紅色の牙
「おい、起きろ。朝だぞ」
聴き慣れた萎れた声が、余韻を残さず頭に響く。
私は、疲れ切った体を無理やり起こし、伸びをする。
傍らには、既に畳まれた麻の敷布が、だらしなく残されていた。
「早く出てこい、今日も急ぐぞ」
「わかってるよ…」
私が寝袋から出るのにもたついていると、テントの口から、短白髪で傷だらけの顔が出てきた。
いかにも不機嫌そうなその顔は、私が準備しているのを確認すると、すぐにまた外へ出ていった。
私も一応年頃の女だ、その辺りも考慮してくれたのだろうか。
重く冷えた皮靴を履き、布と木の枝の簡素なテントから出る。
私は、外の冷気にすぐ目を覚まされた。
外は、もうずいぶん明るくなっていた。
「この地方は季節によって日の出時間が変わる、覚えておいて損はないぞ」
使い古した、黒基調の怪物の革をふんだんに使ったスタデッドレザーアーマーを纏った初老の後ろ姿は、首を鳴らしながら、もう動き始める準備を整えていた。
私はそんな彼をよそに、大きく深呼吸をした。
緑の生い茂る森の中。
湿った苔を纏う木々の間から、白い木漏れ日が差し込み、見事な霧の流れを映している。
地を覆う草本類はみんな葉を濡らし、頭を重たそうに垂れていた。
「今何時だ?六時ちょっと過ぎくらいか?どうだ?」
突然彼に確認を煽られた私は、澄んだ世界に見とれる時間も与えられず、渋々テントに戻り所持品を漁る。
口の解れた小さな綿のポーチから、かつて父から貰った懐中時計を取り出し、確認する。
「六時五分」
「そうか、ついでに装備も着ろよ」
時計をポーチに収め、所持品を少し整理した。
テントの隅に並べられた、一式の白狼皮装備に目を移す。
昨晩遅くまで入念に手入れをしたせいか、まるで新品の様にソーグウルフの純白の皮が光沢を放っている。
伸縮性のあるシクラントラの蔦で編まれた鎧下を着用し、その上に各装備をベルトで固定。
ひとつ前の町で調達した、軽量化された金具に昨晩で一新したのもあってか、かなり軽くなったように感じた。
腕部のベルトに、投げナイフを三本ずつ挟み、ブーツにもそれぞれ二本ずつ挟んだ。
北方鮫の丈夫な皮で出来た剣帯を肩から斜めに掛け、先ほど整理した所持品を傷んだ牛革袋に放り込む。
「準備できたか、早くここを離れるぞ」
彼の鋭い眼付きが、それを知らせた。
私は手早くテントの麻布を剥して、これを畳み、また牛革袋に詰め込んだ。
匂いを消すために、消臭効果のあるイアゲル草を握り潰し、辺りに撒いた。
私が振り返ると、彼は既に歩き始めていた。
その姿が密林へ消える前に、私は急いで彼を追った。
「ここらの怪物は群れで来る、囲まれたら厄介だ」
彼は速めに足を進めながら、独り言のようにつぶやいた。
「あっ、テントの骨組み、解体してない」
私は立ち止まり、木の棒を組み合わせただけの華奢な骨組みを振り返った。
すると彼も立ち止まった。
彼は背負っていた弓を無言で構え、落ちていた木の棒を拾い上げ、引く。
放たれたいびつな枝は、見事なまでに真っすぐ飛んだ。
カツン、と音がして一本の骨組みが弾き飛ばされたかと思うと、たちまち崩れ落ちた。
すぐに彼は道へ戻り、また歩き始めた。
私は、この堂々とした姿を目指していた。
そのために、旅立つ決心をした。
師匠の技を受け継ぐために。
修行を終えるために。
♯
景色は一向に変わらず、薄暗く湿った森を歩き続けた。
もう十時間ほど歩いているが、小休止の一つもない。
私の我慢も、限界が近づいていた。
「ドラン、休憩まだなの」
「まだだ」
私は前を歩く白髪の初老、ドランからの答えは、初めから期待を寄せてなかった。
ドランの戦いの腕には目を見張るものがあるが、どうも女子供に対する配慮が欠けているらしい。
私は再びうつむき、ひたすら前に蹴りだされる自分のつま先を見続けた。
二人は言葉を交わすことなく、無言で歩き続ける。
相変わらず景色は、深緑と茶色と、木漏れ日の黄緑に視界は包まれていた。
