222 第24章 痛みの日常
大陸の端に向かうと、やはり最初の時みたいに橋が出現して、近くにある大陸へ向かう事が出来るようになった。
星屑の煌めく橋を通って、歩く大陸の中央にあるのは小さなホールだ。
二つ目の大地より高い場所に浮いているおかげなのか、この大地には闇の底から伸びてくる手はない。
取りあえず横断していき、浮遊大地の中央まで辿り着く。
そこに一つだけある建物。立派な造りのホールの前には、少しだけ成長した未利が立っていた。
――アタシが誰だか分からなくなりそうだよ。アタシは誰なの? ここでただいる事がアタシの役目なの?
彼女はそう悲痛そうな声を漏らす。
最初の時もそうだけど、現れるのは幻みたいなようなもので意思の疎通とかはあまりできないみたいだった。
そして、その後の流れは同じ。
周囲の景色が切り替わって、姫乃達におそらく現実にあった過去の光景を見せるのだ。
「織香さん……方城織香さん」
そこは白い部屋の中で、部屋の隅には黒い光沢のある楽器……ピアノが置かれていた。
傍にはかっちりとしたスーツを着た、神経質そうな雰囲気をした女性。そして、ピアノの前の椅子には未利が座っている。
「……じゃない」
鍵盤に視線を落としていた未利はポツリと呟くが、その声は女性には聞こえていなかったようだ。
女性は腕を組んだ姿勢で、自らの腕を指で苛立たしげに叩いている。
「ぼうっとしてないで、次の練習にかかりなさい。貴方の出来が悪いせいで、私がちゃんとした事を教えられなかったなんて言われたらどうするの? 本当に、向いてもいないのに貴方みたいな生徒をどうして押しつけられたのかしら。貴方じゃなくて優秀なお姉さんだったのなら、きっとこれくらいの事はたやすくできたでしょうに……」
面倒そうな口調で女性はそんな言葉を述べる。
ただ、今まで不満そうにしているだけだった未利は、その言葉を聞いた途端に我慢ならないと言うように、勢いよく立ち上がった。
「……っ、うるさいっ。織香の事知らないくせに……っ。引き合いに、出すなっ! アタシの名前は織香じゃない。そんな事は分かってんでしょ!?」
「織香さん、あまりうるさくしないで頂戴。他の教室に聞こえるわ。貴方の声のせいで、私がちゃんと指導できていないだなんて噂が流れたらどうするの」
かけられた言葉に女性は一瞬だけ怯んだ顔をするものの、すぐに表情を元に戻して部屋の扉に視線を向けて外の事を気にし始める。
そんな仕草や態度を見た未利は、傍に立っていた女性を押しのけるようにしてその場から離れる。
扉に駆け寄った彼女は肩を怒らせながら、自らを止めようとする女性に向かって投げつけるような言葉を発して、ノブを回した。
「アンタ達大人の都合なんか知るかっ。アンタたちの金づるになんかなるかっ。こんな事なんか、アタシはしたくないんだっ」
「待ちなさい!」
部屋に残された女性の制止の声も効かずに、未利は飛び出して行ってしまう。
俯いたまま走る少女。
威嚇する様なに、憎む様に発した先程の声色とは違って、その表情は今にも泣き出しそうにしか見えなかった。
場面は変わって、どこかの公園の一画になる。
未利と向かい合うようにして立つのは、彼女と同じ年頃の少女だ。
「ごめんね、でも織香ちゃんのお母さんとお父さんが怖いから……」
「待って、どうしてアタシをそんな風に呼ぶの。この間まで普通だったじゃん……。アタシの名前はそんなんじゃない……っ」
少女は申し訳なさそうにしつつも、けれどその問題についてはもうすでに答えを出してしまっているかのような口調で話を続けていく。
「織香ちゃんは織香ちゃんだからそう呼びなさいって、うちのお母さんが言ってたの。……それに、このあいだお家に遊びに行った時に、織香ちゃんのお母さんにも……、言われちゃったから。だから、ごめんね」
「……っ」
最後の謝罪の言葉も聞かずに、未利はその場から走り去っていった。
己をとりまく状況そのものから逃げるように走り続ける少女は、特に目的地など決めていない様子でただがむしゃらに町を駆けていくだけだ。
「何で、こんな事に、どこで間違えたんだ……っ」
