あなたの特別な紙
鼓兄弟のセクハラ発言にダメージを受けつつ、私は碩庫を後にした。琴さんが申し訳なさそうな表情で見送るのが視界の端に映ったが、ダメージ倍増なのでやめていただきたい。
うーん、これは奏さんがやってくるまでは、写本だな。心を無にせねば。心頭滅却すれば火もまた涼し。
「こ~んに~ちはぁ~」
黙々と写経……ではなく写本に勤しんでいた私の集中力を、気の抜けた声が破る。間延びしたその声は依頼人の声ではない。
「暎くん」
鈴暎くんは、お隣の文具屋の長男である。正確な年齢はわからないけれど、私より年下なのは確かだ。そのせいか、つい故郷の弟と重ねてしまう。お姉ちゃん気分だ。
「よぉ、客来てるか、玲」
友人の薛が略して呼ぶものだから、彼も私を「玲」と呼ぶ。東泉の人は名前が一文字だから、その方が馴染みやすいのだろう。
「千客万来とはいかないけれど、依頼は請けてるよ」
千客万来どころか、正式に店を訪れて依頼をしたのは、奏さん一人だったりするが、言わなくてもいいということは世の中いくらでもある。ほら、今の私は碩庫の写本の依頼と、奏さんと台さんの依頼の三つを抱えているわけだしね。なかなかの滑り出しじゃない?
開店当日の寂れっぷりを頭の片隅に追いやって、私はにこりと笑って見せた。その笑顔に、暎くんがホッとしたような表情を浮かべる。
「よかったな」
日に焼けた顔の中で、歯の白さが眩しい。そしてそのまっすぐさも眩しい。奏さんを呪ってしっぺ返しを食らった身としては、切実に。
「今も、依頼人待ちなんだ」
「新規のか?」
「ううん、現在請けてるやつのだよ。ところで、今日はどうしたの? 鈴さんとこに、今はなにも頼んでなかったよね?」
開店に当たって準備したうち、使用しているのは墨くらいだ。でも、だいぶ磨っちゃったから、そろそろ新しいのを発注して、ストック分と入れ替えないとなぁ。
「そんなの、玲が心配だったからに決まってるだろ」
ちょっと照れたように、暎くんが言い捨てる。そっぽを向いているのが可愛い。ああ、珱琳は元気かなぁ。
五つ下の弟を思い出し、一瞬微笑ましい気持ちになったが、自分が追われた顛末を思い出してため息をつく。父や弟が、赤家の言いがかりを受けていなければいいけれど。
私は命令に従って香燕様の代筆をしていただけであって、別に犯罪を犯したわけではない。だから、故郷や国を追われるほどの身ではないのだが……溺愛している娘の縁談を潰して泣かせ、彩族たる赤家に恥をかかせたと、当主である赤捷俱様を激怒させてしまったのがまずかった。
捷俱様は、私が国にいられないよう全力で再就職先を潰していくと共に、家族を餌にして私を脅しにかかったのだ。
彩族ってさ、貴族だけあって、なにやっても大抵のことは見逃してもらえるんだよね。特に、相手が私みたいな庶民だと、太刀打ちなんてできない。書史になった友人たちじゃ、むしろやりこめられてしまう。同じ彩族の手を借りてようやくどうにかなるとしても、私にそんな伝手なんてない。
……桐瑩には、絶対話せないし。
赤捷俱様が望んだのは、私が赤家の視界から完全に姿を消すこと。黒家との縁談は潰えたけれど、香燕様のお相手探しはまだ続けなければいけない。そのときに、また今回みたいなことになるのは困るのだと、面と向かって言われた。
今回が特殊だったなんて言い訳は、通じるわけがなかった。
「どうした?」
気遣わし気な声に、我に返る。
「手紙って難しいな、と思って」
「代筆屋がそれいっちゃ終わりじゃねぇ?」
それもそうでした。
そのまま、暎くんとどうでもいい世間話をしていると、これまた待ち人以外の来訪者がある。
「どう~? 頑張ってる~?」
「薛」
書史の制服姿の薛は、終業後そのまま寄ってくれたらしい。「今日は仕事がなかったのよねぇ」と笑う薛は、今日もパッと見女性にしか見えない。自分を魅力的に見せることに関して、薛は間違いなく私より女子力が高いのだ。
「こっ、こんにちは!」
薛を目の当たりにした暎くんが、ちょっとどもりながら挨拶をする。すでに「こんばんは」の時間じゃないかなとも思うけれど、緊張している様子なので突っ込まないで見守っておこう。
「あら、こんばんは。お隣さんところの子だったかしら」
「はい、鈴暎といいます!」
気合のこもった暎くんの名乗りに、薛は黙って微笑んだ。黙っていると背の高い美女に見えるけどさぁ……薛、黙ってないで、お前も名乗れ。
「開店準備の際に顔合わせたと思うけど、笙薛だよ。私の書院時代の友人」
「よろしくね、暎くん」
「はっ、はい!」
嫣然とほほ笑む薛に、暎くんが顔を赤くする。……薛が男性だって、言っておいた方がいいかな?
