タイトル未定2026/02/24 04:55
――前書き
この物語は、
「戻れなかった人」たちの話ではありません。
失ったものを、取り戻すための物語でもありません。
誰にでもひとつはある、
思い出すたびに胸の奥が少しだけ痛む場所。
言えなかった言葉。
守れなかった約束。
選ばなかった未来。
それらを――
忘れるためでも、消すためでもなく、
抱え方を変えるための物語です。
もし、あなたにも
夜になるとふいに思い出してしまう人や、
あの日の自分にだけ戻れたらと思う瞬間があるなら。
この話に出てくる「かえれる店」は、
きっと、遠い世界の不思議な店ではありません。
それは、
あなたの胸の奥にある
“前に進めなくなっていた場所”の、すぐそばにあります。
この物語は、
何かを失った人のためではなく、
それでも生きている人のために書かれました。
どうか最後の一行まで、
あなた自身の歩幅で、読んでください。
ーー第1章 「かえれる店」
その店のドアは、夜の23時59分になると、音もなく別の場所へ繋がるらしい。
中洲の裏通りにある、小さなネオンの消えかけたバー。
看板にはもう文字が読めないのに、なぜかみんなそこを
「かえれる店」って呼んでいた。
「……ここ、初めて?」
隣でそう聞いてきた女の子は、
さっきまでステージに立っていたはずなのに、
今はもう仕事の匂いが一切しなかった。
私は、うなずくだけでドアノブに手をかける。
その瞬間――
背後で、はっきりと誰かの声がした。
「入ったら、ひとつだけ置いていかなきゃいけないよ」
私は振り返る。
でも、そこには誰もいなかった。
そして、
時計が23時59分を指した。
ドアが、ひとりでに開く。
ドアの先には幼少期の自分にそっくりな子供と今は亡き母親がいた。
「.........おふくろ」
声をかけたが伝わらず、手を伸ばしても触れられない。
2人は仲良くオムライスを食べていた、しかし自分の中に母と一緒の食卓に着いた記憶など全くない。
幼くして父を亡くし女手一つで働き私をやしなっていた母。
朝早くに家を出夜遅くに帰る。
そんな母と食事を共にした記憶などないはずだ。
幼少期一体何度願っただろう、一体何度こがれただろう、母と一緒に食事をしたい、そんな小さなわがまますら届かぬまま8年前に母は過労により他界した。
しかし目の前に広がっているのは私の望んだ、欲した光景だ、そう思い涙を流した瞬間、時計の針は00時00分となり、ドアはひとりでに閉じた。
ドアが閉じた音は、やけに小さかった。
けれど胸の奥では、何かが崩れる音がはっきりと鳴っていた。
気がつくと、私はさっきの路地に立っていた。
ネオンは完全に消え、あのバーがあったはずの場所には、
ただの古いシャッターが降りているだけだった。
……夢?
そう思おうとして、
コートのポケットに入れた手が、何かに触れた。
取り出したのは、
少し歪んだ、白いプラスチックのスプーン。
子どもの頃、家に一本しかなかった、あの形と同じだった。
「……置いていくもの、か」
さっきの声が、遅れて意味を持つ。
“入ったら、ひとつだけ置いていかなきゃいけない”
じゃあ、私は何を置いてきたんだ。
記憶?
後悔?
それとも――母に会いたいと願い続けていた、この気持ちそのものか。
そのとき、胸の奥にあったはずの痛みが、
不自然なほど静かになっていることに気づいた。
悲しい。
寂しい。
苦しい。
そう思い出そうとしても、
感情の輪郭が、うまくつかめない。
代わりに浮かんできたのは、
湯気の立つオムライスと、
母が少しだけ照れたように笑う横顔だった。
――ああ。
ようやく、わかった。
さっき見たのは、過去じゃない。
あれはきっと、
“私が連れて行かなかった未来”だ。
母と食卓を囲むことを、
諦めてしまった瞬間に、分かれてしまった世界。
だから、触れられなかった。
だから、声も届かなかった。
ポケットの中のスプーンを、強く握りしめる。
すると、不意に背後から、あの声がした。
「ちゃんと、置いてきたね」
振り返ると、
いつの間にか、シャッターの前に小さな影が立っていた。
顔は見えない。
けれど、なぜか分かった。
「……次は?」
そう聞くと、影はゆっくり首を振る。
「次はないよ」
「ここはね、
“戻りたい人”のための場所じゃなくて、
“前に進めない人”のための場所だから」
静かな声だった。
「じゃあ……俺は?」
影は少しだけ間を置いて、こう言った。
「もう、ひとりでご飯が食べられるでしょ」
その言葉と同時に、
胸の奥に、ぽつんと灯りがともる。
痛みじゃない。
後悔でもない。
――あたたかい、なにか。
顔を上げたときには、影も、店も、もうなかった。
代わりに、スマホが震える。
時刻は、00時01分。
私は歩き出す。
明日も、きっと忙しい。
誰にも気づかれず、くたくたになる一日だ。
それでも。
いつか誰かと、
同じテーブルに座る未来を、
今度はちゃんと選べるように。
ポケットのスプーンを、そっと元に戻して、
私は夜の通りを、まっすぐ進んだ
ーー第2章「置いてきた約束」
その店は、やっぱり分かりにくい場所にあった。
