⑧個人的体験における自我の喪失 ー『エロティシズム』ジョルジュ・バタイユ
人称の地平からすべり落ちること、非人称で無名の世界、それは自我、自意識の完全な消滅であり、その時には、もはや誰もいない、ということだ。
私も君も消滅すること、それが融合なのだ。暴力的で、恐ろしい苦痛であるとともに快感、時には恐怖や狂気さえも引き起こしかねない苦痛と快感だ。
なぜなら、それは死を意味するからだ。
なぜ暴力的であるのか、なぜ苦痛で、恐怖を引き起こすのか、それはオルガスムの一瞬、つまり自我の喪失の一瞬を体験するということが、死を垣間見てしまうということだからである。自我や自意識、主体であることの喪失とは詩を意味するからだ。
人間は自意識、自我が、主体であることを失うことを最も恐れている。この自意識、自我、主体をバタイユ(Georges Bataille, 1897-1962)が執拗なほどに言い続けた”非連続性”になぞらえてみるのは、無謀だろうか。「生殖は非連続の存在に活を入れる。生殖する存在は、互いに他とは別のものであり、生まれてきた存在は、かれらが彼らを生み出した存在とは別のものであるように、彼らたちのあいだでも、互いに別のものである。個々の存在は、他の一切の存在と別のものである。その誕生も、その死も、その生きているあいだの出来事も、他の存在にとって何らかの利害関係はあるにせよ、直接にはその存在のみに関係のあることである。個々の存在はひとりで生まれ、ひとりで死ぬのである。ある存在と他の存在とのあいだには深淵があり、非連続性がある。」(ジョルジュ・バタイユ 澁澤龍彦訳『エロティシズム』二見書房 P18)
バタイユが、その著書「エロティシズム」(Erotism,1964)の序論において、
”非連続性”という言葉を初めてもちだしているのが、この部分である。ここに書かれている、ある存在と他の存在とのあいだにある深淵、それは自我と他者との境界という意味を含んではいないだろうか。そして”非連続性”には、自我、主体であることを含んではいないだろうか。バタイユは、更に次のように続けている。「この深淵は、たとえば私の話を聞いているあなた方と、あなた方に話している私との間にも在るのである。私たちは交流しようとする。しかし、渡したしのあいだのどんな交流も、ある根本的な差異を除き去ることは不可能であろう。あなたが死ぬとしても、死ぬのは私ではないのだ。私たちは、あなたも私も、非連続性の存在なのである。」(ジョルジュ・バタイユ 澁澤龍彦訳『エロティシズム』二見書房 P18)
絶対的に交流不可能であること、バタイユの言う非連続性が、自我、自意識、主体であることだと言ってしまうのは、あまりに乱暴すぎるだろう。しかし、この非連続性の中に、それらが含まれているというのは、不可能ではないだろう。私には、交流を不可能にしているのは、自我や自意識、主体であることが主要な原因のように思えるのだ。
ーつづくー




