辺境伯家嫡男 フレイズ 2
辺境伯領で隊長が空を見上げていた頃。
はるかグランド魔法学園で、ヴィクトリアは騎士見習いであるアルバンを伴って廊下を急いでいた。男子生徒がケンカをしていると報せがあったからだ。
片方は貴族の生徒だというのだから始末が悪い。男爵位であることが唯一の救いだ。
ホールの真ん中でふたりの生徒が取っ組み合いを始めたのが遠くに見えた。
「まずい」
からこの場は見逃してくれ、という幻聴を聞きながら、ヴィクトリアはアルバンが走っていくのを黙って見届ける。いずれにせよ女子生徒が男子生徒のケンカの仲裁に入るわけにはいかない。
廊下をぐんぐん走るアルバンはあっという間に現場にたどり着くと、騎士らしい見事な体捌きでふたりの間を割って入り、あっという間に腕を振り回して暴れる男爵位の生徒を取り押さえ、遠巻きにしていた生徒たちに指示してもう片方の生徒も取り押さえさせる。もっとも、商人の息子らしい相手の方は幾分落ち着いている。
「この場は生徒会が取り仕切ります。全員、勝手に動かないように」
ようやく追いついたヴィクトリアが縦ロールの赤髪を揺らして言い放つと、彼が真っ先に従った。
「このふたり以外に経緯を説明できる者は?」
何人かの手が上がる。
それ以外の者を開放して――と頭の中で算段を立て、ヴィクトリアは内心でため息をついた。
この学園は本当に休まる暇がない。
◇
ほとんど生徒会役員の私室となっている生徒会室で、マーチェリッカはお下げを揺らして目を見開いていた。
バルアトスが円卓に広げて見せた豪奢なワンピースドレスに驚いたのだ。
オフショルダーにハートカットスウィープという、肩を見せつつ胸の谷間も見せつけるトップ。
ボトムは、ふんだんにティアードフリルがあしらわれたロング丈のスカート。
おしゃれと言えば今も胸元で揺れるペンダントくらいしかない地味なマーチェリッカの対極のような、派手派手しく、キラキラしい、真っ赤なドレスだ。
「どうだ? 美しいだろう?」
「ええ……」
呆れて声がないのを感動のあまり声が出ないと勘違いしたらしいバルアトスが満面の笑みを浮かべる。
どう考えてもこのドレスが似合うのはマーチェリッカではなくヴィクトリアのほうだ。それをバルアトスはわかっていないらしい。確かに素材もマーチェリッカのわかる範囲で良いものを使っているし、デザインもオーソドックスながらデザイナーのセンスが散りばめられている。
しかしこれは明らかに「俺の婚約者にふさわしいものを」とオーダーした結果、ヴィクトリアに似合うデザインで仕上げられたものだ。よく見れば丈を詰めたあともある。
「あの、これを私に……?」
嘘だろ、と思いながらおそるおそる問いかける。
「もちろんだとも」
バルアトスは即答した。
マーチェリッカは心で泣いた。
大変だったろうな、と担当したデザイナーとお針子に同情した。
クライアントがとんちんかんだとベンダーは苦労するのだ。ましてワーテルロー家に出入りしているデザイナーならば一流どころだろう。きっとコンセプトと違う人間に着られることを悔やんでいるに違いない。ドレスの仕事ぶりからありありとそれが伝わってくる。
たぶんヴィクトリアならば怒髪天を衝く勢いで怒るだろう。彼女は家柄だとか役割だとかをとても大切にする。こういう半端は許すまい。
その怒りを想像しただけで鳥肌が立つ。
「えと、ヴィクトリア様には……?」
「あんな女のことなど気にするな」
テメェの許嫁だろうが、と喉まで出かかったがなんとか堪えた。そんなはしたない言葉遣い、ばれたらヴィクトリアに怒られる。
どう言ったものだろうかと考えあぐねているうちに扉が開いた。アルバンが帰ってきたのだ。
「早かったな」
わざとらしい不機嫌さを声に乗せてバルアトスが迎えた。
「ゼクセン先生を目標にしているぼくとしてはもう少し頑張りたかったけどね。ただのケンカだし、後始末はフォロビッツに任せてきたよ。なるべく仕事を与えておいたほうがいいだろ?」
アルバンがさも「気が利くだろ?」という風に言えば、バルアトスも「ふん」と息巻いた。
ヴィクトリアは今のところマーチェリッカいじめの犯人の最有力候補だ。四六時中監視するわけにもいかないし、余計なことをさせないようにという考えなのだろう。
マーチェリッカ自身はヴィクトリアをまったく疑っていなくても、周りがそうは考えない。男爵位の娘と侯爵位の娘では男爵位のほうが遠慮するのも無理はないと周りに思われてしまうと、口ではどうしようもない。
これも早くなんとかしないといけない。
「これ、バルアトスが?」
「そうだ」
「さすがだなあ。うちじゃ、これほどのものをあっさり用意するのは難しいよ」