中洲の裏通り。
終電を逃した人のため息と、
濡れたアスファルトの匂いが混ざる路地。
私は、ビルとビルの隙間に立っていた。
スマホの画面は、さっきからずっと同じ通知を表示している。
『明日の朝会、資料修正しておいて』
『さっきのミス、君の責任だから』
時刻は、23時58分。
今日も残業。
今日も怒鳴られて、
今日も、笑って「すみません」って言って、
……正直、
もう、限界だった。
「……ほんと、疲れた」
誰にも聞こえない声で、そう言ってから、
ふと前を見る。
ネオンが消えかけた、小さなバー。
看板は読めないのに、
なぜか胸の奥だけが、名前を知っている。
――かえれる店。
ここに来たら、
少しだけ楽になれる気がした。
理由は分からない。
でも、
今の私には、
その「気がする」だけで十分だった。
ドアノブに手をかけた瞬間、
背後から、静かな声がした。
「入るなら、ひとつだけだよ」
振り返る。
誰もいない。
でも、その声は、
はっきりと続いた。
「ちゃんと、置いていける?」
意味は分からない。
けれど、
聞き返す気力もなかった。
時計が、23時59分を指す。
カチ、と音がして、
ドアが、ひとりでに開いた。
中は、信じられないくらい静かだった。
白い床。
低い天井。
壁には、何もない。
ただ――
窓のそばに、
二人分のイスと、小さなテーブル。
そして、
片方のイスに座っている人を見た瞬間、
私は、息を止めていた。
……お兄ちゃん。
亡くなったはずの、
私の、兄。
学生服のままの姿で、
あの頃と同じように、
少し猫背で座っている。
その向かい側には――
若い頃の、私。
高校生くらいの私が、
落ち着かない様子でイスに座っていた。
「……」
声が、出ない。
兄は、テーブルの上に置かれたゲーム機を見ながら、
困ったように笑っている。
「なあ、結局やれなかったな」
若い私が、うつむいて答える。
「……ごめん」
小さな声。
その一言で、
胸の奥が、きつく締まった。
思い出した。
中学の終わり頃。
兄が言った。
「落ち着いたらさ、
一緒に旅行行こうぜ」
「近場でいいから。
温泉とか」
「あと、ゲームも。
昔みたいにさ」
私は、笑って言った。
「うん、いつかね」
その“いつか”のまま、
兄は、
帰ってこなくなった。
事故だった。
ある日突然だった。
私は、
仕事が忙しくなる前で、
まだ学生で、
それなのに、
あの日も私は、
「また今度ね」
って言って、
ちゃんと顔を見て話すことすら、
しなかった。
私は、ふらふらと一歩前に出る。
「……お兄ちゃん」
声は、届かない。
兄は、私を見ない。
若い私とだけ、
小さく笑い合っている。
ふと、壁の一部に、
ガラスの棚があることに気づいた。
そこには、
小さな箱が、いくつも並んでいた。
ラベルもない。
でも、なぜか分かる。
あれは――
約束だ。
先延ばしにした約束。
いつかやろう、と言って逃げた約束。
本当は、怖くて避けた約束。
私は、一つの箱を手に取る。
指が、少し震えた。
触れた瞬間、
胸の奥から声があふれ出した。
「今は無理」
「忙しいから」
「落ち着いたらね」
全部、
私の声だった。
……違う。
本当は、
怖かっただけだ。
大人になるのも、
家族と向き合うのも、
ちゃんと誰かの時間を
自分のために使うのも。
そのとき、
兄の声が聞こえた。
「無理しなくていいって」
私は、はっと顔を上げる。
でも、兄は私を見ていない。
若い私に向かって、言っている。
「お前さ、
いつも平気な顔するよな」
「でもさ」
少しだけ、
照れたみたいに笑って、
「俺は、お前がちゃんと笑ってるほうがいい」
胸の奥が、熱くなる。
でも同時に、
別の感情が、
どろっと浮かび上がってきた。
……私は今、
笑ってない。
毎日、
パワハラに耐えて、
帰りの電車で泣くのをこらえて、
「消えたら楽かな」
って、
何度も考えている。
兄が守りたかった私から、
一番遠い場所に、
私は立っている。
背後で、あの声がした。
「それ、持って帰る?」
振り返らずに、分かった。
この箱のことだ。
私は、
兄との約束が詰まった箱を、
胸に抱えていた。
「……持って帰ったら」
声が、かすれる。
「私、多分、
ずっと後悔したままになる」
「お兄ちゃんに会えなくて、
苦しいままになる」
少しだけ、間があって。
静かな声が言う。
「でも、それは」
「生きてる人の痛みだよ」
私は、
ゆっくりと箱を棚に戻した。
怖かった。
これを置いていったら、
兄のことまで、
忘れてしまいそうで。
でも――
違った。
箱から手を離した瞬間、
胸の奥にあった重さが、
形を変えただけだと分かった。
消えたんじゃない。
私の中に、
ちゃんと残った。
時計が鳴る。
23時59分。
そして――
00時00分。
若い私は、
兄に向かって、
少しだけ胸を張って言った。
「今度は、ちゃんと行こう」
兄は、笑ってうなずく。
その顔は、
私の知っている最後の兄よりも、
ずっと穏やかだった。
ドアが、静かに閉まる。
気づくと私は、
あの路地に立っていた。
ネオンは消えていて、
シャッターの下りた壁だけが残っている。
……夢?
