昔の話
記憶の中のその人の姿を思い浮かべ、私は眉をしかめた。その様子が、常に眉間が寄っていた彼の姿に似ているかもしれないとふと思ってしまい、更に眉間の皺が深くなる。ダメだ、思い出すにはまだちょっと早い。
それなのに、私の記憶は勝手に遡り、記憶の海に点在するその人の姿を探し出す。
◆
私が彼──黒桐瑩に最初に出会ったのは、黒州の碩都・行にあった碩庫の片隅だった。
自力で安定した人生を、のスローガンの下、入学できる歳になった私は、故郷であった莉市の隣にあった行の郷院へ行った。
莉市にも郷院はあったのだが、わざわざお隣の碩都まで行ったのには理由がある。
そう、碩都には──碩庫、つまり図書館があるのだ。
生前の私は、本と書道をこよなく愛する文学少女だった。
転生先が運よく古代中国に似た世界だったのもあり、筆や墨とはお別れすることはなかったが、悲しいかな、本とは縁遠くなっていた。
印刷技術が発展していない世界(西華・東泉以外の諸国でも、そこまで盛んではないらしい)では、本というのは手で写していくしか増やす方法がなく、その写本ですら相当高価なため、個人で所有できるのは皇族や彩族や裕福な商家といった、お金を持っている人たちだけなのだ。庶民に厳しい話である。
本を所有できないならば、借りて読むか自分で作るかしかない。とはいえ、作話の才能など皆無だった私は、碩庫に所蔵されている本に目を付けた。
郷院に行けば教材としていくらか本はあるし、それを元に手習いをするのだけれど、それだけじゃ物足りない。目指すは碩庫で好きな本を探して、自分で写本。そんな野望を抱きながら、私は郷院に通いつつ碩庫にも足繁く通った。有り難いことに、行の碩庫はその一部を郷院の生徒に公開している。
とはいえ、彩院と庶院で場所が区切られているので、庶院生である私が見れるのは、本当にぼろっちい本か、へたくそな筆士が写したと思われるほぼ失敗作かのどちらかなのだが、それでも本を手に取って見れるというのは興奮するものだった。
勉強して書の腕を磨いて本を読みまくる。そのときの私は充実した日々を送っていた。
「本、好きなの?」
ぽつんと投げかけられた不愛想なその一言を、私はよく覚えている。びっくりして顔を上げると、眉間にしわを寄せた男の子がいたのだ。
彼は、私のちょうど四つ上だったから、そのとき十歳くらいだったろうか。
奇麗な顔をして、身なりのよいその子は、笑えば可愛いだろうに、なにが面白くないのか、年齢にそぐわない、それはもうしかつめらしい表情をしていた。
彼に尋ねられて首肯しようとした幼い私は、しかし彼が羽織った上着が混じりけのない黒だったことから、その子が彩族──黒家の子どもであることを悟った。
これは返答していいものか。大人の精神は躊躇うが、子どもの私にその判断基準たる知識は与えられていなかった。庶院生が彩族に対しての礼を習うのは最終学年。入学当年だった私に、彩族に対しての礼を教える者は誰もいなかったのである。
どうしていいかわからないものの、返答しないのが一番失礼だろうと判断した私は、無言で頷いた。口を利かない私に、彼は続けて「まだ小さいように思えるが、その年で碩庫に通い詰めるとは、相当好きなのだろうな」と声をかける。その言い方があまりにも年上ぶっていて、こらえきれず吹き出してしまった私を、彼は声に出して咎め立てせずに、ただ片眉を上げるだけで流した。
仕草がいちいち年寄り臭い少年。それが、黒桐瑩の第一印象だった。
苗字を名乗らず、桐瑩とだけ名乗った彼は、どうやら身分を隠したまま、私と交流を持ちたいようだった。
身分を隠したいのに、上着をそのままにしている詰めの甘さが、年相応で可愛らしい。精神は大人だった私は、彼の気持ちに沿って会話をすることにした。年下の子には優しくしてあげなきゃとか、そのときはそんなことを考えたように思う。
中等院に通っている桐瑩は、かなりの本好きだった。
元より黒家は武門一族である。中等院でも、彼は闘尉専攻の授業を受けているそうだ。なのに、どうしても本を読みたくて仕方がない。「家の本はすべて読みつくしてしまって、今は碩庫の本を読みつくしているところだ」と話す彼は、自分が彩族であることを隠すつもりがあるのかどうか。普通の家には本なんてないんですよ若様。
そんな本好きである彼は、毎日毎日自分と同じように碩庫に通ってくるちびっこが気になってしまい、自分と同じ本好きならば、本について語り合えるかと思って声をかけてきたそうだ。
そんな彼は、限られた本しか手に取れない同士を憐れんだようで、碩庫士にかけあって自分が同伴な場合のみすべての本を読めるように手配してくれた。そう、すべての本である。彩院用だけでなく、彩族用の庫に収められている書物まで見れるようにしてくれたのだ。
これは、本に飢えていた私にとっては、極上の申し出だった。それどころか、彼は私の字を見てそこの碩庫士に紹介までしてくれたのだ。
好きなように読書ができ、さらには写本のアルバイトができるようになった私は、毎日が楽しくて仕方なかった。
碩庫士にかけあった段階で桐瑩の身分はバレていたのだけれど、彼は今まで通りの付き合いを望み、私はそれを受け入れ、碩庫士たちは見なかったことにしてくれていた。
彼との付き合いは、彼が有藍にある闘院へ進学するまで続いた。私が十、彼が十四のときである。
進学するにあたって、彼は手紙を出すと言ってくれた。だが庶民であった私に、彩族、しかも皇族に一番近い血筋だった黒家直系の男子である彼が、手紙を出すことは許されていなかった。
「私、書史になるつもりなんです。だから、書館に勤めだしたら会える日も来るかもしれません」
「そうか。じゃあ、玲が来る日を待っている。俺は、闘尉になって闘館にいるはずだ」
そう言って彼がくれた筆架は、今でも私の宝物だ。すべらかな黒い玉で作られた筆架は、開かれた本を形どっていて、その両端には鳥が一羽ずつとまっている。
お返しに、私は手製の栞を三葉、プレゼントした。押し花を紙に貼りつけた──そのときの私に、紙漉きの技術も道具も持っていなかったのだ──お粗末なそれを、大事に懐に入れた彼の笑顔を、私は一生忘れないと思う。
読んでいただいてありがとうございます。
2017年度の「あなたのお手紙代筆します!」は、この更新が最後となります。
次の更新は1月1日、元日の予定です。
それでは皆様、良いお年を!