とはいえ、緊急でなんとかしなければならない案件はこのドレスだ。でなければ――
「でも、確かにこれを着たマーチェリッカは綺麗だろうなあ。ますます楽しみになるよ、舞踏祭」
この全然似合わないドレスでせっかくのダンスを踊ることになってしまう。
◇
ようやく雑務から解放されたヴィクトリアは校舎と校舎をつなぐ外廊下をひとりで歩いていた。
真っ直ぐ伸びた背筋が糸で吊るしたようにすっと進んでいく様子は、それだけで周りをうっとりとさせる。舞踏祭が近づき地に足つかない雰囲気の中でも、眉目秀麗な横顔は男女問わず注目の的だ。
それは《悪役令嬢》と呼ばれようともヴィクトリアが美しいからであり、また、ひとりでいるからでもあった。
グランド魔法学園は名前のとおり魔法を始めとした各種学問を修める場であり、同時に将来の礎となる人脈をつなぐ社交の場でもある。人付き合いはあって当然――という建前はもちろん、実際的には召し使いがいて当然である貴族の子女が自分ひとりで生活を送れるはずがなく、ほとんどの生徒は従者なり友誼を結んだ平民なりを連れている。
女子生徒ともなれば早いうちから派閥争いのため、学問もそこそこに人脈作りに勤しむという生徒も少なくない。
その中にあって、規律に厳しいことで有名でそもそも友人が少ない上での《悪役令嬢》呼ばわりだ。ヴィクトリアと積極的に一緒に過ごそうとする女子生徒などそうそうおらず、それでもなお平気でひとり学び舎を過ごす侯爵家令嬢は、端的に表現すれば村八分の状態だった。
とはいえ友人がまったくいないわけではない。
ささやきのような小さな声がヴィクトリアの足を止めた。
「ごきげんよう、ヴィクター」
「ごきげんよう、ユーリス」
たとえば目の前の儚げな女子生徒などは一番の親友と言ってもいいだろう。
ボブカットに揃えた薄青い髪が青のボレロジャケットとよく似合っている少女だ。ヴィクトリアの2歳下とは思えないほど未熟な小さい身体でありながら、不思議なことに、ほとんど正反対の体型のヴィクトリアと同じ制服を着こなしている。手首のリストバンドは緑地に赤い縁、そして真ん中は白の帯。
ユーミルエリス・オーランド。
となりで廊下にもかかわらず、腕で抱えるほどの大きさの四角い器に山盛りになったアイスを食べているフレイズ・オーランドの妹だった。
「場をわきまえなさい」
フレイズの向き直ってピシャリと言い放つ。
「ごきげんよう、ヴィクター。きみも食う?」
「ごきげんよう、オーランドくん。結構よ。それから愛称で呼ばないで」
放課後にひっそり会っている時ならともかく、ここは人目もあり、自然と口調が厳しくなる。魔法騎士として尊敬しているものの、上に立つ者としてはむしろ軽蔑してさえいる。
それくらいにフレイズの素行は悪い。
「あなた方も、主が不良を働いたら止めなさい」
ヴィクトリアの叱責は、兄妹の後ろに気配を隠して控える男女にも及んだ。
黒髪黒瞳という西方風の顔つきをしたふたりの首には、盾の意匠のチャームが揺れる緑地赤縁のチョーカーが締まっていた。リストバンドを着けられない平民は仕える貴族の色のチョーカーを着けることになっているのだ。盾のチャームは護衛も兼任しているという目印だ。
「はい、ご助言感謝します」
いささか唐突な追及にもかかわらず男のほうが短く答えた。
「彼らの肩を持つわけじゃないけれど」
まだ勘気の収まらないヴィクトリアを取りなすようにユーミルエリスが言った。
「これでも抑えたほう。私がアイスを作らなければ街まで買いに走ってた」
ユーミルエリスが言う「走ってた」はまず間違いなく、窓から飛び立つ、屋根の上を跳びはねるくらいのことはする、という意味だろう。その光景がまざまざと見えた。なにより実際、留学初期の頃にそうしている。
たぶん、ここで4人そろっているのもそれをさせないためなのだ。
「……ともかく、学園では、いえ学園に限らずマナーを守りなさい」
「はーい」
いつの間にか空になった器を従者に預けながらのんびりとフレイズは答えた。
「それにしても、めずらしい。この時間にここを通るなんて」
まるでヴィクトリアを避けるためにここにいたような言い方だ。
おそらく、そうだろう。ヴィクトリアにとっても予定外のことだったのだから。
「ケンカの仲裁がありましたの」
「へえ、リストバンド?」
「口さがない言い方をしないで」
アルバンもそうだが、騎士あるいは騎士候補生というのはどうしてこんなに血気盛んなのか。
頼むから大人しくしていてほしいと思いつつ、無理だろうなという諦念があった。
次は体育の時間だ――。
今回のパートは今後のヴィクトリア像に係わる伏線めいた一文があります。
さて、それはなんでしょう?