バッグの中に手を入れる。
指先に触れたのは、
古いキーホルダー。
学生の頃、
兄とゲームセンターで取った、
安っぽい景品。
……いつも、
入れてたっけ。
背後から、声。
「ちゃんと、置いてきたね」
シャッターの前に、
小さな影が立っている。
顔は見えない。
私は、聞いた。
今の私が、
一番知りたかったことを。
「……私さ」
「まだ、生きてていいのかな」
影は、すぐに答えた。
「うん」
「だって、
約束を置いてきた人はね」
「これから、
守りに行ける人だから」
スマホが震える。
00時03分。
上司からのメッセージ。
『明日、早めに来れるよね?』
親指が、一瞬止まる。
……でも、
今日は、
初めて打った。
『明日は無理です。体調が限界なので休みます』
送信。
怖かった。
心臓が、痛いくらい鳴っていた。
それでも――
ポケットの中で、
キーホルダーが、
小さく揺れた気がした。
私は、歩き出す。
もう、
消えるためじゃなくて、
生きるほうへ。
あの人と、
「いつか」を取り戻すためじゃない。
これからの私が、
ちゃんと笑うために。
ーー第3章「置いていけなかった言葉」
こんなところに、
店なんてあっただろうか。
中洲の裏通り。
若い頃、仕事帰りに何度も通ったはずの路地だ。
それなのに私は、
細い路地の奥ににじむように光るネオンを見て、
思わず立ち止まってしまった。
「……こんな場所、知らなかったな」
七十年、生きてきた。
この街で働き、
この街で暮らし、
この道も何度となく通ってきたはずなのに。
それでも、
この店だけは――
まるで、今日まで
存在していなかったみたいだった。
杖をついて、ゆっくり近づく。
ネオンは消えかけていて、
看板の文字もほとんど読めない。
ただ、
胸の奥が小さくざわついた。
理由は分からない。
けれど、不思議と――
懐かしいような気がした。
時刻は、23時59分。
「……こんなところに、バー、ねえ」
独り言は、夜に吸い込まれた。
ドアノブに手を伸ばした、その瞬間。
背後から、ひどく静かな声がした。
「ひとつだけだよ」
私は思わず振り返る。
……誰もいない。
聞き間違いかと思った、その直後。
「今度は、ちゃんと置いていける?」
今度は、はっきり聞こえた。
意味は、分からない。
でもなぜか――
聞き返す気にはならなかった。
カチリ、と小さな音がして、
ドアは、ひとりでに開いた。
中は、ひどく明るかった。
白い床。
白い壁。
白い天井。
まるで、
長い時間の汚れだけを削ぎ落としたような部屋。
その真ん中に、
小さな食卓がひとつ。
湯のみが二つ。
そして――
向かいの椅子に、
妻が座っていた。
……おばあさん、じゃない。
私が最後に見た姿じゃない。
背筋はまっすぐで、
白髪もまだ少なくて、
エプロン姿のまま、
湯のみを両手で包んでいる。
少し若い。
私が、一番よく覚えている頃の妻だった。
「……」
名前を呼ぼうとして、
喉が鳴った。
声にはならなかった。
妻は、私を見ない。
ただ、
向かいの椅子を見つめている。
そこには――
若い頃の私が座っていた。
仕事着のまま、
少し疲れた顔で、
テレビを見ている。
「……悪い。今日はちょっと忙しくてさ」
若い私が言う。
妻は、少しだけ笑った。
「うん。分かってるよ」
その声が、
やけにやさしくて、
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
思い出した。
あの日も、こうだった。
夕飯はできていて、
妻は待っていて、
私は、
「あとで」
「明日でいいだろ」
「今は無理だ」
そればかりだった。
病気の話も、
体がだるいという言葉も、
検査が怖いという声も、
全部、
「大丈夫だろ」
で、終わらせた。
……謝りたかった。
もっと早く。
もっと、何度も。
若い私は立ち上がる。
「じゃ、行ってくる」
妻は、小さくうなずいた。
「気をつけてね」
その背中を見送る横顔は、
どこか、
ほんの少しだけ、
寂しそうだった。
私は、一歩、前に出る。
「……ごめんな」
小さく言った。
でも、届かない。
声は、白い部屋に溶けるだけだった。
ふと、
壁の端に、ガラスの棚があるのが目に入った。
小さな棚。
その上には、
小さな瓶が、いくつも並んでいる。
中には、
折りたたまれた紙が入っていた。
ラベルはない。
それでも、分かった。
あれは――
言葉だ。
言えなかった言葉。
飲み込んだ言葉。
「あとで言おう」と思いながら、
結局、言わなかった言葉。
私は、
一番手前の瓶を手に取る。
指先が、わずかに震えた。
触れた瞬間、
胸の奥から声があふれ出す。
「ありがとう」
「無理させてたな」
「怖かったんだ」
「一人にして、ごめんな」
全部、
私の声だった。
……遅すぎる声だった。
瓶を、ぎゅっと握る。
これを持って帰れば、
私はきっと、
これからもずっと、
言えなかった自分を抱えて生きる。
妻に言えなかったことを、
誰にも言えないまま、
悔やみ続けて生きる。
背後で、あの声がした。
「それ、持ってく?」
私は、うつむいたまま答えた。
「……持って帰ったら」
喉が、少し詰まる。
「たぶん」
「一生、謝り続ける」
少しの間。
それから、静かな声。
「それはね」
「生きてる人の後悔だよ」
私は、
ゆっくりと瓶を棚に戻した。
指を、離す。
怖かった。
この人のことまで、
薄れてしまうんじゃないかと。
でも――
違った。
瓶から手を離した瞬間、
胸の奥にあった重さが、
すっと、ほどけただけだった。
消えたわけじゃない。
言葉にならなかった想いが、
ただ、
形を変えただけだった。
時計の音がする。
23時59分。
そして――
00時00分。
妻が、ふいに顔を上げる。
向かいの若い私に向かって、