引き裂かれそうな心の内を吐露しながらも、それを誰にも相談することなく。
たった一人で抱え続けて。
やがて辿り着いた路地裏の袋小路では、まるでその行動を読んででもいたかのように砂粒が待ち構えていた。
「やあ、追い詰められてるみたいだね……」
「どうしてここに……」
困惑する未利の言葉に答えを返す事なく、砂粒はただ喋りたい事だけを喋り続けていく。
それは会話をしていると言うよりも、疑問を独り言として呟いているような形に近い。
「はたして……君という人間は本当にここにいるのだろうか? 確か、人は人から存在を認められて初めて、人としてそこにいられるようになるはずだよ。そう言う意味で考えたら、君って結構微妙だよね」
「やめて。今は、アンタの言葉なんて聞きたくない」
背中を向けて袋小路から出て行こうとする未利だが、その後ろを砂粒はついていく。
歩調を速めても、ぴったりとその速度に合わせて追随する砂粒は、息を乱す事もなく喋り続ける。
「誰にも存在を認められない君って、この世界にいない人間って事になるんだろうけど。そこのところ、どう本人は思ってるのかな? 分からない事は聞いてみるに限るな。ほら、君。 僕の疑問に答えてくれないかな。……無視するなんて、態度が悪いね。礼儀がなっていないよ。普通、喋りかけられたら、答えがあるかどうかは別として、応対しようとするものじゃないのかい? 君は、そんな事も出来ないの? まさか喋りたくないからだなんて、そんな自己中心的な考えて無視してるわけじゃないだろうね? 僕は今、君がどれだけ大変か知らないし、どれだけ傷ついているか分からないけれどさ……そんなの、他人に分かる事じゃないだろう。もちろん君の心中については最大限配慮はしてあげるつもりだけど。……本当に無視し続けるつもりか。自分が話したくないからと言う理由で。傲慢だな。我が儘で、そして何て勝手な人間だ」
「……」
背中からとめどなく掛けられ続ける言葉に、一区画分の距離を歩いた未利はとうとう足を止めた。
相手に背を向けたまま、その存在を拒絶する。
「今、アタシは人と話したくない。……放っておいてよ」
「それは僕に関係ない」
「……っ」
その場から駆けだそうとする未利、だがそれを留めたのはいつの間にか前に回り込んでいた砂粒だ。
「逃げようとするなんて、らしくないなあ。人の事をストーカーみたいに扱わないでくれよ。さすがに心の広い僕でもそれは傷ついてしまうよ。いくら友達でも、さ。親しき中にも礼儀ありって言わないかい? この僕の傷ついた心中を察して、大人しく会話に応じてくれると助かるんだけど、どうだい? ……了承の言葉くらい言ったらどうだい? 君は、イエスの一言もいえないのか? さすがに友人と言えども、何でもかんでも察してあげられるほど、僕はできた人間じゃないからさ。ほら、いつもみたいに威勢のいい言葉で色々言ってきてくれればいいのに、どうして何も言わないんだい? そうしたら僕は、肝要だから全部一つ一つ受け止めて答えてあげるよ。何せ他でもない友人の君が、同じ友人である僕に想いを込めて喋ってくれたんだ。無下にするわけないだろう。一つ一つ丁寧に、僕なりの答えを返すと約束……」
「……」
未利は、目の前で立ちふさがる人間の胸を押した。
普段の様子からは想像できないほどの弱い力で。
「どいて……」
当然そんな行為では、障害はどけられない。
「お願いだから、もうアタシの前に現れないで」
「それは聞けないな。打ちのめされている友人をこの僕が放っておけるわけないじゃないか。たとえこの先の未来で、何があろうとも僕はずっと君と言う友人を見守り続けるし、明日も明後日も明々後日も、君を気にかけ続けるよ」
例え……、と砂粒はその続きを紡ごうとして、いったん切る。
自らの体を押そうとする未利の手を掴み、おそらく強く力をこめる。
俯きがちだった相手の視線をそうする事で上げさせるように仕向けさせて。
「……っ」
視線が合った未利は、砂粒の瞳の中に何を見たのか、小さく息を呑んだ。
「例え……存在しないはずの人間で、誰かの代替品であろうとも、僕にとって君は大切な人間なのだから。……役立たずの本物の自分を偽物の君が殺してしまっていてもね」
