216 第18章 限界回廊(アジスティア)
限界回廊
それは、ベルカや砂粒とのいざこざがある少し前の出来事だった。
シンク・カットでツバキと会話をしていたと思ったら、姫乃が別の場所へまた移動してしまっていた時の事。
「あれ……?」
白だ。
目に見える景色は白一色。
結締姫乃は不思議に思って首を傾げる。
先程まで自分は、エンジェ・レイ遺跡の奥の更に深部……シンク・カットにいたのだが。そうだと思ったらまた別の、白い靄みたいなものに周辺を包まれている所……違う場所に移動してしまったらしい。
「私、どうしてこんな所に?」
そういえば似たような事を、つい先ほど遺跡に立っていた時も考えたなと思う。
「覚えていらっしゃらないのですか。貴方は、貴方自身がその足で、この回廊へと辿り着いたはずですけが……」
「え?」
唐突に聞こえた声に振り返れば、そこには長い黒髪の、紫のワンピースを着た一人の少女がいた。
回廊、と言うことはここは限界回廊なのだろうか。
姫乃が自分でここに来た?
そうは言うが記憶をどれだけ探ってみても、それらしいものは何一つ見つからなかった。
お風呂上りになあと一緒に話しをしていた辺りから、途切れてたままで……。
一体どういう事なのだろう。
「ですが、ちょうど良かった、私からも貴方に話しておきたい事があったんです」
「貴方……は?」
混乱している姫乃を前にしながら、話しかけてくる少女は何故だかほっとしているようだった。
そんな眼の前にいる少女。どこかで見たような気がするが、こちらも全然思い出せない。
どこかで会った事がある気がするのに……。
既視感に首をひねっていると、少女が微笑を浮かべて答えを口にしてくれた。
「貴方とは一度、エルケの町で会っていますよね。コーティー女王が終止刻発生について、領民に説明を行う場で」
「あっ」
「そして二度目は、携帯ごしに……」
そうだ、思い出した。
エルケで啓区を追いかけている最中に間違えて話しかけた人だ。
そしてつい最近、未利のフリをして電話をかけてきた人。
あの時の声は未利のだったが、確かに携帯から聞いた喋り方に何となく似ているように思える。
しかし彼女は、確か砂粒に捕まったはずじゃなかったのだろうか。
どうしてそんな人がこんな所にいるのだろう。
すると少女はにこりと笑って、続きの言葉を口にする。
「私の名前はアジスティア、砂粒……いいえ、氷裏の不意をついて、こうしてコンタクトを取らせてもらいました。勇気啓区を支えて助力を与えるのが私の役目です。彼の潜在意識が顕現したもの、と言えばいいでしょうか」
「潜在意識……?」
考えたのは限界回廊ってそんな事が出来るのかという事と。後半の耳慣れない言葉について。
意識と言う事は、想いとか心みたいなものなのだろうか。人間ではない、と言う事……?
けれど眼の前に立つ少女は、どうみても普通の女の子にしか見えないのだが。
唐突に彼女から紡がれた難しい言葉が理解できない。
そんな姫乃の様子を見てか、アジスティアと名乗った少女は補足する様に口を開く。
「心の奥深くに眠っている、本心……みたいなものだと思ってもらって構いません。私は彼の……啓区の生きたいという願いによって生まれた存在なのです」
生きたいという願い……?
「そうですね……。少し話がそれますが……、貴方は日々の生活の中で、彼の事に関しておかしいと思う事はありませんでしたか? 勇気啓区の存在を時々忘れてしまいそうになったり、彼の言動に何かしらの危機感を抱いたりすることは……?」
「存在……」
問われた言葉に姫乃は考え込んでしまう。
普通だったら、そんな事あり得るわけがない。
でも、そのあり得ない事が名啓区の周りで起きているかもしれないと言う事はうすうす気が付いていた。
アジスティアの言う通り、姫乃は……いや、他の者達も時々啓区の事を忘れそうになるのだ。
一番最初に思ったのは、船の中。襲って来た憑魔を撃退した後の事。
次は、星詠台でコヨミ姫と待ち合わせをしていた時の事。あの時は、なかなかこないコヨミ姫の様子を見に行こうとして階段を降りて行ったのだが、星詠み台から離れてごく短い時間の中……上から啓区が転げ落ちてくるまで、姫乃は一人で待ち合わせていたとばかりに思い込んでいたのだ。
そして、極めつけは未利やコヨミ姫が明星の真光に攫われた後の事。
混乱した後夜祭会場……船の上で、今後の事を話し合っていた姫乃は唐突に携帯の着信音が響くまで、仲間の少年が横にいる事を忘れきっていた。
あれは気配を消していた、なんてものではなかった。
まるで今までどこにもいなかった人間が、唐突に姫乃の近くに現れたかのような感覚だった。
……他の人は何も感じてないみたいだったけど。
それとは他に、啓区は時々大人の人たちとは違う意味で、もっといろんなことを知っている様な事を言う。
これらは、アジスティアの言うような事なのだろうか。
「なるほど、やはりそう心当たりがあるのですね」
そんな姫乃の内心を読み取ったかのように、アジスティアは大きく頷いた。
「貴方の感じた異変は間違いではありません。思った事もです。彼は……消えかけているんですよ。この世界から」
「消えかけて……?」
「貴方達なりに言えば、死にかけています」
「そんな……」
「私はそんな危機的状況にいる彼を、どうしても救いたい」
告げられた言葉に絶句せずにはいられない。
……啓区が死ぬ?
それってどういう事なの?
未利だって大変なのに、啓区までいなくなっちゃうなんて。
そんなの……そんなの絶対に嫌だよ。
「どうして……あなたは」
どうしてそんな事が分かるのか。
どうしてそれを私に伝えるのだろう。
「彼に死んでほしくないからです。どうしてそんな事が分かるかと言えば、私が彼の本心であるからとしか言いようがありませんが。疑問はあるでしょう。それはきっと少なくないはず。けれど、聞いてください。きっと、これは望んだ未来を得るための、大切な機会だから……」
聞きたい事はたくさんある、確かめたい事も。
こっちがそう思っている事は分かっているはずだ。けれど眼の前にいる少女は悲しそうに目を伏せて、時間がないのだと言わんばかりに次へと話題を移していく。
「どうか彼に教えてあげてください。貴方を大事に思う人たちがたくさんいる事を……、貴方が失われる事を悲しいと思う人がたくさんいる事を。たとえ世界の理から弾かれようとも、生きる事を……運命に抗う事を、大切な人達といる未来を諦めないでと、そう伝えて……」
アジスティアは、その手の中に赤い色の銃を出現させた。
それを、大切そうに一度胸に抱いて願いをこめるようにしてから、真上へと銃口を向ける。
「今……危険なあの二人を生かす為に、貴方達に出来る確かな事を教えます。事態を打開するヒントは過去に……。探してください。この世界の過去、未利の過去と……そしてもう一つの世界の過去の中で」
思わず身構えるが、彼女からは害意を感じなかった。
一体何をするつもりなのだろうと思って見ていると、彼女は指を動かして引き金を引く。
発砲音はしなかった。だが、代わりに赤い閃光が真っすぐと天へと昇る。
白い空間。限界回廊の……どこまであるか分からない空間の中を、ただひたすら上へ上へと昇って行き……そして、姫乃の意識はどこか別の場所へと飛ばされた。
次の瞬間、目の前にあったのはおそらく別世界。
姫乃達が元いた世界のような景色だったが、それは違う。
――それは、ここではないどこかの世界の話、あり得るはずのない世界の光景だった。