203 第5章 勇気啓区
シュナイデル城 特別治療室 『啓区』
そこは、仰々しい呼び名の大げさな部屋だけれど、実際にはそんなに普通の部屋と変わらない場所だ。何か特別な機材があるわけでもないし、多くの意思や治療魔法の人間が控えているわけでもない。
違いがあるのはわずか。ただ、ちょっとだけ普通の部屋より広く、何かあった時の為に治療がしやすい様にと高めに作られているベッドがいくつか並んでいるだけ。
「来たよーって言っても、いつもみたいな返事は来ないんだろうけど、一応言うよー」
そのベッドの一つは現在使用中だ。
茶髪の少女が、表情を歪め苦痛を訴えるかのような様子で覚めない眠りについている。
言うまでもない、仲間である一人未利だ。
その横には、監禁されていた屋敷の中にあった未利の唯一の私物……ネコウのぬいぐるみが、見守る様にちょこんと置かれていた。
コヨミが未利から聞いた話だと、このヌイグルミの中にうめ吉が入っていて、連絡する事が出来たらしいが、こうしてみるとそんな窮地の際に役立つような重要アイテムには見えず、ただつぶらな瞳をした和むヌイグルミにしか見えない。
「原因が分からないな。毒薬はすでに薬で中和したはずだし、たまっていた疲労もとっくに回復していて良いはず。ちょっとした怪我なんかもすでに魔法で治しきっているはずなのに」
部屋に存在しているもう一人。常在している男性医師はそう言って難しげに、首を傾げるのみだ。
奥にある、作業机で書類をまとめてでもいるらしい男性は、こちらに一言挨拶を告げて、また作業へと戻って行った。
未利が眠りについてすでに三日が経つ。それなのに、彼女は未だに目覚めないでいた。
布団の下で未利が身に付けているのは、いつもの来ている男物の服ではなく、患者が着る服……白くて簡素な物だ。
表情は血色が悪くて、頬には血の気があまり見られない。そんな姿からは、今にも消えてしまいそうなそんな危うさを感じさせる。それは常の様子からは想像できない生気の感じられないものだった。
「本当に、姫ちゃん達があれだけがんばったんのに、付き合いが悪いねー」
啓区はベッドの上に手を伸ばしていつもやられている仕返しにと、ほっぺでもつまんで伸ばそうと思ったが止めておいた。やって、起き上がって反論してくれるのならいくらでもやるのだが、そんな事をしても無駄だと言うのはよく分かっていたからだ。
「存在が薄くなってる……」
ベッドの上から幽かに感じる気配。
生命がそこにあると言う証拠を何となく感じ取れる啓区なのだが、今はその気配を目の前の存在からはあまり感じられなかった。
回復するどころか、日に日に弱くなっていっている。
このままでは、あと数日、持つかどうか。
これは、姫乃達は知らない事だ。
だから現状を何とかするために、少しでも手掛かりになる情報を集めたくて、町に出てツバキを探していたのだが、どうやっても見つからない。
……一体どうして、目を覚まさないのかなー。何が原因なんだろう……。
失敗したとしたらならどこで?
まずかったと言うのなら、何の行動がそうなのか。
分からなかった。
砂粒とか言う少年がかけた、声を聞かせた相手の行動を止める魔法の影響ではないかとも、みな最初は疑ったのだが、医師の判断ではそのような魔法の影響は一切見られないらしい。
魔法を受けたり、怪我を負ったり、病気をしていたりと、外的な要因で考えられるものはないとも言われた。
フォルトとかいう人のおかげで、毒薬の効きが遅かったから、すぐに命を危険に曝すような事はなかったけどー、そうだとしたらきっとー、自分達が離れていた時に、何かがあったんだろうねー。
だから、目覚めさせるためには、どうにかしてその時にあった事を知る必要がある。
「せめて、あの犯人が……フォルトとか言う人が生きててくれれば良かったんだけどー……」
だが、頼みの綱である、最も事情を知っているだろう人物は、船の上から海に落ちたきりで、影も形の残さず消えてしまっている。行方不明のままなのだ。
それなら後夜祭会場の未利達がいた場所を調べられないかと思うのだが、色々あった後の爆発大量発生のせいで、船体に穴が開いてしまったらしく、船は海の底に沈んでしまっていた。海底にはがれきがわんさと溜まっているだろうし、フォルトの方もたとえ生きておらず死んでいるにしても、捜索は簡単にはいかないだろう。
「……駄目、だったのかな」
結局、登場人物未満である自分に何かを変える事などできなくて、決まりきった運命からは逃れられない。そういう事なのだろうか。
これ以上何かをしても、無駄だと言うのなら……。
頑張るだけ、意味がないのではないか。
残酷な未来が待っていると言うのに、無駄に足掻けば、それだけ負わなくても良い傷を負う事になる。
「……っ」
ふと発生した声に、視線を向ければ、苦悶の表情を浮かべたベッドの上の人物が喉の奥からかすれた息をもらしている。この状態の彼女がどういう風でいるのかは、外からでは分からないが、夢でも見ているのかもしれない。きっと良いか、悪いかで言ったら、おそらく悪い方の夢を……。