そう思って口を開いたときに、とうとう奏さんがやってきた。依頼人の登場に、慌てて暎くんは帰ろうとする。どうやら、彼は用があるというより、純粋に私の心配をして来てくれたらしかった。いい奴だ。
だけど、早くしろという仏頂面の奏さんの手前、来てくれた礼を言うと共に、「薛はやめときな」とそっと忠告するのが私の精一杯なのだった。
◆
「というわけで、紙を漉いていただきます」
「……唐突すぎないか、代筆屋」
現在、私たちは漉き舟を設置してある部屋にいる。
依頼人が来たことで暎くんは帰宅したけれど、薛は帰らず、奏さんとは反対側で簀桁を興味深げに覗き込んでいた。
「私、紙を漉くとこは初めて見るわぁ」
「そういやそうだね」
私が筆士として働いていたのは赤家のお屋敷内だったので、薛は紙漉きを見たことはない。多分奏さんもないだろう。秘術というわけではないけれど、わざわざ人前でやる作業でもないせいだろうか。
「全部やれとは言わないので、少し振っていただくのと、飾りを散らしていただくのをお願いします」
紙木と呼ばれる楮に似た樹木の繊維を水に溶かした中に、ネリに当たる、粘り気の強い液体を入れる。その水溶液を入れた漉き舟に、簀桁を入れて漉くのだ。
私に指導されながらも、奏さんは文句も言わず簀桁を手にして頑張った。溺愛する妹のためにここまでできるのなら、何故今まで連絡の一つもしなかったのかと思うが……人の気持ちは難しいものだ。
そしてその様子を見てやりたがった薛の方が巧く漉けたことで、奏さんが躍起になったのは計算外だったが、結果としてなかなかの紙が出来上がったのだからよしとしよう。
漉いた紙を紙床に積み、私たちは手を洗ってお茶をしていた。といっても、居室ではなくお店の方でだけれど。
「というか、あんな出来でよかったのか」
奏さんは、可愛い妹に気に入ってもらえるのかが気になるらしく、そわそわしている。
「可愛い出来になりましたし、大丈夫ですよ」
奏さんの「特別な紙」は、ただ本人が漉いただけではない。楓に似た颯という木の葉っぱを漉き込んである。秋だったら赤く色づいているが、漉き込めたのは緑の葉だ。けれど大きさを小さめに揃えたせいか、爽やかで愛らしい出来となった。
「颯といえば、士長の名がそうだな」
奏さんが複雑な顔をする。弦士長、そんな名だったっけな。
すっかり失念していた私は、ちょっと申し訳ない気持ちになりながら、話を進めた。
「ええと、乾かした先程の紙にご確認いただいた内容をしたためて、贈り物と一緒にお持ちします。文章について了承は得ていますが、送付前に最終確認をお願いしますね」
「わかった」
さすがにあの「特別な紙」に確認もしない文章を書くのはまずいので、奏さんには事前に羽紙に書いた文をチェックしてもらっている。内容は無沙汰の詫びと、結婚のお祝いだ。
「そうそう、細工物の確認もお願いします。今お持ちしますので、少々お待ち下さい」
台さんのお菓子はまだだが、奏さんの簪はすでに完成している。お茶を飲む奏さんの相手を薛に任せ、私は道具置き場に置いていた箱を取りに行った。