は単純に笑える。そして後者は、—— これはけっして嫌味な笑いではなく、人間の不器用さやこの世の不条理さに対しての諦観のこもった穏やかな笑みであって、人間愛だ。—— 私は、そう思っている。

 ちなみに、この不器用人間喜劇の要素を非常にわかりやすく表現しているのが漫画『ドラえもん』であって、星野源の作詞・作曲した『ドラえもん』の主題だと思っている。



本文中の引用部分は、青空文庫より。


青空文庫:https://www.aozora.gr.jp/index.html

図書カード:https://www.aozora.gr.jp/cards/001155/card51860.html


新潮文庫、新潮社の神西清訳で、『かもめ・ワーニャ伯父さん』という文庫本に収録されているものです。

また、最初の引用部分では人物のセリフを鉤括弧かぎかっこ(「」)でくくっていますが、これは引用者によるものです。上記引用元では、頭書かしらがき(人物名)の後にスペースという表記になっています。

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