少し困ったように笑った。
「無理しないでね」
その声は、
私が最後に聞いた声よりも、
ずっと、やさしかった。
ドアが、静かに閉まる。
気がつくと、
私は路地に立っていた。
ネオンは消え、
古いシャッターだけが残っている。
……やはり、夢だったのか。
コートのポケットに手を入れる。
指先に触れたのは、
小さな鍵。
引き出しに入れっぱなしだった、
妻の裁縫箱の鍵だった。
……いつから、持っていたんだろう。
背後から、あの声。
「ちゃんと、置いてきたね」
シャッターの前に、
小さな影が立っている。
顔は見えない。
私は、聞いた。
今さらかもしれない。
それでも、どうしても。
「……私は」
「まだ、前に行っていいんでしょうか」
影は、すぐに答えた。
「うん」
「だって」
「言葉を置いてきた人はね」
「これからは、ちゃんと伝えられる人だから」
ポケットの中で、
小さな鍵が、かすかに触れ合った。
私は、歩き出す。
帰る家は、まだある。
会いに行ける人も、いる。
娘も、孫も、
近所のあの人も。
妻に言えなかった言葉は、
もう、取り戻せない。
でも、
これから言える言葉は、
まだ、残っている。
「ありがとう」
「元気かい」
「無理しないでね」
小さく、ひとつ、口に出してみる。
夜の通りに、
その声は、ちゃんと残った。
今度は――
置いていかないために。
ーー第4章「埋めていた場所」
その店は、
僕の記憶の中では、
一番“似合わない場所”にあった。
中洲の裏通り。
ネオンが滲んで、
夜の湿った空気が肌にまとわりつく路地。
スーツのまま、
僕は立ち止まっていた。
スマホの画面には、
さっきまで見ていた海外支社とのチャットが残っている。
『明日のプレゼン、修正案を至急』
『現地時間で6時からミーティング可能ですか』
……可能に決まっている。
僕は、そうやって生きてきた。
仕事は裏切らない。
努力した分だけ、結果が返ってくる。
孤独も、虚しさも、全部、仕事で埋められる。
少なくとも――
そう思ってきた。
ふと前を見る。
消えかけたネオン。
読めない看板。
小さなバーの扉。
胸の奥が、
ほんの少しだけ、沈んだ。
――かえれる店。
なぜか、その名前だけは、
はっきり分かった。
時計を見る。
23時59分。
僕は、無意識にドアノブに手をかけていた。
その瞬間、
背後から、あの静かな声がした。
「ひとつだけだよ」
振り返る。
……誰もいない。
「ちゃんと、置いていける?」
意味は分からない。
けれど、
その問いだけが、
胸の奥に引っかかった。
カチ、と音がして。
ドアが、ひとりでに開いた。
中は、驚くほど、やさしい光に満ちていた。
白すぎない壁。
低い天井。
木の床。
まるで――
時間が、静かに止められた部屋。
その真ん中に、
小さな丸いテーブル。
そして。
テーブルのそばで、
小さな椅子にちょこんと座っている子がいた。
……娘だ。
四歳で、亡くなった、
僕の娘。
小さな手で、
クレヨンを握っている。
その隣には、
妻がいた。
病院で見た、
あの青白い顔じゃない。
少し疲れたようで、
でも、穏やかに笑う、
いつもの妻だった。
僕の喉が、きゅっと鳴る。
「……」
名前を呼ぼうとして、
声が出なかった。
二人は、
僕を見ていない。
テーブルの反対側。
そこに――
若い頃の僕が立っていた。
スマホを耳に当てたまま、
スーツケースを足元に置いて。
「ごめん、もう行かなきゃ」
若い僕が言う。
妻は、少し困ったように笑った。
「うん。気をつけてね」
娘は、
僕の足にしがみついている。
「パパ、いつかえってくるの?」
若い僕は、
しゃがみ込まずに、
立ったまま答えた。
「すぐだよ」
「お仕事、終わったらね」
……嘘だ。
すぐ、なんて言葉は、
僕の口癖だった。
すぐ。
今度。
落ち着いたら。
その全部が、
仕事の後ろに隠れていた。
場面が、にじむように変わる。
白い廊下。
眩しすぎる蛍光灯。
医師の口が、
何かを説明している。
電話口の向こうで、
誰かが泣いている。
――交通事故。
――意識不明のまま搬送。
――間に合わなかった。
僕は、その場にいなかった。
海外のホテルの一室で、
時差にぼんやりした頭のまま、
ただ、
「……そうですか」
とだけ言った。
一歩、前に出る。
「……ごめん」
小さく、つぶやく。
でも、届かない。
娘は、クレヨンで
紙に丸を描いて、
妻と一緒に笑っている。
ふと、壁の奥に、
小さな棚があることに気づいた。
ガラスの棚。
その上には、
黒くて薄い、手帳のようなものが
いくつも並んでいた。
表紙には、何も書いていない。
でも、分かった。
あれは――
仕事だ。
正確には、
僕が仕事に逃げ込んだ時間。
家に帰らなかった夜。
娘の発表会を断った午後。
妻の「話があるんだけど」を遮った瞬間。
僕は、一冊を手に取った。
触れた瞬間、
胸の奥から、声があふれ出した。
「今は無理だ」
「この案件が終わったら」
「会社のためだ」
「家族のためだ」
全部、
僕の声だった。
……違う。
本当は、
怖かっただけだ。
ちゃんと父親になるのも、
夫になるのも、
仕事がなくなった自分が、
空っぽになるのが。
背後で、
あの声がした。
「それ、持って帰る?」
僕は、しばらく黙っていた。
そして、正直に答えた。
「……持って帰ったら」
喉が、少し震える。
「僕はきっと」
「これからもずっと」
「仕事がないと、生きられない」
少しの沈黙。
それから、
静かな声が言った。
「それはね」
「生きてる人の、埋め方だよ」
……埋め方。
胸の奥に、
その言葉が落ちる。
僕は、ゆっくりと、
手帳を棚に戻した。
指を、離す。
怖かった。
この子のことまで、
薄れてしまう気がして。
妻の声も、
笑い方も、
忘れてしまいそうで。
