224 第26章 ブラックボックス
真実の塔 内部 『未利』
体にまとわりつくような、不快感そのものが形になったような、そんな沼の様な闇の中を移動していく。
逃げる。逃げていく。逃げるのだ。逃げないと。
少しでも遠くへ。あいつから逃げないと。
未利は暗い建物の中を必死な思いで、駆け回っていた。
いつからここにいたのか、分からない。
目が覚めたら、ここに倒れていた。
暗い闇の中。どこかの建物の中に。
記憶にあるのは、後夜祭会場で起こった出来事だけだ。
最後に白金とかいう奴等が暴れ出して……。
それで、それからの記憶はない。
気が付いたらここだ。
どこにあるか分からない建物の中に倒れていて、そして奴に追いかけられていると言うこの状況。
「あはは、どこに行くつもりなんだい」
「……っ」
声がして、背筋が冷たくなる。
奴がいる。
後ろにいる。
近くに来ている。
もう、すぐそこに。
その事実に動かしている足がもつれそうになる。
捕まってはならない。
ここで奴に捕まってしまっては取り返しのつかないことになってしまう。
逃げなければ。何としてもここから逃げなければならない。
訳が分からないまま、そんな強迫観念に突き動かされてこの逃避行は始まって、今に至るまでずっと続いている。
だけど、逃げてその後は……。
その後はどうすればいい。
助けを求める? 誰に?
皆はどこにいる?
どうなった?
「皆は……」
死んだ?
違う。
そんなはずがない。
でも、誰かが死んだ気がする。
眼の前で、誰かに殺された気がする。
それは本当なのだろうか。
嘘だ。ありえない。
「何なの、もう一体どうなってんの……」
泣きたい。泣きそうになる。けど、泣いたって何も変わらない。視界が悪くなるだけだ。何も良い事なんてない。誰も望んでない。自分だって望んでない。
「逃げるつもりかい。友人から逃げるなんてひどいじゃないか」
砂粒……。
アタシは、アンタなんかを友人だなんて思ってない。
「いくら逃げたって、真実の塔に出口なんてないよ。塔は今、塞がってるからね」
真実の塔?
自分はどうやら今、塔の中にいるらしい。
それはどこだ。
どこの建物の中なんだ。
考えていると、何かを踏んづけた。
それは手だ。動き回る手。
暗闇の中。何かを探す様に動き回る手があって、自らを踏みつけた物を捕まえようと手を伸ばしてきた。
「――――!」
思わず開いた口から悲鳴が漏れかける。
走った。走って逃げる、それしかない。というか出来ない。
なんだ、あれは。まるで化け物だ。異形じゃないか。なんであんなものがあるんだ。どうして自分はそんな所にいるんだ。分からない。分からない。何も思い出せない。あれから何があった。
「……だ、誰か……いないの……っ!」
叫ぶ。呼びかける。けれど返答はない。自分たち以外の誰かの気配もしない。
誰も来ない。いや来るものはあった。手だ。叫びを聞きつけてどこからかやってきた手が、そこらへんに落ちていた手が、壁や床に引っ付いていた手がこちらに襲いかかろうとする。
「……っ!」
捕まるわけにはいかない捕まるわけにはいかない捕まるわけにはいかない。
視野が狭くなる。思考がおぼつかなくなる。泥沼にはまっていくようなのが分かるようだったが、何ともできない。
冷たい何かに足を掴まれる。腕を掴まれる。髪の毛を掴まれる。首を掴まれて苦しくなった。奴等は掴むだけで飽き足らず、こちらを後ろに引っ張ろうとする。
後ろは駄目だ。引きずり込まれる。無数の手が、蠢く闇が、振り返らずともそこにあると分からる闇が涎をたらしながら生贄を求めている。捕まったら、終わりだ。きっと終わって、そして死んでしまう。
「相変わらず往生際が悪いなぁ」
砂粒の声は聞かない。そんな余裕ないし、理解している暇もないからだ。
がんじがらめにされたまま、前に進んでいくしかない。
伸ばした手。指の先に、扉があった。
それを力を振り絞って押す。
ここから出なけれな。
出さえすれば、何か変わるはず。
そう、思って力を使う。