「……え?」
映像にノイズが走った。
……かと思ったら、過去の映像が途切れる。見まわせば、三番目の浮遊大陸の中央、ホールの前だ。
「終わった、の……?」
前の時と終わり方が違うのが気にかかる。
同じように周囲の景色を確かめていた仲間に話しかける。
「今の、最後のってどういう意味だったんだろう」
「途中までは何を問題にした光景か分かってたんですけど……」
「ふぇ?」
「うーん」
過去の人間関係とか、周囲の人達の変化してしまった態度や状況とか、そう言う事を教えられていたのだと思っていたのだが、最後だけ他の物と比べて少し違うような気がする。
若干混乱したものの、ここで知るべき事を知り終えたと言うのなら、後はやるべき事へまた向かうだけだ。
だが……。
「あ、鍵さんが開いてるの。なあドア押しちゃったら開いちゃったの」
ホールの扉が開いていた。
初めからそうなっていたのか、途中で変化したのか分からないが。
なあが何気なく触った影響で、開いてしまったようだった。
「えっと、どうしよう」
「とりあえず軽く覗いてみるー? 中に入れるようになってるって事は何か意味があるんじゃないかなー」
「そっか、そうだよね」
啓区の言葉ももっともだ。
扉を押し開いて、ホールの中へ。
建物内は、たくさんの席の並んでいる客席部分と、一段高くなっている舞台部分に分けられていた。
視線を奥へと向けると、その舞台の上にはピアノを前にして座っている未利の姿があった。
「そういえば、前回は姫乃さんが声をかけて未利さんが消えたんですよね。だったら今度もそうなんでしょうか」
いまいちこの世界の歩き方と言うか、付き合い方が分からないのだが、一度目にあった事がそうなら二度目もそうするのが自然だろうか。
疑問を抱きつつも、歩いてそこまで辿り着く。
未利は鍵盤に指が添えているが、動かして演奏しようとする気配はしようとするなかった。
何か、言わなければ。
「私は、嫌なら弾かなくても良いと思う」
鍵盤へと視線を落としていた未利はその言葉に顔をあげてようやくこちらを見た。
――そう、だよね。嫌ならやらなくてもいいよね。だって、やりたくないんだし。言いなりになって弾くなんてしなくてもいいよね。
言葉を受け取った未利は、泣きそうな顔でそう言って、前と同じようにふっとその場から消えていってしまう。
なんだか、変だ。
どこがどう、とは正確に言えないが、何か肝心な事を考え忘れているような気がする。
言い表しようのないもやもやが心の内溜まっていく気分だ。
これで良かったのだろうか。
「未利ちゃま、嘘ついてるの。どうして嘘つくのってなあ思うの。嘘つく事は良くないっよって、そう思うの」
ポツリと呟かれたなあの言葉。
聞き流していい言葉ではないはずだ。
「なあちゃん、今の……未利は嘘をついてたの?」
「未利ちゃまは自分の心に嘘をついてるの、なあずっと見てきたから分かるの。未利ちゃま本当は別の事考えてたの」
「別の事……?」
そういえば、最近分かる様になってきた事だけど、未利って時々別の事を言ってる時があるんだよね。
本音が上手く話せないって言うのかな。
凄く不器用で、誤解されやすくて……。
だったらあの未利が思ってた事は。
「弾きたい? でもそんなはずないですよ。嫌だから弾かないでいたんでしょう」
「最初の時だって、代わりになるのが嫌で家族の方を恨んでいたんじゃ……」
……分からない。
人の心って難しいんだろうな。きっと。
知れば知るほど矛盾に満ちていて、表か裏かみたいに簡単には分けられない。
「今は悠長に考えてる時間ないよねー。心の中を覗いて歩き周るなんてプライバシーを侵害してるようなものだしー。目的地に向かった方がいいかもー」
「そう、だね」
気になる事はあるが、エムに言われた事もある。
未利を助けられる可能性があるのだから、そちらを優先するのが先だろう。
啓区に言われてホールを出てから、大陸の端へと向かう。
次に近いのは、この世界で一番高い位置に場所……塔の建物がある浮遊大陸だ。
あそこへ向かえば、未利を助けられるはずなのだ。
早く向かわなければならない。