でも――
違った。
手帳から手を離した瞬間、
胸の奥にあった重たい塊が、
静かに、形を変えただけだった。
消えたわけじゃない。
ただ、
仕事で塞いでいた場所が、
少しだけ、空いた。
時計の音がする。
23時59分。
そして――
00時00分。
娘が、ふいに顔を上げる。
妻のほうを見て、
小さく言った。
「ママ、みて」
紙いっぱいに、
下手な丸と線で描かれた絵。
三人が、手をつないでいる。
妻は、やさしく笑った。
「パパ、だね」
胸が、ぎゅっと縮む。
でも、不思議と、
苦しさじゃなかった。
ドアが、静かに閉まる。
気がつくと、
僕は路地に立っていた。
ネオンは消え、
シャッターの下りた壁だけが残っている。
……やはり、夢か。
スーツの内ポケットに手を入れる。
指先に触れたのは、
小さな折り紙。
少しよれた、
ピンク色のうさぎ。
……娘が、昔、
無理やりポケットに入れてきたものだ。
背後から、あの声。
「ちゃんと、置いてきたね」
シャッターの前に、
小さな影が立っている。
顔は、見えない。
僕は、聞いた。
ずっと、
仕事の裏に隠してきた問いを。
「……僕は」
「今さらでも、父親でいていいのかな」
影は、すぐに答えた。
「うん」
「だってね」
「居場所を置いてきた人は」
「これから、帰れる人だから」
スマホが、震える。
00時02分。
海外支社からの通知。
『今から通話できますか?』
僕は、画面を見つめて――
初めて、
すぐに返さなかった。
代わりに、
短く打つ。
『今日は無理です。明日、改めて連絡します』
送信。
胸の奥で、
なにかが、静かにほどけた。
僕は、歩き出す。
仕事へ戻るためじゃない。
仕事しかなかった場所に、
もう一度、
誰かを迎えに行くために。
ポケットの中で、
小さな折り紙が、
かすかに鳴った。
――帰れる場所は、
まだ、僕の中にあった。
ーー第5章「言えなかった、ごめんね」
その店は、
放課後の帰り道には、絶対に似合わない場所にあった。
中洲の裏通り。
制服のスカートに、夜の湿った風がまとわりつく。
「……こっち、通るんじゃなかったな」
スマホの地図が、近道だって言っただけだ。
それだけの理由。
なのに私は、
細い路地の奥で、にじむみたいに光るネオンを見て、
足を止めていた。
消えかけた看板。
小さなバーのドア。
胸の奥が、ひくっと鳴る。
……かえれる店。
誰にも教わってないのに、
その名前だけは、はっきり分かった。
スマホを見る。
23時59分。
「……バッカみたい」
小さくつぶやいて、
それでも私は、ドアノブに手を伸ばしていた。
その瞬間。
背後から、あの声。
「ひとつだけだよ」
びくっとして振り返る。
……誰もいない。
でも、続けて聞こえた。
「ちゃんと、置いていける?」
意味は分からなかった。
けど、
なぜかそれが――
今の私に向けられた言葉だってことだけは、分かった。
カチ、と音がして。
ドアが、ひとりでに開いた。
中は、やけに静かだった。
白い床。
低い天井。
窓のない、小さな部屋。
真ん中に、
小さな丸いテーブルと、
二つのイス。
そして。
片方のイスに座っていた女の子を見た瞬間、
私は、息を止めた。
……みき。
幼なじみで、
親友で、
最後は、
喧嘩したまま、会えなくなった子。
短く切った髪も、
少しだけそばかすの残る頬も、
全部、知ってるままだった。
その向かい側には――
中学生くらいの、私。
リュックを足元に置いて、
腕を組んで、そっぽを向いている。
「……」
声が出ない。
あの子は、私を見ない。
若い私のほうだけを見て、
ちょっと拗ねたみたいに言った。
「まだ怒ってんの?」
若い私は、ムッとしたまま答える。
「怒ってないし」
あの言い方。
……嘘つく時の声だ。
思い出す。
引っ越しが決まった日のこと。
私は、言った。
「別に、しょうがなくない?」
「どうせ、またすぐ会えるし」
本当は、
寂しくて、
怖くて、
泣きそうだったのに。
あの子は、少しだけ黙ってから、
「……そっか」
って笑った。
そのあと。
どうでもいいことで喧嘩して。
メッセージも返さなくなって。
結局――
「ごめんね」を言わないまま、
私は、いなくなった。
私は、ふらっと一歩前に出る。
「……ごめん」
小さく言った。
でも、届かない。
二人は、私の存在なんてないみたいに、
小さく笑っている。
ふと、壁の端に、
小さな棚があることに気づいた。
ガラスの棚。
その上には、
小さな紙飛行機が、いくつも並んでいた。
色も形も、少しずつ違う。
でも、なぜか分かる。
あれは――
言いそびれた言葉だ。
タイミングを失った言葉。
強がりの裏に隠した言葉。
私は、
一番手前の紙飛行機を、そっと手に取る。
指先が、震えた。
触れた瞬間、
胸の奥から、声があふれ出した。
「ごめんね」
「本当は、寂しかった」
「一緒に卒業したかった」
「ずっと、親友だと思ってた」
全部。
全部、
私の声だった。
……遅すぎる。
分かってる。
今さら、だ。
私は、紙飛行機をぎゅっと握る。
これを持って帰れば、
私はきっと、
これからもずっと、
あの日の廊下で止まったままになる。
謝れなかった自分を、
許せないまま、生きる。
背後で、あの声。
「それ、持ってく?」
私は、しばらく黙っていた。
それから、正直に言った。
「……持って帰ったら」
喉が、少し痛くなる。
「私」
「ずっと、あの子が人生に、入り込んだままになる」
少しだけ、間があって。
静かな声が言った。
「それはね」
「生きてる人の後悔だよ」
……生きてる人の。
胸の奥で、その言葉が、ゆっくり落ちる。
私は、
そっと、紙飛行機を棚に戻した。
指を、離す。
怖かった。
あの子のことまで、
薄れてしまうんじゃないかって。
声も、笑い方も、