そういえば、前にも似た事があった。
あれは屋敷に捕らわれた時で、あの時はもう駄目かと思って……でも、仲間達が助けに来てくれたから。
「――――」
精一杯に押して扉は開いた。
そこは部屋だ。
星屑の浮かぶ宇宙の様な部屋。
気づけば、自分を掴んでいた手が消失していた。
腐るほど溢れていた手の全てが。あっけなさすぎて逆に不気味だ。
それでも出入り口にいるのが怖くなって、部屋の内部へ駆け込む。また掴まれたらたまらない。
ひょっとしたらこちらの油断をさそっているのかも。
中央には、一つの台座があってそこには黒い箱が置かれていた。
「……?」
それが何なのか分からず、戸惑う。
けれど、嫌な感じがした。
それは決して開けてはならないものなのだと、本能が強く訴えかけていた。
一体なんなのか。
「あっ」
扱いに困っていると、やってきた砂粒がその黒い箱を手にして持ちあげた。
「ご苦労様。やっぱり、この世界の主はむやみに傷つけられないような理になっているんだね。君が適当に走っていくのに合わせてついていくのは楽だったよ」
「――っ!」
騙された。未利は砂粒に追いかけられていたわけではなかったのだ。囮にされていた。
「どこかしら重要な場所に辿り着いてくれるとは思っていたけど、一発で当たりを引いてくれるなんてね。潜在意識の君だったらここまでうまくいかなかった。顕在意識を引っ張ってきたかいがあった。知ってるかい。こういう世界は、無意識の自分が回していっているんだけど。顕在意識……つまり現実の意識が活動できるようには作られてないんだ。だってさ、それって自分の本音から真向に向き合うって事なんだからね。当然なんだよ。誰もが皆、心にフィルターをかけて生きている。自分の見たくない事、知りたくない事に蓋をして、本音を押し込めて。そんな無意識の世界に、現実の意識を引っ張って来るなんてさ、それって、自分の本心を強制的に見つめさせられる事とおなじようなものなんだよ。そんな中でも動ける君は、凄いな。偉い偉いよくやったね。僕は助かったよ」
別にアンタの為じゃない。
騙された。してやられた。どうして、いつも、何度も、どこにいてもこいつは……。
奴の言葉は毒の棘だった。
聞かなければいいのに、けれどいつも耳を傾けてしまう。
「君の仲間は誰が死んだ?」
「っ」
「君は屋敷でどんなだった」
「……ぅ」
言葉が突き刺さる。
胸の内に、考えないように、意識しないようにしていた部分に、言葉の剣が無遠慮に突き立てられる。
虚飾が引きはがされていく。
真実が付きつけられる。
「君の幼なじみって誰?」
「やめろ……」
「僕が見せた幸せな景色は覚えてる?」
「やめろ……っ」
仲間は死んだ。
良いやつかもしれないあいつに殺された。未利を守る為だった。つまり殺したのも、殺されたのも未利のせい。
屋敷では自由はなかった。
ずっと暗闇の中で、動けなかった。
ずっと傍にいた人間は本当は最初からいなかった。
誰かいたような気がするけど、それが誰だか思い出せない。
消えてしまったという感覚だけが残っている。
つかの間に見た幸せは、救いの真実の分だけ傷になった。
ありえないはずの世界が不幸な世界と変わった時、傷は何倍にも膨れ上がった。
「この中にはどんな中身があるのかな」
「開けるな……」
砂粒が、その箱を開けようとするのに気づく。はっとして、飛びついて阻止しようとした。
相手の手から箱をもぎ取ろうとする。
「させない。それだけは絶対にさせない。アタシは守らなきゃいけないんだ」
そうだ。それだけは、その行為だけは許してはいけない。
守らなけれならない者がいたから。その為にアタシは存在しているのだから。
「アンタに渡すわけにはいかないんだ!」
――生きて。
――お願いだから死なないで。
――生きてちゃいけない人間なんていないんだよ。
アタシは誰? 誰だっけ。 どうしてこんなに必死になっている? 一体何を守ろうとしている。 誰の為にこんな事を? 忘れてる。 忘れてる? 一体何を?
