初仕事の予感
「これは、料金表ですか? おや、ここの端にある割引券というのは?」
私のチラシに興味をそそられたその人は、机の上にまだ残っていたそれから視線を離さずに言った。肩からさらりと髪の毛が落ちてきたのも気にならないようだ。
「割引券……つまり、この紙を持ってきたお客さんには、いくらか料金を割り引きますっていうものです」
「それは珍しいですね。値段交渉ではなく、無条件で割り引くと?」
「はい」
そう言われて、私は割引券はやりすぎだったろうかと不安になった。チラシ自体が珍しいのだから、さらに珍しいもので目を惹く必要はなかったかもしれない。やりすぎはいけない。なにごとも、ほどほどでないと。
たださ、値段交渉ってめんどくさいじゃない? 特に初めてのお店だと、面倒だからいつものところにしようってなると思う。少なくとも、私はそうだ。交渉自体が好きでない。恥ずかしいとか思っちゃうんだよね。
だから、そういう手間を省くには、割引券はいい案じゃないかな~と思ったのだ。割引き後の値段からさらに値段交渉されるかもしれないが、そのときは話し合えばいい。
「それにしてもいい手蹟です。筆士殿は腕がいいのですね」
チラシを隅々まで眺めていたその人は、満足げに私の文字を褒めてくれた。ようやく上げたその顔は、私の中にあった面影とはまったくの別人で、少しだけホッとする。
「……文字を見慣れている方にそう言っていただけるのは光栄です」
「おや」
私の言葉に、その人は涼やかな双眸を見開いた。奇麗な飴色をしたその色合いは珍しいので、彼には東泉や西華以外の血が混じっているのかもしれない(なにせ見渡す限り黒目黒髪の世界だ)。北の恪聿国に住む恪聿人が色素が薄いから、そこらへんだろうか。
ちなみに恪聿はチョコレートに似た楂古というお菓子が有名で、私は書院時代に裕福な友人から一口もらったそのお菓子を、いつかまた食べたいと思っている。甘いけどどこかほろ苦くて、濃い生チョコみたいな感じだった。残念なことに、楂古は王都くらいしか流通してこないので、なかなか遭遇する機会に恵まれない。
「書令史……碩庫士様ですよね?」
こちらに背を向けていたときは気付かなかったが、目の前のその人が身に纏っている制服は我が友人・薛と同じものだし、腰に下げた玉環のモチーフも彼と同じ鷹と本だ。そして、碩都であるこの町にいる書令史と言えば、大概それは碩庫士である。
ちなみに薛もこの町の書令史だが、彼は碩庫でなく、町を治める書館の方で書類整理に追われている。そして、そこにいるもう一人の書令史は私たちの同期であった男だという話だから、見知らぬこの人は碩庫士であるに違いなかった。パッと見若く見えるけど、この人はどう見ても私より年上だし。
「いかにも。碩庫にいらしたことが?」
「いえ。つい先日引っ越してきたばかりですから。ただ、制服や玉環を存じ上げていただけです」
彼が下げる玉環は、ほとんどが薛と同じだ。一番上に連ねてある瑠璃の級位玉は、院士の薛と同じ中級書史の二輪華だし、一番下の翡翠の所属玉にも、書令史を表す鷹と本が刻まれている。
ただ、真ん中に挟まれた黒曜石の職格玉がぺーぺーの薛とは違った。職格なしの薛は小さな輪だが、目の前の彼はその輪の中に銀の玉が挟み込まれている。──彼は、沙の碩庫士長なのだろう。
「そういえば、碩庫の噂で筝さんの代書屋の後に新しく店が入るらしいと聞きましたが、貴女だったのですね。ああ、申し遅れました。私は碩庫に勤めております、弦颯と申します」
「弦……碩庫士長様、でしょうか」
私の考えは間違っていなかったらしく、弦碩庫士長はにっこりと笑ってその発言を肯定した。偉い人なのに、にこやかで穏やかで偉ぶらない人だ。感じがいい。
「このチラシ、私もいただいても?」
「あ、どうぞ。ぜひお持ちください!」
このチラシを縁に、ぜひとも碩庫からお仕事がいただければいいなぁと、私は弦碩庫士長に、彼が眺めていたチラシを一枚手渡した。にこにこと嬉しそうに、碩庫士長はチラシと私を見比べる。
「さて、筆士殿。この割引券というものは、いつでも使えるのですか?」
「はい。使えるのは一度きりですけど。代金から一割引きます」
未収入の段階での一割引きは厳しいけれど、これは撒き餌だ。最初の仕事を気に入ってもらえれば次に繋がるだろうと見込んでの、一割引き。期限を設けたかったけれど、期限付きの割引券なんて代物が説明もせずに受け入れられるとは思えなかったので、これには期限を設定していない。
「どんな依頼からも一割引いていただけると?」
「そうですね。……恋文代筆以外で、ですけれど」
私は、机の上のチラシに書いた注意事項を指して言った。もう、ああいった面倒事は嫌なのだ。もちろん、いつかは恋文代筆を再び手掛ける日も来るかもしれない(主に収入の問題で)。だが、今はまだやらないでいたい。人の恋路に口を出さずにいられるなら、その方がいいのだから。
私の説明に、弦碩庫士長はおかしそうに笑った。にこにこと、よく笑う人だ。笑顔がデフォルトというか、常に楽しそうというか。
「いいですね。一割引き。代金が大きくなればなるほど、助かりますよね」
「え?」
「騎筆士殿。この後お時間をいただいても? お仕事のお話をしたいと思うのですが」
……いくらいい人そうに見えるからといって、その笑顔に騙されてはいけない。
私はその後、強く心に誓った。