全部、消えてしまう気がして。
でも――
違った。
紙飛行機から手を離した瞬間、
胸の奥にあった、ぎゅっとした痛みが、
少しだけ、ほどけただけだった。
消えたわけじゃない。
ただ、
重たい形のままじゃなくなっただけだった。
時計の音がする。
23時59分。
そして――
00時00分。
若い私は、
あの子のほうを見て、
小さく言った。
「……また、連絡するね」
あの子は、少し驚いた顔をしてから、
「うん」
って笑った。
その笑顔は、
私が最後に見た顔よりも、
ずっと、やさしかった。
ドアが、静かに閉まる。
気がつくと、
私は路地に立っていた。
ネオンは消え、
シャッターの下りた壁だけが残っている。
……夢、だよね。
制服のポケットに手を入れる。
指先に触れたのは、
小さなヘアゴム。
少し伸びた、
薄い水色のやつ。
昔、あの子が、
「貸してあげる」
って、半ば強引にくれたやつ。
……いつから、入ってたんだろ。
背後から、あの声。
「ちゃんと、置いてきたね」
シャッターの前に、
小さな影が立っている。
顔は、見えない。
私は、聞いた。
ずっと、胸の奥で腐りそうだった言葉を。
「……私さ」
「もう、あの子に謝れないのに」
「それでも、前に行っていいの?」
影は、すぐに答えた。
「うん」
「だってね」
「ごめんねを置いてきた人は」
「これからの人に、ちゃんと謝れる人だから」
胸の奥が、少しだけあったかくなる。
スマホが震える。
00時04分。
バレー部のグループ通知。
『明日、朝練あるから忘れないでね』
画面を見て、私は息を吸う。
ポケットの中で、
小さなヘアゴムを、ぎゅっと握る。
私は、歩き出す。
あの子に言えなかった「ごめんね」は、
もう、届かない。
でも。
これから出会う誰かに、
傷つけたあとに、
逃げないで、
ちゃんと伝えることは、できる。
夜の通りを、まっすぐ進みながら、
小さく、口に出してみる。
「……ごめんね」
今度は、
置いていかないために。
ーー第6章「まだ、胸の中にいる人」
その店は、
相変わらず、行く理由がない場所にあった。
中洲の裏通り。
金曜の夜なのに、僕の足取りだけが、やけに遅い。
コンビニの袋が、指に食い込んでいる。
中身は、ビールと、レンジで温めるパスタ。
……いつものやつだ。
スマホを見る。
23時58分。
特に連絡はない。
来るはずもない。
画面を閉じて、顔を上げたとき、
にじむようなネオンが、視界の端に入った。
消えかけた光。
読めない看板。
小さなバーの扉。
胸の奥が、ひどく、静かになった。
――かえれる店。
誰に教わったわけでもないのに、
その名前だけは、分かった。
「……はぁ」
自分でも分かるくらい、
重たい息が漏れた。
彼女が死んでから、二年。
ちゃんと働いて、
ちゃんと笑って、
ちゃんと「大丈夫です」って言って、
それなりに、生きている。
……ただ、
次の一歩だけが、
どうしても、出ない。
時計が、23時59分を指す。
気づけば、
僕はドアノブに手をかけていた。
その瞬間。
背後から、あの声。
「ひとつだけだよ」
びくっとして、振り返る。
……誰もいない。
でも、続けて、静かな声が落ちてきた。
「ちゃんと、置いていける?」
意味は分からなかった。
けれど、
その言葉が、今の僕に向けられていることだけは、
はっきり分かった。
カチ、と音がして。
ドアが、ひとりでに開いた。
中は、少しだけ暗かった。
あたたかいオレンジ色の照明。
木の床。
古いスピーカー。
まるで、
どこかの誰かの部屋みたいだった。
真ん中に、小さなソファと、低いテーブル。
そして――
ソファに座っている人を見た瞬間、
僕は、息を忘れた。
……彼女だ。
二年前に死んだ、
僕の彼女。
長い髪も、
笑うと少し細くなる目も、
全部、知っているままだった。
生きていた頃と、まったく同じ姿で、
ソファに座っている。
その隣には――
少しだけ若い、僕。
今より少し痩せていて、
無理してるのが分かる顔で、
彼女のスマホをのぞき込んでいる。
「なにそれ」
若い僕が言う。
彼女は、ちょっと照れたみたいに笑った。
「今日の写真」
画面には、
二人で撮った、どうでもいい自撮り。
「別に、消さなくてもいいじゃん」
「恥ずかしいって」
そんな、
どうでもいい会話。
でも。
胸の奥が、ぎゅっと鳴った。
思い出す。
あの日の前も、
こんなふうに、並んで座っていた。
仕事が忙しいだとか、
疲れてるだとか、
どうでもいい理由で、
少しだけ、空気が重くて。
それでも彼女は、
「ねえ、今度さ」
って言った。
「落ち着いたらでいいから」
「一緒に、旅行行こ」
僕は、
「いいね」
って言った。
ちゃんと笑って。
ちゃんと、未来みたいな顔で。
……でも。
その“今度”は、
来なかった。
場面が、にじむように変わる。
白い天井。
消毒液の匂い。
機械の音。
ベッドの上で、
細くなった彼女が、眠っている。
医者の口が、
何かを説明している。
――進行が早くて。
――見つかった時には。
――できることは。
僕は、
何度も「分かりました」と言って、
彼女の手だけを、
ずっと握っていた。
一歩、前に出る。
「……ごめん」
小さく、つぶやく。
でも、届かない。
ソファの彼女は、
若い僕に向かって、笑っている。
ふと、
部屋の端に、小さな棚があることに気づいた。
ガラスの棚。
その上には、
小さな写真立てが、
いくつも並んでいた。
全部、同じ大きさ。
でも、中の写真は、少しずつ違う。
彼女と笑っている僕。
彼女が寝落ちしている横顔。
コンビニの前で、ふざけて変なポーズをしている二人。
……分かった。
あれは――
僕の中に残してきた彼女だ。
忘れられなかった彼女。
手放さなかった彼女。
胸の奥に閉じ込めたままの彼女。