「――人間でもない偽物が、図に乗るなよ」
「っ!」
刹那。言葉と共に放たれた殺気に動きが止まる。
「君なんて、ただの消費される道具だ。本物でもないくせに。調子に乗らない方が良い」
「何、言って」
黒い箱に手がかかる。
「虚勢……いいや偽物。まだ自分が誰だか思い出せないのかい? だったら思い出させてあげるよ」
蓋が開く。
そこから出て来たのは、闇だ。
どんな世闇よりも黒い、一片の色味の交ざらない漆黒の闇が湧きだして、そして未利へと殺到する。
心臓を貫く。
それらは体の中に入り込んできて、手を足を、脳を心を駆け巡って蝕んで進んで行く。
傷口から流れ込んできたものは、真実だった。
……。
施設で育ち、方城の家に引き取られた少女は。
狂気に呑まれた両親と周囲の状況の変化に、不幸に適応できずに生を諦める。
そして彼女の代わりに、彼女のフリをして生きるなにかが誕生したのだ。
彼女の代わりに好きな人を嫌い、彼女の代わりに分からず屋から壁を作り、彼女の代わりに己を害そうとする者を警戒する、そんな人間でない代替品が……生み出された。
箱からあふれ出たのは、それだけではない。
自分が関わった全ての不幸、自分がいる事で起こった全ての不幸が詰まっていた。
――全部思い出したよ。
「健在意識に、無意識に忘れ去っていた全ての記憶を流し込めば、人間はどうなるだろうね?」
――この場所で、同じように生きる希望を失って迷い込んだ少年や打ちのめされていた少女に出会って、この心の中の世界の自分が悲しんでいた二人を励ました事とか。
――ここではないどこかの世界で、出会った者達、起こった出来事、巻き込まれた事や抗った事とか。
――生まれる前の前世なんて呼ばれる人生の話なんかも。
「さあ、結果を見せてよ。僕に」
箱が開いたその瞬間。
真実が、凶器となって襲い掛かり少女を押しつぶした。
……。
……。
……。
『氷裏』
真実の塔の扉の前に氷裏は立っている。
目当ての箱を抱えながら。
箱の中を覗き込めば、そこには本人の物ではない記憶が、氷裏の記憶がいくつか紛れ込んでいる。
その記憶の中身は、一般人に言わせれば目を覆いたくなるような出来事ばかりがそろっていた。
それを与えられたのは大きい。
自信の記憶を紛れ込ませれば、駄目押しのダメージくらいになっただろうと、推測していたからだ。
特に、氷裏はクレーディアとも、クレーディアの親とも、前の世界の彼女とも面識がある。
手段の一手として記憶を生かさない手はないだろう。
しかし、真実の塔から出ようとしていた氷裏の耳に足音が聞こえてきた。
自分のもの以外の足音。相手は当然限られる。
「前々から思ってたけど、少し虐めすぎたかな」
振り返ったそこには、真実に膝を折ったはずの彼女がいた。
その精神性には素直に感心してしまう。
「い、行く……な。行かせない。絶対に……。そこから……先には」
苦難に遭い、相対してきた分だけ無駄に耐性がついてしまったようだ。
「姫ちゃん達を、あの子を守らないと……。だから」
追いついてきた未利はボロボロだ。
闇に突きさされた心臓からは、闇色を帯びたどす黒い血が流れ出いているし、顔色などは真っ青を通り越して蒼白。
いくら現実で無いとは言っても、ここは限りなく現実に酷似した世界だ。
感覚があれば、痛覚も機能しているはず。
けれど、彼女は立っているのだ。
氷裏の目の前で。
「好き勝手に、させる……もんか。」
未利は、そう言ってその手に木の枝を出現させる。
子供が使う玩具のような杖だが、彼女にとってはそれ以上ないくらいに使いやすい道具だろう。
「消えるのは……あの子じゃない。アタシ……だ。この世界を正しい形に取り戻す。悪い記憶もアタシが全部持っていく」
掲げた木の枝から、まばゆい光がほとばしった。
(※キーコード「3A」345、「3A」665、「3A」894、「3A」444、「3A」778)