⑥個人的体験における自我の喪失 ー『倦怠』モラヴィア
エピローグにおいて、ディーノは知る。木は木として存在することを。自分と何かつながりがあるかどうかとは無関係に、木はただそこに存ることを知る。木は何のためのものなのか、なぜそこに在るのか、自分にとって何なのか、自分との間にはつながりがあるのか。あるとしたら、どのようなつながりなのか、木にとって自由とは何なのか、そして自分にとって木とは何なのか、という問いを解き明かそうとしなくとも、そのような問いは最初から問いとしてあり得ないとしても、木は存在しているのである。自分とは独立した存在であることを、ディーノは理解する。
「私は、ここに、この病院にいて、彼女は遠く離れたポンツァにあの俳優といる。そして私たち二人はたがいに、彼女は私とはなんの関係もなく、また私も彼女とはなんの関係もない存在であり、私が彼女からは独立した存在であるように、彼女も私からは独立した存在なのだ、と。要するに、私はもはや彼女を所有しようとは思わず、彼女がありのままに生きていくのを眺めようと、つまり、窓ガラス越しにその木を眺めるのと同じように彼女を眺めようと思ったのである。」(モラヴィア 河盛好蔵・脇功 訳『倦怠』河出文庫 P389)
ディーノはこのようにチェチリアを諦めた。厳密に言うと、彼女を所有しようとすることを諦めた瞬間から、チェチリアが彼にとって存在しはじめたことに、驚きを覚えるのである。その瞬間から、初めて、心から彼女を愛しているのだと思える、とエピローグにおいて語る。
対象を理解できないこと、それは彼にとって自分とのつながりがない、すなわち所有できないということを意味していた。ディーノは世界(他者・対象)を理解しようとし、分析し、理論化しようとしていた。自己の思考体形に世界を適応させようとしていた。そして、セックスを、世界、他者を自分のものにするための手段としてしまっていたのである。
「いつもなら肉体的所有はそれに先立つ精神的な所有の繰り返しにすぎず、チェチリアを非現実的な不条理なものに感じさせる倦怠を私に確認させるのみであったが、今度はその肉体的所有は彼女を真に所有することは不可能だということを私に感じさせたのであった。彼女を虐待し、締めつけ、噛みつき、そして彼女の中に入りこもうとも、私はチェチリアを所有することができず、彼女はどこか別の場所にいるのであった。私は無益な苦痛からでも逃れるように彼女のセックスから抜け出ると、依然腹立たしい気持ちのしずまらぬまま、ぐったりとしてしまった。」 (モラヴィア 河盛好蔵・脇功 訳『倦怠』河出文庫 P184)
ここには、セックスに対する幻想を見ることができる。セックスを所有する、客体を主体の中に取り込もうとすることの第一義的な手段としてしまっているのだ。肉体的所有、精神的所有、いずれも理解しがたい言葉である。肉体的所有、それは人間をモノとして扱えるならば、可能かもしれない。しかし、精神の場合、言うべくもなく不可能だ。字義そのものにおいて間違っていると言えるかもしれない。そもそも、精神という、この形のない、どのようにもなり得るもの、あらゆるものを包含することができるようでもあるし、空っぽにもなり得る、陰にも陽にも向かうもの、そして同時にあらゆるところへ向かうことができるもの、そのようなものを所有することができるだろうか。ましてや他者の精神というものを所有できるはずがないのではないか。また、セックスにおいて所有ということは起こり得ないのではないだろうか。なぜならば、そこには「主」も「客」も存在しないからである。
ーつづくー




