【挿話】その頃、西華では(一)
騎玲琳が赤家の勘気を蒙って放逐されたことを黒桐瑩が知ったのは、彼女が国を去ってからのことだった。
桐瑩は、昔から運が悪かった。目つきは悪いものの、容姿は悪くない。能力も人より秀でている。出自だって、一番皇族に近い彩族・黒家の直系男子であるし、伯母が景帝の妃であり、従兄弟が宮嗣だったりする。
ただ、とにかく彼はツイていなかった。恵まれた立場な上に元より物欲は薄いせいで、彼はあまり自分から欲しいと思うことがない。けれども、たまに欲しいと思うものがあると、それは必ず彼の手からすり抜けるのだった。
彼が強く願ったものは彼のものにはならない。それを彼が確信したのは、一人の少女との出会いと別れからだった。
彼が彼女と出会ったのは、彼の一族が治める土地にある、とある碩庫の片隅である。
小さな少女が、毎日毎日同じ本を舐めるようにして読んでいる。それは本が好きだった彼の目を惹くには十分なきっかけだった。彼の家族は武術に長けていて、本を好む人間が皆無だったせいもあっただろう。
だから、声をかけた。
本の話をするうちに、友達になった。身分も、年齢も、性別も超えて、彼は彼女のことを友人だと信じたし、彼女もまたそうだった。
「黒桐瑩」としてではなく接することができる彼女は、彼にとってひどく得難い友人だった。欲望の赴くまま、本の話を、学問の話を、武術の話を、様々な話をする。
嬉しかった。楽しかった。だから、彼は彼女を自分の近くに置こうと思った。けれども、それを切り出そうと思った日に、彼は彼女の夢を知る。「書史になりたい」。輝くような笑顔でそう言われてしまうと、黒家に仕えないかとは言えなかった。桐瑩は闘尉として国に仕えるつもりだったから、闘尉と書史として、再び会おうと約束して別れる羽目になった。せめてもの繋がりを求めても、それは得られない。
闘尉になった彼は、彼女と再会することを楽しみにしていた。けれど、その年の書史採用者に彼女の名はなかった。「成人したら、女は嫁ぎ、子を育むもの」とされる国だ。もとより、女性が登用されることは少ない。
だから、彼は今度こそ彼の家で働かないかと誘おうとした。だが、そのときすでに彼女は他の彩族に雇用されていたのだ。一旦彩族に雇用されれば、なかなか転職する人間は少ない。
彩族であり闘尉である彼と、庶民であり赤家の筆士となった彼女が接する機会は、まったく望めなかった。
だから、その手紙を最初に目にしたときは、彼は本当に喜んだのだ。幻覚でも見たのかと思うほど、それはあり得ないことだったからだ。
でも、忘れるわけがなかった。蜜月のようなあの数年間、幾度となく目にしてきた友人の手蹟は、まったく同じではなかったものの、随所に見られる癖はそのままだったからだ。
そして何度か手紙をやり取りするうちに、その手蹟の主について、間違いないと確信が持てた。
だから、彼は動いたのだ。その手紙を書いた筆士に会いたいと。できるならば渡してほしいという希望を滲ませて申し出たその言葉は、彼にとっても彼女にとっても最悪な結末を招いた。
けれども、彼がその結末を知ったのは──彼女が、玲琳が姿を消した、その後のことだった。
◆
「桐瑩、まだ怒ってるの」
口の端に笑みを滲ませたまま、青戒祐は従弟の渋面を見やった。
「別に、怒ってはいません」
従兄弟同士とはいえ、戒祐は宮嗣。皇族である。誰に対してもぞんざいな物言いをする桐瑩も、戒祐には丁寧な態度を崩さない。まぁ、慇懃無礼ともいうけれども。
「文の君、まだ見つからない?」
「別に探してなんていません」
桐瑩の返答に、戒祐はひどくおかしそうに、くくく、と咽喉の奥で笑った。まったくこの従弟は、素直でない。
「ごめんね、うちの双嘉が迷惑をかけてるうちに、こんなことになって」
「宮児様たちが悪いのではありません」
双嘉とは、戒祐の長女・連嘉と、長男・嘉溌をまとめた呼称で、戒祐は好んでその呼び名を使う。
「双嘉は桐瑩が好きでねぇ」
「勿体なきお言葉です」
桐瑩にとっては姪と甥にあたる彼らに対しても、彼は礼節を尽くそうとする。それがおかしくて、戒祐はちょっかいをかけるのだが、桐瑩は意に介することもなく、淡々と受け流す。
「薔も子どもたちに会えて嬉しそうだったよ」
戒祐の妻である冽薔は、現在懐妊中だ。本来なら宮嗣とその家族が住まうべき菫の宮にいるべき彼女は、具合がよくないこともあって、半年ほど前から義母の実家である黒州の州屋敷に仮住まいしている。
母親と離された子どもたちが恋しがって泣き続けるもので、桐瑩は是非にと頼まれ彼らを州屋敷に連れて行ったのだが、その間に玲琳が出奔したため、戒祐はひどく申し訳ない気持ちになったものだ。
「君には申し訳なかったけれどね」
「問題ありません」
心情的には問題がありまくりだが、それはおくびにも出さず、桐瑩は嘯く。
「君は嘘つくのうまいからねぇ」
しかし、くすくすと笑い続ける戒祐に、桐瑩の嘘は通用していないようだった。