店とチラシと私
チラシの生産には思った以上に時間がかかった。なにせ、一枚一枚が手書きなのである。そして、そのすべてがうちの店の技術見本となるのだから、手なんて抜けない。
今日はこの作業を、お客様が来るまで続けよう。そう決意して筆を執った私だったが、そこから先の記憶がないのだ。「集中すると周りが見えなくなるわよね、あんた」と、薛あたりに苦笑されそうだ……。
そんなこんなで、私が手を休めたのは、手元が翳ってからのことだった。「暗いな」と思った瞬間、我に返ったのだ。
もとより、店内はすごく明るいとは言えない。どこの店も同じだが、ガラス窓というものが存在しない以上、扉や窓を開け放して採光するしかない。よって、陽の傾きと共に店内に入る明かりは変わってくるし、この時期入り込む空気の冷たさも変わってくる。
ふうっと大きなため息をつくと、私は筆架に筆を置き、凝り固まった肩をぐるりと回した。ひざ掛けをしていたものの、靴を履いた足先が冷たい。薛と共に開店準備をしていたときは軽く汗ばむほどだったのだが、こうやって店内で動きもしないでいると、やはり寒いのだ。
「今、何時だろう……」
もちろん、店内に時計なんてない。時計というものは、一般的に普及しているものではないのだ。時刻を知るには、「刻の鐘」と呼ばれる鐘楼が、半刻ごとに鐘を撞いて時間を知らせてくれるのを頼りにするしかないのである。これは、どの都市も同じであった。
そして、音を聞き逃してしまえば、現時刻がわからない。あとは陽の傾きで推測するしかないのだ。机のところまで陽が入らず、かといって窓の外が暗くないことを考えると、午后の三刻あたりとか、そんなところだろうか。午后の四刻半には陽が沈んでしまうからね、今の時期。
「お昼食べそこねた……」
空腹に気付いたのと同時に、お腹がぐうっと切ない音を立てる。うんうん、飲まず食わずで筆を執ってたのだから、そりゃ鳴るよね! お腹空いた!
奥でなにか作ろうかと思ったものの、思い直して私は店じまいを始める。こんな時間まで開けていたのに、お客の一人も来なかったのだ。もう、今日は無理だろう。もとより、代筆屋は客がひっきりなしに来るような店ではない。開店当日に来客数ゼロも痛いが、職種的に仕方ないだろうと、私は見切りをつけたのだ。……けして、言い訳ではない。
お財布と、書いたばかりのチラシを数枚手にした私は、戸締りを確かめてから店を後にした。せっかくだから、チラシを渡しがてら外に食べに行こう。
◆
「こんにちは~」
最初に私が訪れたのは、隣の文具屋だった。代筆屋と文具屋は切っても切れない関係にある。そのためその両店は隣り合わせに建っていることが多く、私の店もまた同様だった。
鈴さんというご家族が経営しているこの店は、前の店主とも仲が良かったらしく、その店を継いだとして(居ぬきで借りただけで、継いだわけじゃないんだけど)私にもよくしてくれる。
「おや、玲琳さん」
初老の店主が、にこやかに挨拶をしてくれる。文具屋も、お客が途切れないほど繁盛するような職種ではないので、店内に他の人影はない。
「こんにちは、鈴さん。あの、もしよければこちら受け取ってもらえませんか?」
「なんだい、これは?」
「引き札です。お店の宣伝をするもので、角に切り取って使える代金割引券がついています」
渡された羽紙に首を傾げる鈴さんに、私はそれが割引券付きの広告であることを告げる。「店の宣伝?」と目を丸くした鈴さんは、まじまじとチラシに見入った。相当物珍しいようだ。そりゃそうか。
「西華では、こういうのが流通してるのかい?」
「……そういうわけでは、ないんですけど。あの、便利かなって。うちの店が新規開店したことって、知られてなくて。飲食店と違って頻繁にお客様が来るわけでもないので、開店周知と新規顧客開拓に励もうかと……」
私が東泉の出ではないことは、「騎玲琳」という名からわかってしまうので(東泉の人は、下の名は一文字というのがセオリーだ)、西華からやってきたことは、最初の挨拶の時に述べてある。
だから、鈴さんはむこうの流行りなのかと思ったらしいが、印刷技術が発達していないこの世界で、チラシというのは聞いたことがない。版木で大量に摺るのもいいかもしれないけれど、私は代筆屋だ。肉筆で書いてなんぼだろう。まぁ、版木を作る技術も絵心もないのが一番の理由なのだけれど。
「こういうの、受け入れられなさそうですかね?」
「いや? 初めて見るから驚くけど、便利そうだなぁと思うよ。金額がはっきりしてるし、割引も効くなら、手紙の一つくらいお願いしようかなって思ってしまうね」
「よかった!」
「これ、誰に配るんだい?」
「とりあえず、近所のお店には配って回ろうかなって。お世話になりますし。阮さんと笛さんのところは、ちょっと悩んでます」
阮さんと笛さんというのは、この沙にある他の代書屋さんだ。阮さんのところは一番の古参で、その店は公共施設が立ち並ぶ本通りにある。笛さんのお店は中通りだが、私の店があるこの通りとは別の中通りだ。中通りは、本通りを挟むようにして二本あるのである。
「先に行った方がいいでしょうか」
「商売敵になるからねぇ、伏せておいてもいいとは思うけれど」
「まぁ、たしかに商売敵ですけど、こんなのどこがやってもいいかなとも思うんです。枚数書くので時間かかりますし。私のところは筆士が私一人ですけど、笛さんとこは笛さん含めて三人、阮さんのところなんて五人もいるんですよ?」
アイデアを独り占めするのはいいが、こんなのはすぐ真似されて広まるだろう。秘匿するほどのものではない上、正直、私のところに注文が殺到しても困る。だとしたら、先に情報提供するのが心情的にも得だろう。なにせ、印刷できない以上、チラシばかり書くのはつらいのだ。
「うん、やっぱりお二方のところにも急いで渡しに行きます。もとよりこれ、うちの店が開いてますよってお知らせに近いですしね」
「まぁ、筝さんとこが閉まってから、長いもんなぁ。知らせないと、玲琳ちゃんのお店が後に入ったなんてわからんか」
「そうなんですよねぇ」
「欲がないねぇ」
「まったくそんなことはありませんよ~。では鈴さん、相談に乗ってくださってありがとうございました!」
そう、それは謙遜ではない。むしろ私は強欲であり、ずるい女である。
なぜなら、鈴さんの後に訪ねたライバル店に渡したチラシは、割引券を付けないスペシャルバージョンだったのだから。
ほら、発案店として、多少はオリジナルな特典つけたいしね!