2.初出勤
次の日の朝は早起きをした。
4時間位しか、たぶん寝てないはずなんだけど、まるで小学校の遠足の日よろしく目がさえて朝の6時には起きてしまった。だから、早起きをしたというよりはしてしまったという方が正しいかもしれないけど。
起きたら、体中汗をかいていて気持ち悪かったので、軽くシャワーを浴びた。バスルームから出ると、だいぶ前に買ったきりで、一度も着ていなかった黒のスーツに着替えた。何か大事な用事ができた日に着よう、と思って買ったのはどうかは忘れたけど、今日ぐらいこのスーツが似合う日もないだろう。
全身を鏡に映す。ファッション誌のモデルさんには遠く及ばないけど、我ながら結構いけてると思った。くるっと回ってみたり、いろんなポーズをとったり、ふんふん鼻歌を歌ったりしていたら、時間に間に合わなくなりそうになったので、慌ててやめた。
朝食はいつもと変わらなかった。カリッと焼いたトーストに、ゆで卵つきのサラダ。すごくシンプルだけど、すごく落ち着くんだ。ああ、それから。
キッチンに入って、ココアを入れる。いつもはコーヒーを飲むけど、今日はとても大事な日だから。これだけがいつもと違う、私の朝食。トーストをかじりながら、サラダをときおり口に運びながら、ココアを飲んだ。そんな朝食は5分ほどで終わってしまった。
夢屋には、9時に行くことになっていた。前の仕事(出版社)の通勤時間と同じ。だから、目的地の場所は多少違えど、私が自分の時間配分のリズムを崩すことはなかった。それでも初日だし、遅刻するわけにはいかないので、少し早めに家を出た。
電車の中では、ずっと緊張していた。不思議なことに、乗る寸前まではなんともなかったのに、シートの椅子に腰掛けたとたん、急に緊張が襲ってきたのだ。
リラックスしようと思って、吊革の広告や、向かいの窓の景色を眺めたりしてみたけど、あまり効果はなかった。背中がキンとなって、お腹が痛い。しまいには、電車のゴトン、ゴトンという音が、自分の心臓の音とダブって、気が遠くなりそうになった。
窓を開けて叫びたい気分だったけど、そんなことできるわけないし、お医者さんもここにはいないし、どーしよーどーしよーって思ってたら、ようやく目的の駅に着いた。助かった。
通勤ラッシュの人ごみが、電車の中から溢れ出る。その流れに乗って、私も歩いた。
駅の外に出ると、日差しが眩しく照りつけてきて、思わず目を細めた。すごくいい天気だ。ひとつ深呼吸をして、空を見上げる。電車であれだけ緊張していたのが嘘のように気が楽になった。
左手にはめた腕時計で時間を見ると、まだ8時30分で結構余裕がある。少しお茶でもしていくか、とも思ったけど、気持ちの方は時間と違って余裕がなかった。なによりそれでは、家を早々に出た意味がない。
カバンから、昨日の夜即席で書いたメモを取り出す。メモというよりは、夢屋がある場所の地図が書いてある紙だ。
駅のホームを出たら、南へまっすぐ5分。単純に言うと、そこに夢屋はある。夢屋の老人は、どちらかというと方向音痴な私でもスムーズに地図が書けるくらい説明が上手かった。
信号機に、銀行に、パン屋さん。いくつかの目印をたどってー・・私は夢屋にたどり着いた。
「・・・ここで・・・・合ってるよね?」
思わず、そんな独り言を呟いてしまうくらい、その建物の外観は意外だった。
しっかりとした白いコンクリート。外から見たところ高さは15階はゆうにある。大きな入り口ゲートの上には、なるほど確かに金色のプレートで「夢屋」と書いてあり、私の独り言が無駄ではないことを証明していた。
両脇に建っている、どこかの会社のビルにも全然ひけをとらず、夢屋はむしろ目立っている。
こういう表現も変だけど、てっきり老舗の骨董品屋のようなのを想像していたので、ここが夢屋だと認識できた瞬間、少し足がすくんでしまった。
改めて謎だ。こんな立派な会社なのに、あの広告にはほとんど詳しいことは書いていなかった。分かっているのは、とりあえず私はここで働くんだということー・・大丈夫だろうか?