僕は、
一つの写真立てを手に取る。
指先が、わずかに震えた。
触れた瞬間、
胸の奥から、声があふれ出す。
「まだ好きだ」
「他の人なんて、無理だ」
「君じゃなきゃ意味がない」
「君がいないと、進めない」
全部。
全部、
僕の声だった。
……違う。
本当は。
彼女がいない世界で、
誰かを好きになる自分が、
怖いだけだ。
背後で、あの声がした。
「それ、持って帰る?」
僕は、しばらく黙っていた。
それから、
正直に言った。
「……持って帰ったら」
喉が、少し痛くなる。
「たぶん、僕」
「この先もずっと」
「彼女のいない人生を、始められない」
少しの沈黙。
それから、静かな声。
「それはね」
「生きてる人の、止まり方だよ」
……止まり方。
胸の奥で、その言葉が、静かに落ちた。
僕は、ゆっくりと、
写真立てを棚に戻した。
指を、離す。
怖かった。
この人のことまで、
消えてしまうんじゃないかって。
声も、匂いも、
笑い方も、
全部、薄れてしまうんじゃないかって。
でも――
違った。
写真立てから手を離した瞬間、
胸の奥にあった重たい何かが、
少しだけ、ほどけただけだった。
消えたわけじゃない。
彼女は、まだいる。
ただ、
僕の胸の真ん中じゃなくて、
ちゃんと、奥に座り直しただけだった。
時計の音がする。
23時59分。
そして――
00時00分。
ソファの彼女が、ふいに顔を上げる。
若い僕のほうを見て、
少しだけ困ったように笑った。
「無理しないでね」
その声は、
最後に聞いた声よりも、
ずっと、軽かった。
ドアが、静かに閉まる。
気がつくと、
僕は、あの路地に立っていた。
ネオンは消えていて、
シャッターの下りた壁だけが残っている。
……やっぱり、夢か。
ジャージのポケットに手を入れる。
指先に触れたのは、
小さな、指輪。
シンプルで、少し傷のついたやつ。
彼女が、
冗談みたいに言っていた。
「それ、いつかでいいからさ」
って。
……まだ、捨てられずにいた。
背後から、あの声。
「ちゃんと、置いてきたね」
シャッターの前に、
小さな影が立っている。
顔は、見えない。
僕は、聞いた。
ずっと、言えなかったことを。
「……僕さ」
「彼女のこと、忘れないまま」
「誰かを好きになっても、いいのかな」
影は、すぐに答えた。
「うん」
「だってね」
「想いを置いてきた人は」
「これからの人を、ちゃんと大事にできる人だから」
胸の奥が、
ほんの少しだけ、あたたかくなる。
スマホが震える。
00時02分。
職場の後輩からのメッセージ。
『今度、みんなで飲みません?』
画面を見つめて、
僕は、少しだけ迷ってから、
短く打った。
『行きます』
送信。
ポケットの中で、
小さな指輪を、そっと握る。
彼女は、まだ、胸の中にいる。
でも。
僕の時間は、
もう、
止まったままでいなくていい。
夜の通りを、まっすぐ歩きながら、
小さく、ひとつだけ、心の中で言った。
――行ってきます。
今度は、
置いていかない人生のほうへ。
ーー最終章「かえれなかった、私」
その店は、最初から、存在していなかった。
地図にも、記録にも、
誰の思い出の中にも、
本当は、残らない。
――残るのは、
胸の奥に、どうしても埋まらなかった場所だけ。
私は、いつも同じ場所に立っている。
ネオンがにじんで、
看板の文字が読めなくて、
ドアの前に立つと、
少しだけ胸が痛くなる場所。
人はそれを、
「かえれる店」って呼ぶ。
でもね。
本当は、違う。
あそこは、
“かえれない場所”を持った人の前にだけ、
浮かび上がるだけ。
私は、ずっと分かっている。
この店は、
建物じゃない。
バーでもない。
誰かの後悔が、
かたちを持っただけの場所。
だから、
23時59分にしか、開かない。
一日が終わる直前。
言い訳も、やり直しも、
全部が間に合わなくなる、その一分前。
私は、その前に立って、
声をかけるだけ。
「ひとつだけだよ」
「ちゃんと、置いていける?」
顔は見せない。
名前も言わない。
だって、
私は――
この物語の中の誰かじゃなくて、
この場所そのものに、
一番近い人間だから。
……私も、昔。
あのドアの前に、立っていた。
まだ、
制服のままで。
スマホも持っていなくて。
世界がこんなに簡単に、
誰かを置き去りにするなんて、
知らなかった頃。
きっかけは、
とても、くだらないことだった。
放課後。
少しだけ寄り道をして。
門限に遅れそうで。
家に帰ったら、
きっと怒られるって分かっていて。
それでも、
あの人と話していたかった。
「あと五分だけ」
そう言った。
本当に、
それだけのつもりだった。
でも。
その五分の間に、
世界は、
私の帰る場所を、
奪ってしまった。
家の近くで起きた事故。
信号を無視した車。
横断歩道。
巻き込まれたのは――
私じゃなかった。
迎えに来てくれていた、
お母さんだった。
連絡が来た時、
私はまだ、
笑っていた。
知らなかった。
知らなかった、じゃ済まないことを、
この世界は、
いとも簡単に置いていく。
病院の白い廊下。
誰かの泣き声。
医師の口が動くのを、
ただ見ていた。
「……ごめんなさい」
その言葉を、
私は、最後まで聞けなかった。
聞いた瞬間に、
全部、
私のせいになる気がして。
それから私は、
一度も、
泣かなかった。
泣いたら、
きっと言ってしまうから。
――私が遅れたからだ。
――私が寄り道したからだ。
――私が、
帰りたくなかったからだ。
そんな言葉を、
世界に出してしまったら、
もう、
生きていけないと思った。
だから私は、
心の中に、
小さな部屋を作った。
誰にも見せない場所。
後悔だけを、
ぎゅうぎゅうに詰め込む場所。
毎日、毎日、
「もしも」
「もしも」
