そのひとのつぶやき。
竜胆君視点です。一応警告いたします。
*どんな竜胆君でも許せる
*竜胆君が普段どういう目で盛沢さんを見ているのか気になってゴロゴロしたことがある
*よく分からない文章でも雰囲気でなんとなく理解するのが得意
上記の条件を、二つ以上満たしていらっしゃる方にお勧めの作品となっております。
自動販売機を見上げる、というのはどういう気分なのだろう。
子供の頃は確かに自分も見上げていたはずなのに、その気持ちがどうしても思い出せない。昔からたいして頭が良くなくて気も利かない性質だったから、きっと何も考えずに過ごしていたんだろう。
高校に入るまで気にしたこともなかった事が気になるようになったのは、全て彼女のせいだ。
彼女はいつも夕方5時過ぎに渡り廊下に現れる。その姿を合図に、剣道部は片付けを始める。まさか本人も時計代わりにされているなど思いもよらないだろうが、図書館からの帰りに使っているらしい渡り廊下は剣道場の窓からよく見える位置にあるのだ。
時間に多少の前後はあるものの時計よりもわかりやすいので、入学してから三年間、彼女は密かに剣道部の終了を告げる係だった。
真夏の熱気の中での練習など子供の頃から慣れている俺でさえ辟易するくらいだから、部員の中には彼女を見ると歓声まで上げる連中がいる。俺も、不思議なほど心が弾んだ。
三年になって、彼女と奇妙な縁ができた。きっかけ自体は決して喜ばしいものではなかったが、彼女と話す機会ができたのは悪い事ではない。
その頃からやけに目に付くようになった。彼女が、何かを見上げる姿。
それは例えばテストの順位の発表であったり、(彼女は俺とは違って頭がいいので、学年で20人も張り出されれば必ず入っている)何かのポスターであったり、そして、自動販売機であったりする。
俺はもともと背が高い方で、あまり何かを見上げるという事をしない。
けれども彼女は自動販売機の前に立つと首を上に傾けて、それでも足りないといわんばかりに踵を少し上げて、じっとみつめて眉をきゅっと寄せる。唇に指をあてるのはクセなのだろうか。
そうして、もう一度眉を寄せてから、今度は指が彷徨う。結局押すのは同じボタンなのに、彼女はいつも一通り同じ仕草をする。
その指に、今度は目を奪われた。白い指。美しく整えられた桜色の爪。
母や祖母の荒れた手とは全く違うその華奢な作りに、眩暈がするような気がした。触れたい、という強い衝動が起こった。
6月ごろ、新渡戸と桂木の痴話喧嘩に唐突に巻き込まれ、がくりとうなだれた彼女の頭にそっと触れてみた。
きちんと手入れをされているのが俺にさえ分かる細めの髪はふわりと一度手のひらに吸い付いて、すぐに離れた。触れているのに本当は触れていないのだと錯覚させるその髪はまるで彼女そのものだ。
惜しくなって二度三度と触れた。……以来、癖になってしまった。
本人にはどうやら自覚が無いようだが、彼女は注目を浴びてしまう人間だ。いい意味でも、悪い意味でも。
そもそも剣道部が彼女を終了の合図にしたのも、遠目からでもすぐに判別できてしまうせいだ。容姿も振る舞いの一つ一つも、何故か目を引いてしまう。
それなのに外界にまったく興味が無いというように、拒絶する空気を纏っている。彼女は、不可侵の花のようだった。薔薇のような棘は無く、ただ触れるのを躊躇わせる花。
裕福な家のお嬢様なのだと聞いた。なるほど、いままで俺の周りにいた女性とは大分違うのはそのせいなのだろう。俺はどちらかと言うと男勝りな女性しか知らなかった。彼女のいかにも女性らしい雰囲気は、なんだか胸が痛くなるほど可憐に思えた。
色素が薄めなのは両親のどちらかが外国人であるかららしい、という噂も聞いた。つくづく俺とは世界の違う人物だと感じるのに、俺はまだ、気がつけば彼女を目で追っている。
想像してみた。彼女の恋人として隣に立つ自分を。
気の利いたことひとつ言えない、笑顔さえ得意ではない。何をしてやればいいのか分からない。彼女を喜ばせてやることもできない自分を。
俺は剣道以外に何一つとりえの無いつまらない人間なのだ。ただ黙ってその髪に触れるのが精一杯で、それ以上は指一本動かせない。
木偶の坊の様に彼女の隣に立って、自分からは何も話そうとしない俺を気遣って一生懸命話題を探してくれる彼女の言葉に、頷く事しかできない。滑らかに言葉をつむぐその唇に、確かに心がざわめくのに。
そうだ、きっと今と何一つ変わることなどできない。
夏休み中、剣道部の合宿先で彼女が話題に上ったことがあった。
初めは彼女に関する噂、成績の事、容姿の可愛らしさなどをぽつりぽつりと話していたのだが、だんだんと卑猥な単語がでてきて(俺達の年頃では仕方の無いことではあるが)とうとう聞くに堪えないほど好き勝手言い出した。彼女にこうさせたい、だの、どんな格好をさせたい、だの。
俺はその時、怒りで血が逆流するような気がした。彼女がそんなことをするものかと、怒鳴り散らしてやりたくなった。
けれども結局俺はただ黙って部屋から出て、上った血が落ち着くまで一人素振りをしていただけだ。何も言えない。彼女のために、何もしてやれない自分が不甲斐なかった。
夏休みがあけた頃から、光山と二人でいるのをよく見かけるようになった。傍目からでも二人はお似合いで、どこにも他人の入る余地はないような印象を受けた。
常に穏やかに他人を拒絶する彼女が、光山に対しては素直に感情をぶつけているのを目にした事もある。そんな彼女を光山は、眩しそうに目を細めて、信じがたいほど柔らかく笑っていた。
あぁ、そうだろうとも。彼女には光山のような男が似合っている。家柄も、頭も、容姿も、俺ではとても敵わない。彼女を噂や下種な話題からうまく守ってやる事もできない俺が彼女を望むなんて間違っている。分かっている。
あいつならきっと全てうまくやるのだろう。笑いながらさらりと全ての悪意をかわして、そうして彼女の心も手に入れるのだろう。
けれども、彼女が変わらず俺を見上げて笑ってくれるので、俺はつい手を伸ばしてしまうのだ。
俺が望む事はただひとつ。叶えてくれるならそれ以上はもう望まない。
ただ、その、白い指に。桜色の爪に、くちづけたい。
そう言ったら、笑って許してもらえるだろうか?
「どうかした? 竜胆君」
「……なんでもない」
「そう?」
…………本当は、彼女の全てが欲しいのだけれど。