270 第1章 コーヨデル・レブルミゼット
シュナイデル城 中庭 『コヨミ』
シュナイデル城の中庭は、数時間前の忙しさとは打って変わって静寂につつまれていた。
コヨミは今は、中庭にいる。
暗闇に沈む中庭の、目立つ桜の木の下でその時を待っていた。
周囲にいるのは、グラッソとエアロと、あとは未利だ。
他の兵士は離れた所で警戒にあたっている。
姫乃や啓区、なあやユミン達なら星詠台にいるだろう。
イフィールや他の兵士達は城内に留まっている。
夜の冷たい空気がわずかにそよぐ風から感じられる。
風にゆられた木の葉の音と、そして水の流れる音が風に合わせて時折変化するのが分かる。
視線を地面に向ければ、そこには水路が張り巡らされていた。
本格的なものではなくて、地面を浅く掘って作った簡易的なものだ。
常と変わった様相を見せる中庭は、桜の木を中心にして、大規模な魔法陣が描かれていた。
水路からは淡い光が発せられている。
わずかながら魔力が通っている為だ。
しかし、足元を照らす光は淡く幻想的で、こんな場面で無ければ見とれる様な景色を築きあげていたが、夜の闇をかき消すほどではなかった。
相変わらず、中庭は濃い暗闇に包まれている。
コヨミが立っている場所からは見えないが、周囲にはかなりの数の兵士達が散らばっているはずだ。
なぜかというと、それはこの景色を見ていれば分かる事で、不用意にこちらに近づいて魔法陣を壊さないために、近づけないからだ。
だから、統治領主である自分を守る戦力は最低限の人数しか傍にはおけない。
その人選がグラッソとエアロなのだ。
「……」
無言で二人を交互に見つめる。
グラッソはいつも通りに、エアロはほんの少し緊張しているようだった。
今ここで、コヨミが外にいる者達を読んでも、すぐにはこられない。
何かがあっても、ここにいる者達で対処しなければならないだろう。
遠くを見通せない夜の闇の中、いるはずの多くの物達の姿が見えないというのは、不安にさせるには十分な事実だ。
だが……。
己の心の内を蝕もうとしていた、臆病な感情を鎮める。
不安の感情を諫める。
代わりに、虚勢を呼び込み。
信頼と自信を高めて、前を見据える。
多くの人達が、自分達の一挙一動に注目している。
コヨミの不安は彼等の不安となり、コヨミの臆病は彼等の臆病となってしまうだろう。
だから、人の上に立つ者として、正々堂々とあらねばならない。
昔の自分であれば、どうだったか分からない。
けれど、今なら大丈夫だ。
信じられる人が、仲間が傍についている。
前を進んでいくための目的を、指針を得ているのだから。
あとはただ、自分の心のままに頑張るだけでいい。
見上げれば、ほんのりと柔らかな月が、ただよう雲間から時折り顔をのぞかせている。
今にも消えてしまいそうな小さな星の光が瞬いていた。
手が届かないほどに果てにある光。
距離が開きすぎるがゆえに、彼等の命の輝きは過去の姿でしか確かめる事ができない。
人には分からないけれど、光には速度があるから。
真実を知ってしまえば頼りなく思えてしまうだろう。
知識を持ってしまえば、神秘性は損なわれるかもしれない。
けれどそれは、時間を超えた過去からの繋がり。
遥かな空間を飛び越えて来た、彼方からの繋がりだ。
「遠くの誰かと手を繋げ」と、「世界を広げて見せろ」と、「可能性を繋げ」。
そう言ってくれている声だ。
自分達にもきっと同じ事ができるはず。
「……来たわね」
今までの静寂を破る様に、城にある鐘の音が鳴り響く。
それは合図だ。
害意がこちらに向かって来る合図。
始まるのだ。
コヨミの、姫乃達の、兵士達の、この町の人達の、皆の明日を掴むための戦いが。
――コーヨデル・レブルミゼットは、統治領主から一番遠くにあるはずの少女だった。
「今日もお城はおっきいわ。あのお城っていつからあんななのかしら。ねぇ、お母さん。そもそもお城ってどうやって大きくなるの?」
「うふふ、コヨミったら。面白い事を言うわね。お城は大きくなるものじゃなくて作るものよ」
幼い頃から、統治領主の事や城の事は知っていた。
統治領主は多くの人を導いていく存在で、城はそういう立場の人がすむ場所。
それくらいの事は知っていた。
けれど、知っているだけで自分に縁のある話だとは考えなかった。
それらは雲の上の出来事としてしか考えられなかったのだ。
だからコヨミ自身が、まさか自分が統治領主になるとは思いもしていなかった。
自分がやがて母と離れ、シュナイデル城の中で何百人・何千人……それ以上の人の命に係わる仕事をする事になるとは微塵も、まったく。
そう思うは何らおかしい事ではなかった。
そもそも、子供の頃のコヨミは、周囲にいた普通の子供よりも臆病で人見知りだったからだ。
「う、あ、あの……。一緒に」
「コヨミ、もっと大きな声で自信を持って話しかけないと気付いてくれないわよ」
「で、でも。おかあさ……うぇっ、ぐすっ……」
「まったくもう、泣き虫さんね」