「もしも」
を並べて、
あの日を、
何度も、
やり直した。
……そして。
気がついたら。
私は、
前に進めない人になっていた。
時間は進んでいるのに。
周りは大人になっているのに。
私だけが、
あの横断歩道の手前で、
立ち止まったままだった。
その夜。
初めて、
あのドアが現れた。
看板の読めない、
小さなバー。
ネオンのにじんだ光。
私は、
迷わずドアノブに手をかけた。
だって、
「かえりたい」
って、
心の底から思っていたから。
ドアの向こうにあったのは、
思い出でも、
夢でもなかった。
“私が選ばなかった未来”だった。
お母さんが、
台所で笑っていて。
私が、
少し遅れて帰ってきて。
「おかえり」
って言われるだけの世界。
触れられなかった。
声も届かなかった。
でも、
分かってしまった。
あそこは、
戻る場所じゃない。
あそこは、
“置いていくための場所”なんだって。
私は、
あの時、
置いてきた。
お母さんを失った悲しみじゃない。
――自分を許さない気持ち。
ずっと、
一番重たかったものを。
ポケットに残ったのは、
小さなキーホルダーだった。
事故の日、
お母さんに渡すつもりだったやつ。
それだけで、
十分だった。
胸の奥の、
あの部屋は、
完全に消えたわけじゃない。
でも。
後悔を閉じ込める場所から、
誰かを思い出す場所に、
変わった。
……だから、今。
私はここにいる。
前に進めない人の前にだけ、
現れる場所で。
声をかけるだけの存在として。
「ひとつだけだよ」
それは、
試しているんじゃない。
選ばせているわけでもない。
ただ――
その人が、
自分で、
置いていける瞬間かどうかを、
見ているだけ。
人はね。
後悔を失うと、
薄情になるんじゃない。
後悔を抱えたままでも、
歩ける形に、
変えるだけなんだ。
哀愁を置いていった人も。
約束を置いていった人も。
言葉を置いていった人も。
仕事を置いていった人も。
想いを置いていった人も。
みんな、
何かを捨てたんじゃない。
「前に進めなくしていた形」を、
置いていっただけ。
だから私は、
いつも最後に言う。
「ちゃんと、置いてきたね」
それは、
さよならじゃない。
合格でもない。
ただの、
確認だ。
――あなたはもう、
その後悔の持ち方を、
変えられた。
それだけ。
……私がここにいる理由は、
たった一つ。
私自身が、
この場所に、
救われた人間だから。
それに。
あの時の私みたいに、
後悔の中でしか
自分を保てなくなった人は、
思っているより、
ずっと多い。
顔を見せなくてもいい。
名前を言わなくてもいい。
ただ、
影でいい。
声だけでいい。
その人が、
自分の足で、
夜の通りに戻っていく瞬間を、
見届けられれば。
それでいい。
今日も、
また一人。
ドアの向こうで、
何かを棚に戻す音がした。
時計は、
23時59分。
そして、
00時00分。
ドアが閉まる。
私は、
シャッターの前に立って、
いつもの言葉を、
小さく落とす。
「ちゃんと、置いてきたね」
顔は見えなくても、
分かる。
その人の歩幅が、
ほんの少しだけ、
前を向いたこと。
……それで、十分だ。
だって。
この店は、
帰るための場所じゃない。
“生きるほうへ戻るため”の場所だから。
そして私は――
かえれなかった人じゃなくて、
かえれる人を、
見送る側になっただけ。
それが、
あの夜、
私が選んだ、
たったひとつの未来だった。
〜fin〜
――後書き
ここまで読んでくれて、ありがとうございます。
この物語を書きながら、ずっと考えていました。
人は、
いちばん手放せないのは
「人」でも
「思い出」でもなく、
自分を責め続ける理由なのかもしれない、ということを。
後悔は、とても静かで、
とても居心地がいい場所です。
「私のせいだった」
「もっとできたはずだった」
「本当は違う選択があったはずだった」
そう思い続けている間は、
あの日の自分のそばに、ずっといられるから。
前に進まなくていい理由にもなってくれるから。
この物語に出てくる人たちは、
誰ひとり、過去を捨てていません。
忘れてもいません。
ただ、
後悔の形だけを置いてきたのだと思っています。
約束を置いてきた人も、
言葉を置いてきた人も、
想いを置いてきた人も、
仕事を置いてきた人も。
みんな、何かを失ったままです。
でも、
その「失い方」を、少しだけ変えました。
そして最後に残った「私」は、
かえれなかった人ではありません。
誰よりも、
かえれなかった場所を知っているからこそ、
かえれる人を見送れる人になっただけです。
この話に出てくる店は、
特別な場所ではありません。
きっと、あなたの中にもあります。
夜に、ふと立ち止まってしまう場所。
考えなくていいのに、考えてしまう場所。
何度も同じ場面を、心の中で再生してしまう場所。
そこが、
あなたにとっての「かえれる店」かもしれません。
もしこの物語を読み終えたあと、
ほんの少しだけでも、
・今日はちゃんと休もう、と思えたなら
・誰かにひとこと連絡してみよう、と思えたなら
・自分を責める言葉を、ひとつ減らせたなら
それはきっと、
あなたがもう、何かを置いてきた証です。
前に進めなくなっていた形を。
最後に。
この物語は、
強くなる話でも、
立ち直る話でもありません。
それでも生きている、
そのままのあなたが、
少し楽に息をできる場所を
描きたかっただけです。
今日も、どこかで。
誰かが静かに棚に戻す音がして、
ドアが閉まって、
夜の通りに戻っていく。
そんな気がしています。
あなたも、どうか。
置いていかなくていいものまで、
無理に抱え続けませんように。
そして、
あなたの歩幅で。
ちゃんと、生きるほうへ戻れますように。




