13.新しい夢
『季節が初夏を間近に控えたある日、私は会社をクビになってしまった。
理由は、いわゆる経費削減のためのリストラで、私もその枠の中にしっかり入っていただけの話だ。・・』
夢屋2階の会議室。
私はひとり、コツコツと原稿用紙を埋めていた。事実は小説より奇なり、と言うけれど、私は自分の体験を小説にすることにした。
老人に言われたとおり、私は夢から逃げていたのかもしれない。だから、少し遅いかもしれないけど、これは私なりの努力なのだ。
原稿のマス目がひとつひとつ埋まっていくたびに、ひとつひとつ夢に近づいていくような気持ちになった。
この小説を書き始めて、すでに一週間が経過していた。
「お、やってるね。」
会議室の扉が開いて、小阪さんが顔を出した。毎日、仕事の合間をぬって、こうして私の様子を見に来るのだ。もう、すっかり私の本当の先輩のようになっていた。
「もう少しで完成します。」
私はペンを原稿の上に転がして言った。一日中手を動かしていたので、さすがに疲れてきた。
「ホント?出来たらさ、絶対すぐ私にも見せてよね。」
小阪さんは目を輝かせて言った。
「いいですよ。あ、でも・・最初に見せないといけない人がいるんです。」
私がそう言っただけで、小阪さんは誰のことか分かったようだった。
「あ・・そうか。じゃ、2番目に見せてよ!約束ね?」
小阪さんがゆびきりげんまんの形にした手を差し出した。私は笑って、指を絡ませた。
外が暗くなったころ、ようやく小説は完成した。かなりの長編になり、またかなりの達成感を感じていた。
私は原稿の束を整えると、エレベーターで1階へと向かった。まだいるだろうか?
目的地は社長の部屋ひとつのみ。私は扉の前に立つと、ゆっくりとノックした。
「どうぞ。」
扉が開き、大きな椅子に座って、書類をチェックしている老人の姿が現れた。
老人は入ってきたのが私だと気づくと、書類をめくる手をピタリと止めた。
「出来たんだね。」
「・・はい。」
老人の視線が私の手に持っている原稿に注がれた。
老人は、椅子から立ち上がると来客用の方のソファーに座りなおした。
「それじゃ、見せてもらおうかね。」
私は静かに原稿を渡した。
それからどの位たったのだろうか?30分かもしれないし1時間かもしれない。時間の経過が分からなくなるほど、私は現実の世界から遠く離れたところにいた。
それは緊張や不安ともちょっと違う、今までにない感覚だった。
「・・ありがとう。」
私を現実に引き戻したのは、老人のその声だった。その声で、私は社長室にいることも、小説を読んでもらったことも思い出した。
「とても、良かったよ。」
老人が私の目をしっかり見つめながら言った。お世辞や無理に言った言葉でないことは、表情に表れていた。
「しかし、何より良かったのはね。」
老人がひざの上で手を組みなおして言った。
「君がひとつの作品を書き上げたという、このことだよ。それを忘れないでほしい。」
「・・はい。」
「それにね、たとえ夢が叶わなかったとしても、君がやってきた努力に何一つ無駄なものはないんだよ。それも忘れないでほしい。」
「はい。」
私は老人の言葉を聞きながら、小阪さんの話を思い出していた。足の靭帯を切って、夢に見放されてしまった老人。もしかしたらこの言葉は、自分自身に聞かせてもいるのではないかと思った。
「今の君はとてもいい表情をしているよ。ーーーもう大丈夫だね。」
老人はそう言って、優しく微笑んだ。
それが私が最後に見た老人の笑顔だった。
次の日、私は少し早めに家を出た。
正式に、夢屋で働かせてください、とお願いしようと思っていたのだ。もちろん、小説家の夢も忘れてはいないけど、夢屋と離れたくなかったのだ。老人に小阪さん。どんな顔をするかな。
昨日までと同じように、同じ道を歩いた。信号機に、銀行に、パン屋さん。目印をたどってー・・
(ーーーーえ・・?)
夢屋の前、いや、夢屋だったところの前まで来て、私の体が凍りついた。昨日まで夢屋があった場所には・・・別の会社が建っていた。
何かに追われるかのように、私はその建物の中に駆け込んだ。中も全く別の会社だった。フロントの受付嬢に、質問を浴びせかけた。
「あの!ここに、夢屋って会社があるはずなんですけど!なんで、違う会社になってるんですか!?」
「夢屋・・?」
受付嬢は隣の同僚と顔を見合わせて、
「さあ、そんな会社は知りませんけど・・ここは前からうちの会社ですよ?」
「嘘・・」
体の力が抜けた。そんなことって、あるのだろうか。
フラフラになりながら、外に出て、ゾンビのように道を歩いた。道行く人達の視線を感じたけど、そんなのどうだっていい。
老人、小阪さん。もう2度と会えないのかと思うと、たまらなくて涙が出てきた。昨日のあれっきりで最後なんて、ひどすぎる。
行くあてもなく、川原にやってきた。座り込んで、考える。
全部、夢だったんだろうか。ーーーそんなはずはない。カバンには今でも万華鏡が入っているし、何よりこんなにはっきり覚えている。
(もう大丈夫だね。)
あれは、別れの挨拶だったのだろうか。だから消えちゃったの?
私はそのまま静かに涙を流して、静かに泣き続けた。ーー永遠に思えるくらい、長く。