けれど、自分達はそれに対して何もできないのだ。
頑張る事すらできない。
いつか、話し合いの時に姫乃が言っていた事だが、確かに……。
頑張る事すらできないのは辛いよね……。
心の底からそう思った。
見守る事ができるだけマシ、だなどとはとても思えない。
室内にいる、一人の少女の呼吸音と、もう一人の男性医師の……おそらく書類でも書いているだろう音を聞きながら、啓区は目を閉じて、意識を記憶の底へと沈ませていった。
勇気啓区と言う存在がこの世界に、生まれたのは本当にとうとつな出来事だった。
ある日突然に、何の前触れもなくこの世界に生まれ落ちたのだ。
だが、生まれた……と言っても、世間一般がそうであるように、母親から生まれてくる、というわけではない。
勇気啓区という人間は、本当に唐突に、突然に、気が付いたらそこに存在していたのだから。
分かる事と言えば、何かの物語の為に生まれて来たという事。そして、そこに存在する人物達の足りない箇所を無理矢理埋めるために、数合わせする為だけに生まれてきたと言う事実だけだ。
役割も何もなく、ただそこにいて、時が経てば消えてしまう。
登場人物や主人公に助言も、力添えしてやる事すら叶わない……。
勇気啓区とはそういう存在だった。
家族や、親戚、知り合いや友人などいなかった。
繋がりや絆、思い出なども何も持ってはいない。
ただ……、人間が存在する為に最低限不都合が無いようにと、設定された容姿と名前、人格があって。住居や生活道具、そして資金だけがあって。困った分だけ、状況に対応できるようにと、器用さが身についていて。
それだけで、啓区はあの広い世界で、誰とも繋がらないただの一人として、生きて生活していた。
毎日、生きて、生きて、それだけで。
けれど、苦痛や不安などはなかった。
そう言う風に作られたからなのかもしれないけれど、過去が無いのだから、何かを失う怖さなど知らなかたし、失った後悔もなかったからだろう。
それでも、そんな自分でも疑問というか、興味みたいなものはあった。
一体誰が主人公なんだろう。
自分が生まれる理由になった物語はどんな理由なのだろうか。
登場人物たちは、物語はどんなものだろう。
……そんな具合に。
そして、その時は来た。
学校に通う事になって、その日から遡て過去からすでに在籍していた事実が付け足された。
在校生に交ざって、転入生や新入生を受け入れるのはおかしな感じだった。
時期は春だ。
桜の花びらが舞う始まりの季節。
全校生徒が集まる場で、他の生徒に交じって存在している赤い髪の少女を見た時、直感した。
この子が主人公なのだ、と。
物語の始まりを確信した瞬間だった。
少女の名前は結締姫乃。
性格は悪く言えばすごくお人よしで、よく言えばちょっと心配になるくらい優しい。
こんな子が、これからたくさんの困難に行き当たり苦労するのかと思うと、すこしやるせなかった。
苦労するのが分かってるのに、自分には何もできない。
誰もいない部屋に学校から帰ってくる度に思う。今日一日何も起こらないで良かったなと、そう。
朝起きて、今日何かあるかもしれないと思いながら部屋を後にする時、たぶん「行ってきます」の言葉を言いたくなった。その言葉が言えれば、そんなはずはないのに「ただいま」だって言えるような気がして。でもいつも、言う相手が言えないから、結局はいないまま部屋を出るのだ。
そして、新学期が始まって一週間が経った頃、それは起こった。
魔法陣、不思議な光、見た事のない景色。
異世界に召喚され、物語がとうとう始まったのだ。
啓区は当然のように、誰もいない場所に放り出されたが、死ぬような事にはならなかった。恐ろしい害獣に襲われる事はなかったし、幸いにも人が良く利用する街道沿いで、実のなる木が立っていた事もあり、お腹を空かせる事もなかった。
けれど、自分はもうじき消えてしまうだろう。
異世界に来て、状況が変わったせいか、自分の存在が薄らいでいくのを何となく感じ取る事ができるようになったからだ。
だから登場人物であるだろうツバキに会った時には、もう起きない幸運が起きたと思って感謝した。無駄に消えるくらいなら少しでも主人公達の力になってやりたかった。
けれど、力は譲渡されず、何の因果かわからないが無事に町まで辿り着いてしまって、さらには出会うはずのない主人公と、物語の舞台上でばったりと出くわしてしまう事になる。
姫乃と会話を交わし、未利やなあと交友を深めて、セルスティーに助力を請われて、始まりよりもさらに先……、物語の中核へと一歩ずつ関係していって……。
自分が本来なら関われるはずのない人達と関わって、過ごせるはずのない時間を過ごせている事を忘れそうになるくらいだったけれど、事実が変わったりするような事はなくて、たびたび存在が揺らいで消えかける度に思い知らされるのだ。
その度になかったはずの未練が、不安が、欲が、呼び起こされて、胸のうちにわずかな痛みをもたらす。
こんな事なら、知らなければ良かったと、前のままでいればよかったと、ごく稀に思ってしまう。