群れを成す怪物が生息する森では、一瞬の気の緩みが命取りになる、とよく言われるが、今の私には周囲を気にかける余裕は無く、心を空にしてただ前を歩くモノを追っているだけに過ぎなかった。
「お、ミーア、草の植生が変わってきたぞ」
長時間の沈黙を破った突然のドランの声。
私は、ミーアという単語を頭の中で連呼しつつ、数秒経って、やっと自分の名前が呼ばれていることに気が付いた。
「さあ」
ドランは、私に言葉を促した。
足元には、丸く可愛らしい葉を持つ草と、小さな白い花が点々としていた。
「…えっと、ニアヤクア草に、カボンの花…だから、近くに川があるかな」
私はドランに目線を送ったが、彼は眉をひそめて頷いた。
「カボンの花とニアヤクア草の、水辺を好む習性は覚えてたんだな、だが一つ重要なのを見落としているぞ」
ドランの言葉が終わる前に気が付いた。
「ニアヤクア草の茎が」
「そうだ、青白い。ということは、この辺りの川には何かが混ざっている、まあ色からして鉱物だな」
「てことは小休止は」
「まだだ」
先程よりも体が重く感じる。
小休止させるつもりは端から無かったのだろう。
「なんだ、もう限界か。人間の女の子と同じように扱ったほうがよかったか」
「そんなこと言わないでよ、まだ歩けるし」
「ならヒュエル族らしく、もっと勇敢になれよ、ミーア。女子だろうと容赦はしんぞ」
「はぁ…何で私の種族だけこんなことを…」
私はわざといじけた口調でつぶやいた。
ヒトとエルフの混血であるヒュエル族には、昔から戦士式の子育てを行うのがしきたりだった。
いじける私の姿を見て、ドランはため息をつき、ただ首を振るだけだった。
「まあ、物は考えようだ。この茎、近くの川を上流にたどれば鉱脈があるサインでもあるぞ、少しは金になるだろう」
「でも、どうせ洞窟には屍鬼種か死霊種が」
「ほぅ、それで、それがどうかしたのか」
ドランは私の顔を覗き込み、こんなもんかと言わんばかりの眼で私を煽った。
人間とエルフ族との間に生まれた、私たちヒュエル族特有の、縦長の瞳孔で、私の姿を炙った。
しかし今日の私には、彼に言い返す気力はなかった。
「…わかった、じゃあ次の川で少し休もう」
ドランはまたも溜め息をつき、再び歩き始めた。
少し進むと、丸みを帯びた石がゴロゴロとした川が現れた。
私は川の目の前で牛革袋と剣帯を置き、腰を下ろした。
ドランのほうは道具袋から、いつもの簡素な浄化器具を漁り始めた。
口の欠けた小さなフラスコを取り出し、それで川の水を汲む。
そのフラスコに左手をかざしながら、銀色の棒で中の水をゆっくりかき混ぜ始めた。
すると、ドランの左手が仄かに白く光り、棒に紫の鉱物か何かが付着した。
しばらく水を回し続け、頃合いを見て、そのフラスコを私に寄越した。
私は手渡された浄化された水を、一気に飲み干した。
少量のぬるい水ではあったが、これだけでも、疲れ切った体に生気を戻すのには十分だった。
ドランは付着した鉱物をナイフで削ぎ落とし、小さな瓶に詰め栓をして、大事そうに保管した。
「お前にこれができるようになるのも、もう三年後か」
精錬、錬金、浄化、狩猟、これらには大きな危険が伴うため、エルフ族の民派ごとに規格を定めた掟があるのだ。
私たちの属する民派では十七歳で大人と認められ、一端のエルフとして扱われるようになる。
そしてその掟のほとんどは主に、私たちのようなヒュエル族を対象としていた。
「もうあと三年か…」
「俺たちヒュエル族は、毒とか、いろんなダメージによる耐性がエルフ族よりも弱いからな、人間よりは大分優れているが、エルフ基準だと十分知識を得てからでないと許されない」
「十分知識を得ても、死んじゃう人はいるんでしょ」
私の言葉に珍しく目を丸くしたドランは、すぐに鼻で笑った。
前にドランから、彼の友人のヒュエル族が家で精錬を行っていた際に、誤って毒ガスを発生させてしまい、死亡したと聞いた覚えがあったのだ。
