侯爵家令嬢 ヴィクトリア 2
放課後の運動場は閑散としていた。時おり使い走りにされている平民の生徒が走っているくらいで、見渡す限り土が広がっている。その片隅、学舎の陰になって芝生がぽつぽつと生えた場所に、体操着に着替えたヴィクトリアが両手両膝を地面につけた状態でうなだれていた。
どうして私はあんな言い方しかできないのかしら。
――などと思うような可愛げがヴィクトリアにあれば、バルアトスもああまでは言わない。
ヴィクトリアが四つん這いになっているのは、地面に手をつくことが彼女の魔法の発動に必要だからだ。
うなだれているのは魔法の成果が貧しいからだ。
ヴィクトリアは気を取り直してもう一度魔法を発動する。
呪文の詠唱も魔力が迸る発光もなく、手をついた場所から2歩ほど離れたところの土がただただうねうねと沈降する。手のひらほどの大きさの穴が、指の第一関節ほどの深さでできあがった。
魔法に見識のある人間がこの場にいれば、不自然に魔力を滞留させた穴が他にもまばらに開いているのに気づいただろう。そうでない人間ならば、不揃いの地面に眉をひそめるかもしれない。そのていどの深さの穴がいくつかできていた。
この、スコップがあれば5秒で作れそうな穴が、ヴィクトリアの最も得意とする魔法だった。
ヴィクトリアは起き上がると、白い帯の入った赤いリストバンドで汗をぬぐった。魔法を行使すると動いていなくても走るのと同じくらい疲れる。
その成果が凸凹の地面だ。あまりの結果に泣きそうになる。
ヴィクトリアは生徒会の副会長であり、土属性の魔法使い――の見習いでもある。ご覧のとおり、魔法使いを示すリストバンドの白い帯が泣くのではないかと思うほど出来がよくないので、こうして自主練に励んでいる。放課後に帰らず残っているもう半分の理由だ。
惨憺たる結果の地面にため息をつき、ヴィクトリアはリストバンドに刺繍されたフォロビッツ侯爵家の徽章を見た。
モチーフである4枚羽の大鴉はフォロビッツにしか認められていない。それは取りも直さずフォロビッツがこの国にとって重要な家柄であるということを示唆していた。
ヴィクトリアもその一員である以上、半端は許されない。
生徒会を辞めて魔法に集中したいというのが本音だ。同時にそれが叶わないことも理解していた。
ヴィクトリアはフォロビッツ侯爵家の一員なのだ。侯爵家の人間は常に上に立たねばならない。
その葛藤を、なにかの着地する音が中断した。左から聞こえた音のほうへ顔を向ける。
青い髪で目が隠れた男子生徒がいた。
「げ」
下品なうめき声を上げたのはヴィクトリアを上回る上背にバルアトスよりは細身の男子生徒――フレイズ・オーランドだった。紙束を小脇に抱えているところを見るに教師から用事を言いつかったのだろう。放課後、助手のようなことをしている生徒は多い。
それがなぜこんな運動場の片隅に唐突に現れたのか。ヴィクトリアとしては非常に不本意極まることながら、理由を知っていた。
「何度も言いますが。バカなのですか、あなたは」
だからかける声が、生徒会の面々に向けたものよりはるかに刺々しいものになるのは仕方がないのだ。
困ったように顔をかくフレイズが両手に着けるリストバンドは色で言えば緑だった。ただし両縁は赤い帯になっている。これはこの国で唯一の辺境伯家を示す。さらに真ん中には黒と白のチェック柄の帯が走っていた。これは魔法使いもしくはその見習いであると同時に騎士あるいは騎士候補生であることを示す。
在学生の中はもちろん、学園の歴史の上でももっとも派手なリストバンドだった。
すなわちフレイズにのしかかる責任は歴代でもっとも重いとも言える。
辺境伯というだけでも上に立つものとしての品位品格が求められるのに――辺境伯は侯爵とほぼ同じ階級だ――その上、魔法騎士――魔法使いとしての素養も併せ持つ騎士――でもあるとなれば、フレイズはヴィクトリア以上に規範としての振る舞いを求められる。
そうだというのにこの男は……!
「何度も言うけど近道なんだよ」
「窓から飛び降りれば近いのは当たり前です」
もはや貴族らしさなど求めない。
せめて人間らしく階段を使ってほしい。
ヴィクトリアは諦念の境地に至っていた。しかしそれを表に出すことはない。
その上でなお諦めたことを投げ出さないところにヴィクトリアの美点があった。
「貴族にあるまじき行ないは慎んでくださいまし」
だから「人間に」とは言わないのだ。
「善処する」
フレイズのお定まりの返事。それにため息をつくまでがもはや様式美を以って習慣化していた。
ここからは日によって変わる。今日のフレイズはさらに別の様式美を重ねてきた。
「ヴィクターはいつもの特訓?」
「これも何度も言いますけれど」
もちろんヴィクトリアの返事もいつもと同じだ。
「あなたに愛称で呼ばれる筋合いはありません、オーランドくん」
オーランドのところにアクセントを付ける。
同性同士は概ね名前で、異性同士は必ず家名で呼ぶのが習わしだ。愛称で呼ぶなどもっての外。それは家族であるかそれに準じた付き合いがある場合だけの例外なのだから。
「おれは気にしない」
「わたくしに気を遣ってくださいまし」
ヴィクトリアは婚約者のある身なのだ。正直に言ってこの密会めいた状況もよろしくない。
それを気にかけるデリカシーをフレイズが持っているわけもなく、まじまじとヴィクトリアが作り上げた凸凹の地面を見つめていた。
「腕上げたね」
指の一振りで地面を元の平坦に戻しながらフレイズがぽつりと褒めた。
はしたなくも前のめりに喜びそうになる気持ちを抑え、なんとか澄まし顔のままでヴィクトリアは言った。
「ありがとうございます」
褒められるのは素直に嬉しい。まして相手は魔法騎士だ。
「でも気負いすぎ」
さらに助言もくれるとなれば、ヴィクトリアのフレイズに対する評価は意外と高い。
だからこそ苦言を呈しているのだ、というのは伝わっているだろうか。
「もっと魔法を使う自分を意識しないと」
それだけ言うとフレイズは運動場とは反対方向へ駆けていった。もちろんそちらに道などあるはずもない。軽々と垣根を越えてどこかへ行ってしまった。
「舌の根も乾かないうちに……!」
まんまと見送ってしまったことに気づいたヴィクトリアはため息をついて意識を切り替えた。
シャワーを浴びたらもう帰ろうと思っていたのに思わぬ助言をもらってしまった。地面も戻してもらったとあっては、まだ続けるしかないだろう。
微笑を浮かべてヴィクトリアはひざまずいた。
ヴィクトリアの美点は諦めていても投げ出さないところにある。