新たなる依頼
真顔で沈黙はやめてほしい。心底そう思う。
その空気に耐えられなくなった私は、再びへらりと気の抜けた笑顔を顔に張り付けた。引き攣っていないことを祈る。
「まだ空き店舗だと思われてるんですかねぇ。私もお店やるの初めてなんで、勝手もわからなくて」
「…………」
だから! 沈黙で返すのはやめて!
真顔で立ちすくむ奏さんにそう訴えたかったが、顔見知り程度の間柄では気安く突っ込みも入れづらい。特にこの人には。
「えっと……まぁ、そのうち仕事も来るかと思いますし、碩庫から写本のお仕事をいただけているので、大丈夫ですよ」
そうなのだ。仕事はゼロではない。重ねて言おう。ゼロではないのだ!
開店当日にお仕事を請けられるなんて、かなりラッキーだよね! 高額ではないけれど、前金だけで手紙の代筆三十件分もらってるし。
うちのお店は、長さや紙で変わるけれど、手紙の代筆は基本プランで一件あたり葉紙一枚(千銭)としている。これは他の二店舗の金額に合わせさせてもらった。値段を下げるのはリスクが高いからね。新参者が喧嘩売っちゃいかん。
煎饅頭(小)がひとつ白銅貨一枚と銅貨二枚(百二十銭)なので、今回私がもらった前金の華紙三枚は、煎饅頭(小)が二百五十個買える。生活費にすぐ消える額ではあるけれど、ないよりマシだ。
なお、後金は出来高によって変わってくるので、頑張らないといけない。割引き後の値段として一冊一万五千銭の換算になるので、あとは私の頑張り次第だ。墨は持ち出しだけれど、上翼紙が向こう持ちなのも大きい。普通のお仕事は紙も墨も代金に含まれるからね。割引きって体だけど、実際は割り引いた感が少ないのはナイショである。
「……本業に負担がかかっていないのなら、新規に仕事を依頼してもかまわないか?」
随分と長い沈黙の後、奏さんが口にしたのはそんな言葉だった。一瞬意味をつかみ損ねて首を傾げる。写本については契約済みなので、新規ということは写本以外のことだろう。
「私的な依頼になるので、終業後改めて伺いたい」
おっと、どうやら奏さん自身の依頼だったらしい。そうなると、手紙の代筆かな。
それにしても、碩庫が閉まるのは、この時期は午后五刻前。庫内ではできるだけ蝋燭を使いたくないため(まぁ、本は貴重だしね、燃えたら怖い)、陽が落ちたら閉めるのが通例である。そして閉庫作業を終わらせてからここに来るとなると、来店予定は午后六刻とかそこらへんだろうか。うーん……困ったな。
「今請けちゃダメですかね?」
正直、私も夜は早く閉店したいのである。蝋燭代もかかるし、なにより窓や扉を開けておくのは寒いのだ。湯包──いわゆる湯たんぽだ──を抱えてひざ掛けをしていても、冷気が好き放題入る店内には長居したくない。
だが、私の提案に真面目な奏さんは苦い顔をした。就業中に私的な行動を慎むのは、社会人として褒められるべきことだと思うけれど、こちらの要望も呑んでいただけると嬉しいです!
じっと見つめる私の視線に根負けしたのか、奏さんはずんぐりとした肩をかすかにすくめてみせた。
「……それならば、明日の始業前に寄らせてもらえないか」
碩庫を始めとした書館や闘館が開くのは、普通のお店が開くより一刻半ほど遅い。
結局、翌日に改めて来店すると言い残して、その日奏さんは帰って行ったのだった。
◆
「結婚祝いのお手紙と、贈り物の依頼……ですか」
奏さんの私的な依頼は、故郷にいる妹さんへの結婚祝いだった。
「代筆屋は贈り物まで扱ってはいないと思うが、僕は、その、女の喜ぶものはよくわからない。妹とも十年は会っていないから、なにを贈っていいのかわからない。料金を上乗せするので、そちらの手配もお願いしたい」
なんでも、奏さんは故郷──彼は、紫州律市の出身らしい──を出て、十数年音信不通で過ごしていたらしい。中等院を卒業した際、一族の爪弾き者の伯父を頼って沙に来たせいで、勘当されたのだと言っていた。何故それで勘当されるのかわからないが、まぁその家庭ごとに理由はあるのだろうから、そこには突っ込まない。
「よく妹さんが結婚するって知りましたね」
「伯父から聞いた」
「伯父さんは奏さんのご両親と連絡を取っているんですか?」
「うちの父は伯父を毛嫌いしているから、連絡なぞ取っているわけがない」
……家出息子をよろしく的な話し合いは親同士でされてるんじゃないかな、それ。
どうやら、頑なに勘当されたと家族と距離を取っているのは、奏さん一人っぽい。ヒートアップしそうだから言わないけれど。
「伯父から、妹が結婚するのだから、お祝いくらい贈れと言われて。まぁ、妹は可愛いし、祝うのはやぶさかでないというか……」
言い淀む奏さん。めんどくさいなこの人! あれでしょ、伯父さんはこの機に家族と和解してほしくて、奏さんも妹さんをお祝いしたいからその話に乗りたいけれど、ちょっとご両親とのわだかまりが気になって動きづらいっていう。
「……自分でお手紙書いた方が喜ばれるんじゃないですかね?」
「代筆屋は手紙を代筆するのが仕事だろう」
偉そうに言う彼は、きっと良くも悪くも、人の気持ちの裏が読めない人なのだろう。
「それに、僕の字では伝わらないと思う」
……癖字だもんね! 悪筆と言ってもいいくらいの!
見本の一冊を写してる際に目にした彼の字を思い出し、さもありなんと私はため息をついた。妹さんの心情的には本人直筆の方がいいだろうけれど、読めないのでは仕方がない。二号よりひどいその字は、よく碩庫に配属されたな、と感心するほどのものだ。
「では、お手紙の代筆、承ります」
「よろしく頼む」
私の了承の言葉に、奏さんは初めて微笑んでくれた。