「まあ…あいつの姿が、エルフのなり損ないの本当の姿なのかもしれんな」
「人間にもなり損なってるしね」
「だが、エルフ側で誓いを立てたんだ。純血のエルフより能力は劣るが、エルフ族の一員として誇ってもいいんだぞ」
「混血のエルフ、か」
他種族、特にエルフ族を何のためらいも無く殺す、残虐な人間。
エルフの栄えた時代はとうに過ぎており、今では人間が世界を埋め尽くす、非常に残酷な時代となった。
わずか数百年で世界の隅へと追いやられたエルフ族。
人間による大量虐殺もあり、その数は激減してしまった。
それでもなおエルフ族は、”魔法”という、今でも人間を滅ぼし得るほど強大な力を持っている。
エルフ族の男と、人間の女の間に生まれる、ヒュエル族。
人間でも、エルフでもないその希少な種族は、どうしてエルフ族があれほどの力を持つにも拘らず、人間に仕返しをしないか、それがどうしてもわからなかった。
特に、まだ大人にならない私にとって、それはただの拷問としか思えなかった。
♯
私は、雪原の小さな村で、人間と、村唯一のエルフ族の間に生まれた。
私が生まれてすぐ人間の母は亡くなり、エルフ族の父親に、戦士式でもエルフ式でもなく、ヒト式の子育てで育てられた。
その村の住人は皆優しく、エルフ族の父と、見た目は人間のヒュエル族の私に親しく接してくれた。
私はそれが、人間という種族の当たり前の姿だと思っていた。
私が七歳になった年に、一人の商人がこの村に迷い込んできた。
彼は助けられたお礼として、他との関わりをあまり持たないこの村に、外の世界について多くの事を教えてくれた。
私にも、何のためらいもなく、多くの文化を教えてくれた。
しかし、私の父を目にした瞬間、彼の態度が変わった。
この村の皆を見下したような態度を取り、武器で脅して私たち村民を使役し始めた。
若い女にはさらにひどい事をしたとも聞いた覚えがある。
私にとって、これは恐怖でしかなかった。
初めての外の世界からの人間。
外の世界には、こんな怪物のような人が、他にもいるのだろうか。
ひどい生活がしばらく続き、遂にしびれを切らした村長が、私の父に、彼を追い出すよう頼んだ。
それは、最悪の場合の手段だった。
頼まれた時の父の顔は、悲壮な顔であった。
父は近くの雪山に行き、数日で帰ってきた。
大きな怪物に跨りながら。
私は初めて、エルフ族の本当の姿を知った。
恐怖ではなかった。
むしろ、そのエルフの戦士の姿に安心感を覚えた。
父は、乱暴をする商人と、その姿で再び対面した。
商人は怪物に跨った父の姿を見て、一言も残さず、ひどく慌てて村から飛び出していった。
村民たちは父に感謝した。
同時に、私の中から恐怖が拭い去られ、父という安心できる存在に守られ、心を安らげることができた。
しかし父の顔は、なんだか寂しそうであった。
それから二年が経った。
私が九歳になり、古い伝承も暗唱できるようになり、やっと村の歯車として活動できるようになった頃だ。
全身を鉄の板で身を包んだ人間が、馬に乗って、それも何十人もやって来たのだ。
彼らは、自らを、帝都のエルフ掃討隊と呼んでいた。
その名前から村の皆が察した。
村長は、民全員に、私の父の事を隠すように言った。
私たちはごまかした。
しかし、彼らは帰ろうとしなかった。
そして遂に、村長一家を人質にとって、村民一人一人に、エルフはどこだと尋ね始めた。
私はその拷問を、エルフの父と一緒に隠れて見ていた。
村長は私たち二人に、決して出てきてはいけない、出てきたらみんな殺される、そう言っていた。
その時の父の顔は涙で濡れ、手が震えていた。
突然隠れ家の扉が豪快に破壊され、私と父は、鉄の男の一人に見つかった。
父は私を蹴り飛ばし、私の姿を陰へ隠した。
鉄の男は、父に首輪と手錠をかけ、村の真ん中へと、ひどく乱暴に引き摺って行った。
私の姿は見つかっていなかった。