それでも、大人数の集団の子供達の中には、面倒見の良い子供が一人は必ずいたので、同年代の子供達と遊ぶこと自体は、それなりにあった。
けれど、生来の臆病な性格は、一度や二度の交流では何とかならなかったらしく。
コヨミは人の輪から外れて、一人でいる事が多くなった。
ある日、そうしているコヨミを不憫に思ったのか、母が「貴方の幼なじみになる子よ」と言ってグラッソという男の子を紹介した。
彼の事は初対面の時に、結構怖がってしまった記憶がある。
最初の思い出はあまり良い物ではない。
なぜなら、同年代の子達よりも体が大きくて、凄くたくましくて、びっくりしたから。
だから、その時のコヨミは、母の後ろに隠れるようにして、大柄なその男の子に挨拶をしたのだ。
「……コヨミです」
小さく呟くようにしていった自己紹介は、果たして彼に届いていたのだろうか。
「グラッソだ」
その時の彼は、小さく頷いて自分の名前を一言呟いただけだったからだ。
けれど、見た目と印象に反してグラッソは優しかった。
とても無口で愛想なんて無いに等しかったけれど、コヨミが遊んでと言うといつでも付き合ってくれて、どこかに行くときもいつも一緒についてきてくれた。
「グラッソ、一緒に遊ぼう。お砂でお城を作るのよ、どっちがより大きくて立派なのを作れるか競争なんだから」
「分かった。でも俺が勝つ」
勝負はいつも全力だった。
彼にとって男女がどうとか年がどうとかいう区別は存在しなかったし、手加減などというものも一切なかった。
いつも少しは譲ればいいのにと思ったのだが、グラッソは意外と負けず嫌いなのだ。
今の彼を知っている人達からは、きっと想像がつかないだろうけれど、グラッソは子供の頃はそれなりに喋っていて、自分の考えも口に出していた。
「えへへ、私の勝ち! グラッソはお空から飛んできた鳥が壊しちゃったから負けよ」
「違う。俺の勝ちだった」
「私の勝ち、運も実力の内よ!」
「違う、俺の勝ち!」
「私の勝ちよ!」
負けると憮然とした顔になって怒り出すから、ちょっと怖いところもあったりしたが。
それでも二人でいる時はいつも楽しかった。
その時のコヨミは、そんな日々がいつまでも続くと信じて疑わなかった。
けれど、ある日、そんな自分に最初の転機が訪れた。
先代統治領主であるシトレ様に出会った時の事だ。
それは夜の星の綺麗な日の事だった。
シトレ様が家を訪ねて来て、母と話をしていた。
時刻は夜中近くで、とっくに寝る時間になっていたのだが、私は興味があったので、部屋の扉の隙間から眺めたり、耳を澄ませていた。
その時からかなりの年齢になるが、シトレ様は立派な人だった。
統治領主となって長年、仕事をこなしているが、いつでも領民の事を考えていて、凛とした空気を纏っていた。
けれど、ときどき優しい顔を見せる人でもあった。
のぞき見がばれて叱られたコヨミにも、優しく声をかけてくれて、面白い星の事をたくさん教えてくれた。
初めて会ったにもかかわらず、シトレ様はすごく気さくな人だった。
「あら、可愛い御嬢さんね。こんばんわ。私の名前はシトレよ。貴方のお名前は?」
「コヨミです」
「暦? あらあら難しそうな名前ね。レフリーが……お母さんがつけたの?」
「ううん、お父さんがつけたって」
「あらまあ、やっぱりね」
何がやっぱりで、あらまあなのかは分からなったが、シトレ様は父と母の二人と面識があるようだった。
「シトレ様は、お父さんの事知ってるんですか?」
「あなたのお父さんはそれはそれは立派なお方だったわよ」
「じゃあ、友達だったんですか?」
「ええ、かけがえのない友人だったわ」
けれど、詳しく父の事を聞こうと話しかけたシトレ様の顔が寂しそうに見えたから、私はそれ以上の事は聞けなかった。
それからシトレ様はよく家に来るようになった。
その度に、この地方に伝わる星の物語や伝承、言い伝え。人々が星にこめた思いや願いを色々と教えてくれたから、私はシトレ様とよく話をした。
訪問が続けば星に興味が湧いてくるようになって、それから自分でも色々と調べるようになっていたのだ。
「あの星が、明るい星で……あれが、動いたらこっちに来るの。分かる? グラッソ」
「分からない。つまらない」
「えー、ちゃんと聞いてよ」
「だったら、面白く」
「そのままでも面白いったら」
だから、家の屋根に上ってグラッソと覚えたての星の話をするのが、楽しくてたまらなかった。
そんな日々を毎日続けたものだから、結果は知れているだろう。
コヨミは星に詳しくなった。
天文学や、伝承などにも、それなりに理解が及ぶようになった。
星好きが高じて、天文学の専門書に手を伸ばすころには、専門的な知識も大分身につけていた。
星の巡りで人の運命を占う方法や星の周期を予測してみたりもやるようになった。
名前のない星を、一つ二つ発見した時に自分で名前を付けたりもしていたのだから、母も驚くほどだったらしい。
けれど、そんな小さな趣味が、趣味の範疇で収まらなくなった時に、シトレ様の後を継ぐ事になった。
他の候補を押しのけて、なぜかこの自分が。