でも、とりあえず働くんだから、とりあえず中に入ってみるしかない。
私はカバンを軽く肩にかけ直すと、真っ直ぐ前を見て夢屋への一歩を踏み出した。
自動ドアが左右に開く。外から見ただけじゃ当然、中はどんなか分からなかったけど、中もすごかった。
とにかく広い。広い広い。ちょっとした学校の運動場ぐらいはあるんじゃないだろうか?
広がっているフロアーの床は、毎日丁寧に掃除されているらしく、ピカピカに輝いている。
天井につけられたシャンデリアはじめ、並べられている数々の調度品も程よくバランスがとれている。何より、センスがいい。
ひととおり観察が終わったところで、何か違和感を感じた。ーーーー静かすぎる。視覚じゃなく、聴覚を通じて違和感の理由に気付いた。
誰も人がいない。入り口を入って、右斜め前に受付のカウンターがあるものの、そこにも人の気配は感じられなかった。
(どうなってんだろ。)
カバンを片手でブラブラさせながら、カウンターと入り口の間を行ったり来たりしてみたけど、当たり前のように人は来なかった。
次第にそんな意味のない行動をするのもばからしくなってきて、フロアーの真ん中にでんと置いてある大きなソファーに腰掛けた。
(退屈だなぁ・・)大きなソファーは、自分を優しく包んでくれるシルクのベールのようで、自然と深ぶかとした座り方になってしまう。静かすぎて、しばらくそうしているうちに私はうとうとしてきた。今頃になって、昨日の4時間睡眠が祟ってしまった。
(ダメだ、起きなきゃ・・)うとうと・・(起きなきゃ・・)うとうと・・(起き・・)ーーーーーー・・
両手で細かくちぎったパンを放り投げると、面白いようにたくさんのハトが集まってきた。自分の実力じゃなくてパン目当てで来たことは分かっているのに、ちょっとした手品師になったようで気分が良くなった。
デーデーポポー、デデーポポー
必死でエサをついばむ彼らは、それでも鳴くことを忘れていない。
デーデーポポー、デデーポポー
彼らに投げる分のパンもなくなって、私はかがんだ姿勢になりながら、ハトを見ていた。
デーデーポポー、デデーポポー
ふいに群れの中の一匹と目が合った、気がした。そして。
デーデーポポー
スポットライトが消えたようにいきなり目の前が真っ暗になった。全てが、黒。あれだけたくさんいたハト達の姿も、全然見えない。
デーデーポポー、デデーポポー
真っ暗な黒い空間に残された私に、ただそんなハトの声だけが聞こえてきた。
デーデーポポー、デーデーポポー、デーデー・・
何度目かのハトの声と共に、急に目の前の世界がパッと色を取り戻した。
ピカピカなフロアー。綺麗な調度品。ここは、夢屋。いつの間にか私は眠っていたらしい。そして夢を見ていたらしい。
『デーデーポポー』
夢の中と同じハトの声がする。ただ、今度は機械的だ。これは・・
声の聞こえてきた方角に目をやる。
声の主は、東側の壁に取り付けられたハト時計だった。時刻は9時をさしており、ハトもその数字の分だけ鳴いた。
ハトが鳴き終わって、顔を時計の中に引っ込めたちょうどその時。
「お待たせいたしました。」
(!?)
背後から声がした。急いで振り向くと、背の小さな老人が一人、立っていた。いつからそこにいたんだろう。ああ、びっくりした。
「お待たせいたしました」は、昨日の電話の声だった。これは間違いないだろう。
「すみません。うちは時間ぴったりがモットーでして。」
老人は立ったまま話した。相手だけそうさせるのも悪いと思って、私はソファーから立ち上がった。
「謝らないでください、ちょうど今来たところなので・・」
なんとなく、嘘をついてしまった。
「そうですか。ではご案内します。こちらへ。」
老人はフロアーの奥にある大きな扉を指し示しながら言った。
すごく大きな扉なのに、今になるまで全く存在に気付かなかった。不思議だ。
私はあとについて歩いた。後ろから老人を見て気付いた。老人は右足が悪いらしく、なにか重い荷物でも引きづっているかのようにヒョコヒョコとした歩き方をした。
それでも不思議と惨めな感じはしない。貫禄というか、大げさにいうとオーラのようなものがある。
今日からこの人のもとで働くのかと思うと、私はなんだか誇らしい気持ちになった。