動けなかった。
泣きたかった、しかし声も出なかった、あまりの恐ろしさに。
私の目線の先では、虐殺が既に始まっていたのだ。
人間が人間を、赤黒く光る鉄の刃で、切り裂いていた。
悲鳴と、怒声と、奇声。
変わり果てた、聞き覚えのある声。
それらは雪の降り始めた空に、響く事無く消えていった。
虐殺が終わって、父は連れて行かれた。
父は最後に、大声で、山の彼方に叫んだ。
「エル、セテュラムス、ヴェヌエット」
父のよく口にしていた古代エルフ語の言葉だ。
「娘よ、ヴェヌエットの民を愛せ」
村は炎に包まれて成す術を無くした私は、泣きじゃくりながらその場から逃げ出した。
道もない、明かりもない、闇の吹雪の世界に、独り放り出されたのだった。
この時だ。
私の中に、人間に対する憎悪が、"最も人間らしく"生まれたのだ。
♯
「…どうしたミーア、またか」
気が付くと、私の目の前にドランが座っていた。
川辺の景色は少し暗くなっていた。
私は視線を落としたまま頷いた。
「確かにお前の過去は恐怖でしかない」
ドランは私の顔を覗き込み、続けた。
「だが、危険な場所でそんな無防備に物思いに耽るのはだめだ。できるなら、過去は断ち切ったほうがいい」
「うん」
私はわずかに震える手を押さえ、空を見上げた。
藍色に染まり始めている空には、ちらちらと星が見える。
今日はここで野宿だろう。
「お前の父親の故郷まではもうひと頑張りだ。で、俺らの集落に戻る頃には、お前は立派な戦士だ。もちろん、戦士として従事するもよし、自由に旅をするもよし、俺みたいに他のヒュエルを導くもよし」
私は、ドランの萎れた声にたびたび頷いた。
あの日虫の息だった幼い私は、ドランに拾われて、彼の故郷である、エルフ族レヴィンの民の集落に保護された。
そこで私は、ヒュエル族ならそれらしく生きろ、と、ひたすら戦闘を叩き込まれた。
生き抜く知恵を、生き物すべての知識を叩き込まれた。
そして、保護期が終わって私は十三歳になった。
修学期、外の世界を旅することができる年齢になったのだ。
私は、まだ見ぬ父の一族、エルフ族ヴェヌエットの民に会うべく、そして晴れてヒュエルとして独立すべく、旅に出る事に決めた。
人間からすればまだ子供の私、危険が多いと言ってドランも同伴する事になったのだが。
道のりは長い。
今でも投げ出してしまいそうな位だ。
しかし今は目標がある。
目の前で火に薪をくべている彼、ドランの姿を追うのだ。
彼のように立派な戦士になる。
その思いが、私の心を自然と奮い立たせているのだった。
♯
久々の星空だった。
前の町はちょうど雨季だったようで、常に雲が覆い被さっていた。
町を出て二日間の密林横断の間も、まともに空の様子を見ることもなかった。
焚き火はすっかり小さくなっており、辺りをほんのり黄色く照らしていた。
ここ最近、随分と平和な日々が続いている。
怪物や蟲に襲われることもなければ、盗賊とたちと睨み合う事もない。
数年前の私なら、只のつまらぬ苦行、などといかにもな捨て台詞を吐き捨てていただろう。
この平穏の大切さに気づいたのもまだ最近の話であった。
しかし私には、一つの不安があった。
「ドラン、明日さ、例の鉱脈に行ってみようよ」
「そろそろ剣術も鈍って来る頃だろうしな、じゃあ明日の早朝にするか」
「うん」
屍鬼の活動が比較的穏やかなこの時間を攻めていけば、死霊との混戦になった場合でも融通が利くだろう。
「そうとなれば、早く寝るぞ。イアゲルの葉、撒いておけよ」
ドランは道具入れの革ポーチの上に頭を預け、そのまま目を閉じた。
私もそれに続いて、葉を潰して消臭してから仰向けになった。
手足の指先まで力が抜けていくのを感じながら、満天の星空を見つめた。
月明かりに照らされた夜行性の鳥たちが、忙しなく飛び回っている。
木の上でね寝ている小動物の捕食に忙しいのだ。
私は、川のせせらぎに心癒されながら、そのまま眠りに就いた。